谷原章介(俳優)★ファミリーヒストリー★祖父の生涯
谷原章介は、NHK大河ドラマ「竜馬」で木戸 孝允役(桂 小五郎)を演じた俳優。彼の祖父準造は誰にも語らなかったが、太平洋戦争、つまり国家の歴史の波に翻弄された生涯だった。今年五月に、NHK「鶴瓶の“家族に乾杯”」で広島県三原で谷原家のルーツを探し て、墓をみつけた。それがきっかけでファミリーヒストリーにつながったようだ。
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この祖父準造は、村一番の神童といわれた秀才であったが、学資も生活費も出せない家であった。子供のころから、商船船長になりたいと思っていた。あるとき、陸士(陸軍士官学校)、海兵(海軍兵学校=兵科、機関科,経理科)、高等商船(高等学校)は、学費と寮費が無料で教育が受けられると知った。これら三校が難関校の代名詞であった。
今無料で大学があるのは、防衛大学校、税務大学校、あとなにがあるだろう。企業内学校があったが、今もあるだろうか。知っている人がいたら、後進のために教えてください。
1923年関東大震災の年、それ以来、必死に勉強して、全国から秀才が集まる競争率4倍の試験を突破して、祖父準造は合格した。東京商船高等学校(=現、東京海洋大学、東京都江東区越中島)
第一次世界大戦後、日本は外国との貿易量が急激に増えて、そのため優秀な船員の養成が国家としての急務であった。
その商船学校の生活ぶりが記録映画として残っていた。そのなかで、教官が生徒たちに語っている。
「我々は、自己の職務に対しては
死しても責任感がなければならない。
責任感と犠牲的な精神
勇気と忍耐力
規律と服従
その精神こそ、すなわち越中島精神である。」
海に生きる男が忘れてはならないものは、シーマンシップ、なにより責任感を持て、と叩き込んだ。
準造は、持ち前の我慢強さで厳しい訓練を耐え抜いた。1929年(昭和4年)卒業。ほぼ6年在籍したようだ。
卒業後は、満州大連にある商船会社大連汽船に入社した。当時、大連汽船は、日本郵船、大阪商船と並んで業界大手であった。満鉄の子会社で、大連から日本や中国各地へ航路を拡大していた。目の前に大きな将来が開けているのを実感した。
その当時、章介の祖母になる照子が大連駅の近くの“うなぎ屋鳥彦”で働いていた。男装の麗人川島芳子も、何度か食べに来た店である。
彼女は、大連へ嫁いでいた姉を頼って、鳥取県から来ていた。見合いを勧められて、目の前に現れたのが船乗りの制服を着た準造であった。
まもなく結婚して、すぐに子宝に恵まれた。四人兄弟の末っ子国彦が、谷原章介の父である。仕事も家庭も順調であった。そんな準造が任務を命ぜられたのが、貨客船「北京丸」一等航海士として乗船することだった。北京丸は、大連汽船が社運をかけて建造したものであった。最新鋭の装備を備え、砕氷する機能もあった。大海原をすべるように進む北京丸は、準造の将来を現すようであった。最新鋭の乗船する喜びを痛感した。
その後、各種の船に乗り、経験をつんで、船長になる。昭和15年4月に一進丸1447トンの船長になった。次に崑山丸2733トン。制服の袖に4本の線が入った船長服に身を包む準造は、このあと、大きく運命が旋回していくのである。
1941年(昭和16年)召集令状が準造の届いた。
高等商船卒業生は、ひとたび戦争になったら、すぐ軍人になる予備士官となる立場であった。当時3歳であった国彦は、当時のことを覚えている。
薄暗いところに公報が届いたので、「赤紙が来た」といっそう暗くなった気がした。みんなが下向いて「お父ちゃんが行ってしまうんだ」と思っていた。行けば戦死することは覚悟の上である。準造は家族に別れの言葉を告げた。
準造が命ぜられたのは、軍艦に改造された「北京丸」の船長であった。前方に大砲1つ、後方に大砲が二つ。改造戦艦は、特設と頭に名づけた戦艦である。貨客船を改造した特設戦艦北京丸の船長となった。
戦艦不足を軍部は、民間の商船を徴用して、戦艦に改造して特設戦艦にして間に合わせた。大型客船沖鷹を特設空母に改造した。戦時中、約70数隻が戦艦に転用された。間に合わせの改造であるから、それらの戦艦は装備不十分であるから、弱点を見抜かれて、米軍の餌食にされた。日本軍はこれらの特設軍艦は商船の護衛に主に使われた。
