能町みね子マイブームで仕入れた本もこれがトリ。能町さんが長く住んでいた牛込の「加寿子荘」を巡る話です。エッセイというよりも、私小説みたいなテイストで、落ち着いていてなかなかいいです。いやね、「結婚の奴」と「オカマだけどOLしてます。」とのテイストの落差に実は首をひねってたのですが、「お家賃ですけど」が「結婚の奴」に続いていく「私小説」のとっかかりのようですね。
で、この加寿子荘、昭和レトロ、というのか昔の大きな一軒家を分割して下宿にしたような、私の学生時代にもよくあった、複雑怪奇でツッコミどころ満載の間取りの老朽アパートです。共用の下駄箱に靴を入れて、階段上って自分の部屋に...懐かしいですね。ですから、お風呂がありません。
能町さんらしい「ひねり」というか、最初この「加寿子荘」を借りたときにはまだ男で仕事してた頃。で、トランスしてホルモンを使いだしたから、さすがに銭湯にはいけなくなってしまい、泣く泣く別な風呂付アパートに移ります。しかし、加寿子荘でも唯一風呂がある部屋が空いたことを知って、今度は「女」で再度入居しなおします...不動産屋さんもびっくり、家主の加寿子さんもびっくり。で、OLをしながら、この加寿子荘と牛込界隈の下町を楽しんで生活する、というのがメインです。
まあ、ですからその旧式のバランス釜の風呂も、故障すると困ります。友人宅で貰い湯、とかね、そんなことで急場をしのぐ話もあります。このOL勤めも、無事タイ旅行の資金がたまったこともあって、タイで性転換手術。しかし、「たのしいせいてんかんツアー」で描かれたように、持病側の問題が起きてしまって、結局帰国してもそのまま持病で入院&手術、そして3か月も空けた加寿子荘にようやくの帰還...というあたりまでの話です。
いやね、これほど健康問題が大変とは思いませんでしたよ...いろいろ調べると、どうやら心臓ペースメーカーをこの時入れたようですね。
この方の独特の観察眼、というのは、「ガラスの壁でも間にあるみたいに一歩引いたスタンスがあって、そのため現実感が薄らいで、奇妙にまた興趣をもって見える」というような側面があるようにも感じます。いやね、これって「雲の上に乗ってきた」と言うような、トランスの独自の「人生から一歩引いて物事を捉えざるを得ない」ような感覚性にあるようにも思うんですよ。やはり「男のようなフリ」をして生きてきたわけで、「しなきゃいけない」んだけど、それが絶対に自分のモノにはならないのは十分に分ってる、という徒労と諦観みたいなもの? で、能町さんの場合にはさらに、その健康問題が結構響いてます。
それにしても、この期に及んでもまた、もうすぐ海外での大きな手術で体に加工をほどこすという現実感が薄い。
だいたい私いままでずっと雲の上に乗ってきたみたいな感じですから、たぶんこれからもずっと自分を小説か何かだと思っていくんだと、思う。その浮遊感に恐れをいだいて体を切り刻もうとする人がいることは分らんでもない。私は好きではないけれど。
前々から私は、ハタチそこそこにありがちな斜にかまえた諦念で、二十六くらいで死ぬんだろうな、二十七になる私というものは想像がつかない、などとたびたび口にすることがあったのですが、そんなこと言うものじゃない。あと数か月で私は二十七なのです。二十六という数字には何の根拠もないくせに、自分の言葉遊びにかんたんに翻弄されて弱気もおさまりがつきません。いやいや、27というのは立派な根拠がありますよ(苦笑)。ロックスターですから、地味女子の能町さんとは別ですが。いややっぱり30前、というのは結構な精神的な危機がありますよ。「このままオトナになっちゃって、いいのか?」
とりあえず学校出て就職して「世の中、こんなもん」という実相も見当がついてきます。しかも、トランスですから、「世の中に期待されているような人生計画って、自分には絶対無理」というのが実感としてタイムリミット付きで迫ってきます。勉強ができるなら、学校から就職までは、ただラインに乗ればいいだけなのです。そして、「世の中」の実際は、学校とは違って、いい加減で、デタラメなものだから、何がいいか悪いか自分で決めていくしかない....と開き直るしかなくなるんです。
私も健康問題で最初の就職をしくじって、リハビリを兼ねて地元で腰掛のつもりで就職し....で、30前に美術系大学院に入りなおしましたからね。やはり、この「30前の危機」がありましたし、能町さんの場合にはこれがタイ旅行になったわけです。
加寿子さんは、私が思う理想的な「昔の人」なのです。わたしが幻想上で作りあげたかのうようなしっかりとした昔の人がたまたま私の直下に住んでいたのだ。トランスによって、本当に「欲しい」と願いものは、「人生」という「モノ」なのですよ。「観客」でしかありえない、と諦めていた「人生」とやらに、「プレーヤー」としてやっと参入できる?という希望なのです。
私が勝手にうしろめたいきもちで憧れている、重く汚らしく、それでいて芯があり明るく前向きな昭和というものを、加寿子さんや私の祖母や両親は、重さも汚らしさも明るさも空気同然に吸いながら育て来たのであって、私はそのことにため息がでるほど底知れぬうらやみを持つ。
トランスという自らの中に本質的な分離を抱え込んだ自意識の中で、ふと即自的に「自分は自分だ」と疑いなく「ある」ことができる人々のイメージに、能町さんは憧れるわけです。まあ、甘い、といえば甘いんですし、昭和の「古い人」にもそれなりの固有の葛藤がいろいろあるには違いないです。でもね、自分が手に入れられない「単純さ」に強く憧れる気持ちは、わかりますよ。自らのピンチの局面だからこそ、そういう「単純な生」に対するあこがれが強く感じられて、それを加寿子荘に仮託して語った本だと思うんです。
いい本です。が、この平静さの裏にある「危機」を読み取るべきです。加寿子さん、「結婚の奴」でもちょっとだけ出演してますが、認知症が出てきているみたいで哀しいです。能町さんも私も、加寿子さんみたいなおばあちゃんに、なれるかな?
コメント