去年末くらいに出て、出たことは知ってたけども、私が絶賛落ち込み中で手が回らなかった作品。


もちろんお名前は昔から存じ上げてましたし、ブログも見たことありますが、面識はありません。ツイッターの上でも「こっち側」の人。けどね、この方ミリ趣味とかあるのよね。もともとのパソ通だって「EONネット」って名前。トランス系とはいえ女装寄りのニュアンスもあって、別種族、という印象の方がもともと強かったです。

私も特例法の時は、大島俊之先生と親しくしていましたし、ガチガチの特例法支持派。子なし要件とか問題があっても、成立させるべき(あとで法案修正すればよし)という立場。だって、ここで成立しないと、

性同一性障害ってタダのオ●マのことで、とくに法的な救済とか医学的サポートも公には必要のない人々

ということになってしまう....という危機感の方が強かったわけです。特例法という法律ができることで、これが「社会問題」であり、法や医療といった公の立場での救済が必要な人々である、というのが認知された、と考えています。だからこそ、私が15年間、手術も戸籍もいじらずに女性で過ごしても、

法律でそういう人もいる、というのが公に認定されている

という事実によって、とくに差別も何もなく過ごせたのですよ。あそこで特例法が成立していないと...と想像したら、ぞっとするものがあります。

まあですから、神名氏とはずっと「同じ側」にいたことになります。

この神名氏の本ですが....そういう立場で一貫して書かれていますし、神名氏のEONネットや特例法での活躍というのも、素直に敬意を表します。とはいえね、「正義とは」「社会とは」と大上段に振りかぶり過ぎなのは、迂遠、というもののような気がしないでもないです。言いたいことはもちろんわかるし、それに反論したい、というわけでも毛頭ないのですが、やはりね、「なぜそう書いたか」という方がずっと興味深く感じるのですよ。

やはり、私のようなトランスセクシュアルの場合には、トランスジェンダー派というか、女装系の人たちってそもそも違和感が強いんです。政治性やらトランスジェンダリズムやら、そういうこと以前に、

この人たち、私らとは関係のない人たち....

という印象を受けてしまうのです。もちろん、女装系の方の立場を理解しないわけではないのですが、「自分の問題とは、まったく別」という風に感じてしまうのですよ。まあですから、トランスジェンダー派が書くものを読めば読むだけ、「この人たちと、私たち、そもそも立ってる場所が全然違う..」と強い違和感を感じざるを得ないのです。逆にトランスジェンダー派の方も、トランスセクシュアルの話なんて全然わからないから、「中核群なんていない」とか「性同一性障害なんてない」とか、勝手なことを吹くんでしょうね。
いやいや、だからこそ、私は昔から、トランスジェンダーとトランスセクシュアルの利益は共通しないと指摘し続け、最近ではもう

トランスセクシュアルはトランスジェンダーとは全く関係がないから、LGBT運動にも参加する気はない。セクシュアルマイノリティは全部団結しよう、なんて絵空事。LGBT運動がトランスジェンダー派の言いなりでトランスセクシュアルの立場を否定するなら、LGBT運動には敵対する!

とLGBT運動を見放すことになったわけです。そりゃ、トランスセクシュアルのことを理解する気がなくて、それでも「特例法」と「性同一性障害」で世の中の同情(イヤな言葉ですが)を集めたトランスセクシュアルの仮面をかぶって、トランスセクシュアルを良いように利用しようとするのですから、トランスセクシュアルが激怒するのは当たり前でしょう?

