https://yonosuke.net/eguchi/archives/16363で「キモくて金のないおっさん」という言葉を久々に目にし、かつて別のところで書いたこんな文章を思い出して再掲。
http://wezz-y.com/archives/50640
この文章があまりに酷いので、誰か一人くらいどこが酷いのか指摘しておくべきじゃないかと思いました。北村紗衣さんという方の文章で、書籍にも収録されています。
「キモくて金のないおっさん」というネット用語がある。キモくて金のないおっさんには誰も注目しないじゃないか、という異議申し立てのための言葉である。しかし、文学はずっと昔から「キモくて金のないおっさん」を扱ってきたので、その中から特に2作を紹介する。というのが上記文章の趣旨です。
取り上げられているのはスタインベックの『二十日鼠と人間」とチェーホフの『ワーニャおじさん』です。ここで問題にしたいのは『ワーニャおじさん』の方です。ワーニャおじさんを「キモくて金のないおっさん」の一例として扱うのはシンプルに間違っているし、そもそも作品を誤った形で紹介しているし、チェーホフにも『ワーニャおじさん』にも「キモくて金のないおっさん」にも失礼だ、というのが私が以下言いたいことです。
「キモくて金のないおっさん」という、そもそも定義が曖昧というか、明確な定義なんかあるわけない用語の意味するところには不毛なので立ち入りません。シンプルに「キモい」「金がない」「おっさん」という3つの要件にわけ、それに『ワーニャ伯父さん』の主人公ワーニャさんがあてはまるかのみを問題にしてみます。
まず、作中年齢47歳のワーニャが「おっさん」にあてはまること、これは間違いありません。
一方、上記文章中でも一応断りはありますが、ワーニャが「金がない」は明らかに無理があります。理由は単純、ワーニャは19世紀末ロシアの地主階級の人間で、実際に相応の広さの地所を管理し、その地所からの上がりで食っている人間だからです。地主階級の中では決して経済的に恵まれている状況ではないことは作中で描写されていますが、社会全体の中で見れば断じて「金がない」人間ではない。
ある頃までの文学は基本的にブルジョアのものであり、働かなくても食っていける人間しか出てこない作品も多いのは事実です。その中で比べれば、ワーニャは相対的には「金がない」かもしれない。でも、チェーホフという人は自身が3代前まで農奴の身分で、父親は破産し、短編小説を書き出したのも家族を養うため、作家兼医師として働きづめの人生を送り、作品の題材の多くをロシアの普通の人々に求めた作家でした。日々働いてもぎりぎりの生活しか送れない人を主人公に据えた短編小説をたくさん書いていますし、そもそも『ワーニャおじさん』中にも地所で働く下層階級民の姿はきちんと描写されています。チェーホフの描いた世界全体の中でも、『ワーニャおじさん』という作品単体中でも、ワーニャは断じて「金がない」人間ではないのです。チェーホフはそのような意図でワーニャを描いていないし、実際、作品中でもそのような存在とはなっていない。まずこの点で、ワーニャが「キモくて金のないおっさん」だというのは明らかに間違っています。ワーニャが「金のないおっさん」なら、港区の地主の息子だって「金のないおっさん」になってしまいます。
「金がない」点については、北村さんも文中で触れているのでまあいいです(ただし、なぜ「金がある」人間を「金がない」扱いするのかという説明にはなっていません。「金がある」人間は「金がない」人間ではありません。)。はるかに酷いのはワーニャを「キモい」にあてはまる存在だとしている点です。先に断っておくと、チェーホフは多くの作品で美点を見出しがたい人間を取り上げ、そのような人物に対しても何らかの同情の念を読者に起こさせてきた、これは事実だと思います。でも、『ワーニャおじさん』におけるワーニャはそもそもそのような人物ではない。単純に言ってしまえば、ワーニャは「キモい」人物としては描かれていないのです。
文章中、ワーニャが「キモい」理由として具体的に取り上げられているのは、実は「エレーナに10年前(20年前は誤記です)に求婚していれば、エレーナは今ごろ俺の妻だったかもしれないのに…」と妄想していたという1点だけです。北村さん自ら書いていますが、そもそもこれは妄想であり独白です。この後、確かにワーニャは人妻であるエレーナに愛を告白しますが、別に上記のような妄想を彼女にぶつけたわけではありません。北村さんがワーニャより上等な人間であるとするアーストロフだって、エレーナに告白します。妄想を膨らませた程度のことで「いわゆるキモいおっさんであることを残酷なまでに明らかにしています」は作品の解釈として明らかに飛躍があり過ぎます。
ワーニャが「キモい」存在であることの根拠を一箇所しか上げないかわりに、北村さんの文章は、随所随所に読者がワーニャに対し「キモい」という感情を抱いてしまうような主観的な描写をはさんできます。
