サムライドラマ

 

わがサムライドラマへの熱狂は隠れもなし。

なんちて。

むかしから、チョンマゲで大刀を腰に挿した人間が画面に出てきさえすれば、それだけでもう「ダイスキ」なので、おかげで、「〇〇という日本映画はおもしろかったよ」と述べても、それが時代劇であるとバレると、いまや誰にも観てもらえない。

新婚時代の昔から、モニには呆れ果てられていて、いまの新居に引っ越すときの口述契約のひとつは「ラウンジで時代劇を観ないこと」だったよーな気がする。

手と足が同時に出る「サムライウォーク」を練習したり、日本刀を買い込んで来て、ボクシングの練習もさぼって、裏庭で奇声をあげて杭をぶったぎっていたりして、ダイジョーブか、ガメ、の数多の理由をなしています。

初めは「七人の侍」だった。

小津フリークとしては、初めての黒澤映画、というか「小津以外映画」で、ふり返ると、幸運だったとおもっています。

普段の言動から、当然の予測がつくごとく、「ゴジラ」の元北京大学教授(←すごい設定)の山根教授を演じた、わし永遠のアイドル志村喬つながりで観て、三船敏郎の魅力開眼もあるが、七郎次や久蔵の無限のカッコヨサ、いまではクリシェに思えるくらい英語でも、よく知られた

「勝ったのは百姓じゃ」まで、もうほとんど、世界観の基礎をなすくらい、都合、二十回くらいは観たのではないか。

わし家に来た人は、昔から知っているが、よっぽど仲良くなければ案内されない車庫とは別のカーポートの裏側には離れがあって、そこには鎧甲冑が並び、直刀の鎌倉古刀から始まって、江戸期の、小さな声でいうと、ほんとは日本にないといけないんじゃないの?な、江戸期の、優雅を極める、人間など切ってはもったいない細身の反りが美しい刀に至るまで、日本刀が並んでいる。

ガキわしのころから、馬さん達は、depressionに陥り易くはあっても、人間よりは、よっぽどマシな友人で、自分のガタイがでかいので、あんまり小さな馬は持っていないが、そのなかでも比較的小ぶりな馬には、背に乗せる、鎌倉期の馬鞍も、もちろん持っていて、ここまで書けば、むかしからの日本語友は、とっくに予期しているとおもわれるが、実家(田舎家のほう)にはポロの練習場の横に流鏑馬のコースも用意されている。

好きなんだよね、サムライ世界。

さっきこそ、わし畏敬の友「書記どん」@yamakaw

と話をしていたところだが、わしが観ているものは正統な「時代劇」ではなくて、「サムライドラマ」にしか過ぎないことには、自覚があります。

知識に限っていえば、多分、ほとんどの日本の人よりも多岐にわたって、うんとうぬぼれていえば、それなりの深度も伴って、日本の人よりも知っているが、文化というものは、案外意地悪なもので、英語文化について蘊蓄を述べている日本の人の書いたものを読んでいて、よく思うが、

その文化の外で育ったものには超えられない壁のようなものがある。

まあ、でも今回は、わが友オダキン @odakin がしつこく「鎌倉殿の13人」や「どうする家康」を薦めたからだということにして、少し、自分の、サムライドラマへの浅薄な理解と、陶酔について述べようとおもいます。

たとえば昔でいう「トレンディドラマ」でワイングラスを傾けるカップルが出てくるでしょう?

英語の人のビョーキで、あれが、素直に観られない。

サルマネ、というような極端過激な言葉で考えているのではなくて、なあんとなく、しっくりこない。

なぜなのか、正直、理由がわかりません。

ところが、ところーが。

黒田官兵衛が光(はる)殿と、どちらかといえば朝鮮文化的な、盃を傾けていると、なんだなんだ、どうしてこのカップルは、こんなにカッコイイんだ、とおもう。

そういう直観から入って、だんだんはまり込んでいくと、サムライドラマには、日本の人の本来的な世界観、死生観、なぜ打算が哲学的な次元にまで高まっていったかのヒントに満ちている。

NHKの時代劇「大河ドラマ」でいえば、「麒麟が来る」や「軍師 黒田官兵衛」は、ハンバーガー屋の壁装飾バックスクリーンに映るエキゾティックドラマのひとつのように観ているだけだとも言えるが、他に観るものがないときには、起きているあいだじゅう「上映」されていて、ときどき、チラ見しては、「竹中直人の羽柴秀吉は、なんという適役だろう」とか、上﨟姿を模したような、着物姿の中谷美紀さんは、なんて凛として美しいのだろうと、単純に感嘆する。