1944年(昭和19年)6月21日
船長谷原準造、特設戦艦北京丸は、商船護衛のため、中国海南島に向かって出港した。鉄鉱石を積む輸送船の護衛の任につくため佐世保を出たのである。日本近海にも、アメリカ潜水艦が出没していたので、警戒が必要になった。
台湾高雄、フィリピンマニラを経由して、海南島を目前にした7月10日、深夜突然轟音が鳴り響いた。アメリカ軍の攻撃だった。探信儀(ソナー)の電源を入れても、ソナーが機能しない。
ソナーの機能が失われ、潜水艦のエンジン音、スクリュー音を探知できない。目くら同然である。
探信儀故障で北京丸は敵の潜水艦の位置や浅瀬の有無がわからないでは、危険と察し、船長準造は、修理のため台湾の高雄へ引き返す決断をした。
ところが、次第に波が高くなり、猛烈な暴風雨となってきた。北京丸はルソン島の西を航行していた。台風の目が次第に北京丸の西に向かって近づいてきた。台風の進路をつかむことができなかったので、洋上で台風の過ぎるのを停船して待つしか方法がなかった。
北京丸主計官中西の手記によると
「山のような波と激しい風に向かって木の葉のように揺れながら、一昼夜以上、一地点で静止しているような時間をすごしていた。
天測でしか、位置を知るしか方法がない状態でありながら、天候は二昼夜太陽も出ず、船団の位置を知る方法もなかった」
7月21日深夜、船底をこする音がして、
「しまった。座礁だ」エンジンをフル回転して、脱出を試みるように指示した。自力での脱出を試みたが、北京丸は動かなかった。
夜が明けると、駆逐艦春風が救助に来たが、しかし、波が高く近寄ることもできず、救助は失敗。春風から、ボートを下ろし、北京丸に近づき北京丸へロープをつなぐ工夫などしようと、北京丸にはしごをかけて上ろうとした。しかし、北京丸に取り付いたとき、救助のボートが波で転覆して、万策尽きてしまった。
船長谷原準造は、戦艦と100人の乗組員の命を守る責任があった。その座礁して身動きのとれない北京丸を監視していた一隻の潜水艦があった。アメリカ潜水艦アスプロの船長ウイリアム・スチーブンソンは、命令した。
「魚雷を装填せよ」
北京丸から1800メートルの距離から、潜水艦アスプロから魚雷が発射された。
北京丸は、座礁して数日たっていた。救助の戦艦も来ず、船員は、台風一過の穏やかな天気で、のんびりと緊張感も緩んでいた。
アメリカ潜水艦からすると、航行中の船とは違って、北京丸は座礁して動かないから、狙いやすかったのだろう。船の命、機関室を狙って打ち出され爆発した。
ドドーンと機関室を魚雷が命中して、水蒸気が高く上がり、甲板に いた船員は裸でいたものは、破裂爆発の破片で怪我をしたり、死亡者は約10名。7月28日午後3時27分。
「全員戦闘位置につけ!」
しかし、瞬く間に、火災は全艦に広がり、消火は出来ないと判断した船長命令で「全員、船を離れろ!」と。準造は全員が下船したか、くまなくまわって、全員下船したとわかったのち、最後に離船した。
その後、北京丸は炎に包まれて、沈没した。血だらけの船員が海にあふれたが、夏の海で、島から1500メートル程度であったし、昼の明るい時だったのが、幸運であった。
終戦後は、準造は、引上げ船の船長を務め、それが数年続き、そしてから家族のもとに帰った。その後は、水先案内人の試験を受けて、数年水先案内人を務めた。戦争中の出来事は、家族には一切語らなかったが、北京丸の電信員だった人、今89歳の部下などが証言しているが、落ち着いて、小柄な西郷隆盛の印象、と語っている。
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コメント
すばらしいまとめですね。
深夜眠い目をこすりながら視聴しました。
谷 原さんの目からほろりと涙がこぼれたのが印象的でした。
今も海底に沈んでいる北京丸、何をかいわんや。
無記名様
谷原準造さんの心の内がファニリーヒストリーから感じられます。歴史の谷間で揺り動かされた一人の日本人、誠実な生き方に共感するものがあります。特に日本の風潮が右旋回している今、近代史を振り返るときかもしれませんね。nozawa22
投稿: 無記名 | 2012年10月19日 (金) 10時12分