北村さんはワーニャの結末について、「財産のことで逆上して大騒ぎ」したと書きます。確かに、ワーニャと教授の間で財産について争いが起こり、ワーニャは教授をピストルで撃とうとします。でも、「逆上して大騒ぎ」という書き方は、普通に読めばワーニャが自身に理のないことで勝手に騒いだかののような書き方です。でも、そうでしょうか。
事実関係を整理すると、問題の地所の物語時点での名義人は、教授と先妻の間の娘であり、ワーニャの姪であるソーニャです。ソーニャは地所を母(教授の先妻)から相続しました。ロシアの法制度に詳しいわけではありませんが、多くの国の例に漏れず、その頃のロシアも夫婦別産制だったはずです。つまり、婚姻期間中も土地は妻の単独名義であり、妻が亡くなった際にも配偶者には相続の権利はない。相続権があるのは子だけです。要は、教授は地所についてはまったくの無権利者なのです。
もともと地所を購入したのは先妻の父(ソーニャの祖父)で、娘が教授のところに嫁ぐ際の持参金として土地を購入しました。土地の購入代金を一括で支払うのは厳しかったので、一部は借金しました。その借金はワーニャが土地の上がりから返済しました。地所の管理は、現在はワーニャとソーニャが2人で行なっていますが、借金はソーニャが生まれる前のことなので、借金返済のために立ち働いたのは基本的にワーニャです。
先妻の父が死に、ワーニャの妹が土地の所有権を相続し、名実ともに妹の土地になりました。その際、ワーニャは自身の相続分を放棄し、妹に単独で相続させてあげています。その妹も亡くなり、ただ1人の子であるソーニャが相続した、という経緯です。
ソーニャの所有する地所を、ワーニャとソーニャが2人で管理し、2人は上がった利益の中から教授に長く仕送りをして、教授の生活と研究活動を支えてきました。ところが、教授は退職し、土地からの上がりも減ってきたことから、土地を売却して利益を投資に回そう、と提案してきました。そこでワーニャが怒った、というのが「逆上して大騒ぎ」の経緯です。これ、逆上でしょうか?
教授は地所については無権利者です。しかも、地所に住んでいたわけでも、管理をしていたわけでもない。ただ、一方的に仕送りを受けてきただけの立場です。その人間が、利益が上がらなくなってきたからといって、独断で土地を売っぱらおうとする。ワーニャじゃなくたって怒って当然じゃないでしょうか。
しかも、「あんたの土地じゃないし、長くここに住んできた俺たちはどうなるんだ」と聞いても、教授は「そんな難しいことは分からない」ととぼけるばかりです。ピストルをぶっ放すのはやり過ぎにしても、この経緯で怒ることを「逆上して大騒ぎ」などと形容されたらたまったものではありません。
自分が誰の働きで食えてるのかもろくに考えず高等な人種のつもりの教授と、その教授を支えるため田舎で働いてきて気が付けば人生に行き詰っていたワーニャ。この構図は誰が読んでも明らかなのに、それをわざわざ「逆上して大騒ぎ」などという言葉で形容する。ワーニャに「キモい」印象を与えようという操作が露骨すぎます。
「チェーホフ全集」の後書きにこんなエピソードが書いてありました。
チェーホフの存命中、ロシアのある地方都市で『ワーニャおじさん』が上演された。その舞台では、ワーニャ役の俳優が自堕落な地主として演じ、長靴を履き、百姓風のルバーシカを着ていた。要するに田舎者のステレオタイプということでしょう。当時のロシア演劇では地主といえばそんな風に描かれるのが普通だった。それを聞いたチェーホフは怒って言った。「それじゃいけませんよ、いいですか。わたしの戯曲にはこう書いてあるのですよ。彼はすてきなネクタイをしている、って。すてきなのをですよ! ね、地主たちは、われわれやあなたがたよりもいい身なりをしているのですよ。」
このエピソードを紹介したのはメソッド演技の源流となるスタニラフスキー・システムで有名なスタニラフスキーです。スタニラフスキーは続けて書いています。「問題はネクタイではなくて、戯曲のイデーなのだ。才能ある人物のアーストロフや詩的にやさしいワーニャは片田舎の暮らしで朽ちて行くのに、鈍物の教授は首都ペテルブルグで楽しく暮らし、似たり寄ったりの連中とともにロシアを支配している。これがネクタイのト書きにこめられた意味なのだ。」(スタニラフスキー『モスクワ芸術座におけるチェーホフ』)
これでも、ワーニャは「キモい」のでしょうか?
今は人妻となっている女性との「あり得たかもしれないロマンス」を妄想する。財産のことで怒りのあまりピストルを持ち出す。自殺をたくらみ医師アーストロフのところからモルヒネを持ち出すが、見つかってしまい自殺もできない、というか多分はじめから本当にやる気はない。こういう断片だけ取り出し、著者の考えるところの「キモくて金のないおっさん」像にあてはめ、チェーホフだって「キモくて金のないおっさん」を書いていたんだと言い張る。女性観が歪んでいて、被害者意識が強く、些細なことで大騒ぎする小心者。「キモくて金のないおっさん」のことをそう考えるのは自由ですが、ワーニャおじさんはそういう作品ではありません。権威付けなのか何なのか、古典を歪めて持ち出すのは「キモくて金のないおっさん」論そのものより下品で、キモいです。