シリーズもののサムライドラマの良いところは、生まれて、なにがなんだか訳もわからず、無我夢中で、おおきな部分はただひたすらに運に依存して、成長して、カッコワルイクリシェを敢えて使えば「青雲の志」を抱いて、人間関係や運命に翻弄されて、たいていは60年に満たない人生を駆け抜ける、日本人の姿を描くことによって、他国人に、「日本にはマジな文明があったのだ」ということを、これ以上たしかなやり方はないくらい、たしかな方法で西洋の分からず屋衆にわからせる。

言葉を変えていえば現代の日本よりも、遙かに「普遍的」な人間像を、西欧人に証言する。

ネガティブな面を述べると、サムライドラマを観ていると、

ほんとうは、こっちのほうが、日本人の美学に適った行き方で、明治以降の西欧化された日本人の世界観などは、「付け焼き刃」にしか過ぎないのではないか、という気持ちのたかまりを抑えられなくなってくる。

サムライドラマの世界、あるいは世界観は、西欧世界にとってのタブーに満ちている。

そこにあるのは西欧的な個人主義の徹底的な否定、それどころか西欧的価値を金輪際認めない、江戸時代に成立して新渡戸稲造の手によって西洋に普及した「武士道」とは、また異なる、日本本来の、鎌倉時代以来の「真武士道」とでもいうべき、武士の世界です。

家名大事、われ一個の生命などなにするものぞ。

八幡大菩薩も御照覧あれ、われこそは源のガメなり。

しかし、そのプライドや、西欧とは基盤も、由縁も、質と目的もことにする個人主義の自然さを、いかんせん。

サムライドラマを観て感動して、涙をぬぐうたびに、やっぱり日本の人には西欧の個人主義や自由主義、まして民主「主義」なんて似合わないようなあ、と考える

きみ、ほら、笑っているでしょう?

バカなんじゃないの?って

あのね、居直るわけではないが、わしは昔から西洋基準では一種も二種もない、バカなんです。

西洋の価値だけが、この世界の価値であるはずがない、と思い込んでしまっているバカなのね。

それでも、サムライドラマには、なんだか、わしが、拡大して言ってしまえば、西欧語世界が1917年に逼塞して、窒息するに至った、文明の死を、甦らせるヒントが眠っている気がする。

日本語人が、自己を忌憚なく実現し、表現していくのに、ほんとうに西欧から翻訳された文化は適しているのか?という疑問が、わしには常にある。

他民族に対して、「あなたたちの努力は初めの前提のところから間違っていたのではないか」と述べるのは、たいへんな無礼で、やってはならないことだが、

それにしても、

とおもうところがあるのです。

日本人は戦国時代というuniverseを持っていた。

その宇宙のなかで、とことん考え抜き、どうすればいいか判断し、叡知の限りを尽くして行動した。

案外と、いまの世界でも、他世界に目を移すよりも、自分たちが「必死で考え抜いた記憶」に、

いまのdoomedな日本が、再生されて、生き延びるためのヒントがあるのかも知れません。



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1 reply

  1. ちょうど先日、

    「日本人は悪魔を表現することを抑えているのかもしれない。」
    https://number.bunshun.jp/articles/-/851530?page=3

    と言う記述を読みました。

    > ところが、日本人は信じられないほどの闘争心を発揮することがあります。以前、読売ジャイアンツの原辰徳監督に話を聞いた時に、「日本人は心の中に悪魔が棲んでいて、時としてそれが表現される時があるんです」と話していました。もちろん、この場合の「悪魔」とはポジティブな意味で捉えてください。なるほど、と思いました。

    > 日本人は悪魔を表現することを抑えているのかもしれない。教育がそうした感情表現を押さえつけてきた結果かもしれません

    と言う箇所が、今ここで書かれている

    > 日本語人が、自己を忌憚なく実現し、表現していくのに、ほんとうに西欧から翻訳された文化は適しているのか?という疑問が、わしには常にある。

    という部分と重なると思いました。自分自身、明治期、および戦後といった機会に若い人々が伸び伸びと才能を発揮せるようになったのは、普段はこうした内に秘められた才能が抑えつけられているのではないかと思っていたところです。しかしながら、この内に秘められた「悪魔」は時としてマイナスに働いてしまうわけで、ここのあたりはもっと注目されて考察されるべき日本語人の性質なのではと思います。

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