ですが、神名氏はトランスセクシュアルというわけではないのです。本の中では「トランスジェンダー」と名乗っていて、よくよく読むと、

まず疑いえないことは、私の中に女性としての「見られる・見せる」という意識があるということである。それは言葉を変えていえば「女性としてのエロスを我が身に具えたい」という欲望である。

と書いているように、オートガイネフィリア風の「見る/視られる」分裂を感じるんですよね。で神名氏は性指向が男性に向いているようですから、いわゆる「女装者」でもやや少数派じゃないかしら。一般に思われているのとは逆で、女装者って大概女性が好きですからね。ただし、その女性への性的感情を屈折させて、男と付き合う、というのはあるようです。だから、女装している時は男が好きで、男装の時は女が好き、というのもアリだし、それは現象的にバイセクシュアルではあっても、現実にはストレートの欲動が屈折しているだけのようにも解釈できると思いますよ。

私は...というと「女性としてのエロスを我が身に具えたい」というエロスベースの理由って、ピンとこないです。やはり社会的に女性グループに正規のかたちで受け入れられたい、という社会的な欲求の方がずっと大きいわけですから、そういう「自分のエロスが優先」な思考法って「ずいぶん、男性的な発想だ」という印象なのです。「性自認が女だから、スカートをはきたい」という理由づけも同様に?です。私なんて「SRSを受けたから、気にせずにタイトなパンツをはける!」って喜んだくらいですよ。

それはともあれ、私のようなトランスセクシュアルの場合にはトランスジェンダーとの違いは自明なのですけども、神名氏の場合には、同じトランスジェンダーであり、そのトランスジェンダーの中で神名氏とTRA(トランス人権活動家:trans right acitivist)の「違い」を定立しなければならないのですよ。そのために、「正義」と「民主主義」の問題を殊更に議論せざるをえない、ということになるのです。

まあとはいえ、神名氏の議論の方が、TRAのヘリクツよりもずっとマトモなものであることは間違いありません。でも

・そもそも反対する意見を「差別」のレッテル張りで黙らせようとするのは民主主義に反する
・トランスジェンダリズムの極端な主観主義には、何の根拠もない
・トランスジェンダリズムの実践によって、とくに海外では弊害が強く目立つようになり、現在その是正の真っ最中である
・とくに日本は「ポリコレ疲れ」以前に「ポリコレ」への拒否感が高まってきている
・トランスセクシュアルを中心に、多くのトランス当事者が、トランスジェンダリズムに反対の声を上げはじめ、懸念を表明し始めている
・もちろん、直接に性被害の懸念が強まる女性たちは猛反対

というあたりからも、もはやトランスジェンダリズムの命脈も尽きたようにも感じられるのです。

いやいや、セクシュアル・マイノリティであること、が自分の第一義のアイデンティティであるなんて、そもそも悲しむべきことです。実際にはトランスに失敗した人々だからこそ、その失敗にこだわり続け、そのルサンチマンを晴らすべく、騒いでいるのがTRAだとしか思えないのです。そういう意味では、神名氏が「社会運動派=社会改革派」に対して「快楽派=自己改革派」と名付けた側に、きっちりと私も立っている、ということでもあります。

そりゃ「いつか、性転換できる日が、来る!」とカルーセルさんのニュースを見た子供の頃に決意して、性別を変えてもうまく生きていける環境をいろいろ構築してきたのですもの。「社会を変えないと自分が幸せになれない」とか思い込むような「不幸」な立場に立つ気はさらさらにありませんよ。

いや、日本人って「批判」を過大に見積もり過ぎだと思ってます。
フェミ関連の話なのですが、児童文学をフェミニズム的に解釈して批判する、という立場の方のお話を伺ったことがあります。120分くらいの枠でしたが、その間を延々と既存の児童文学のジェンダーの取扱いについて、批判を続けていたのです....いや、私正直言って、呆れていました。最後に質問しました。「では、あなたが批判したような問題を克服した、理想となるような作品にどういうものがありますか?」
なんかしどろもどろで、要領をえない作品紹介をしてくれましたよ。いや人間って、批判のようなネガティヴな動機で動くものじゃないんです。ルサンチマンを抱えこんでいるわけではない多くの人が動くのは「これ凄い」「これカッコイイ」というポジティブな動機だけなのです。


これが TRA をはじめ社会運動家が絶対に分からないこと、なのですね。
神名氏は、大丈夫。「いい感じ」です。