今更かもしれませんが、針間克己センセ(杏野丈)のブログにある文章ですね。

自称性同一性障害と本物をどう見分けるか

まあ「ほんものの性同一性障害」とか名乗ると、タイヘンいかがわしい、なんておばさまは思ったりします....ハリカツ先生も、「性同一性障害とは、ある意味において本質的にはそもそも「自称」のものであるという性質を有するということである」。確かにその通りなんですよね。たとえば性分化疾患があれば、それは客観的な証拠です。ガイドラインでは性分化疾患の場合も、性同一性障害に準じてガイドラインに乗ることができる、というわけですけども、まったく別の概念です。逆に言うと、「客観的な疾患がないにもかかわらず、あくまで主観的に「性同一性」にトラブルを抱えています」という、あくまで「客観的な疾病の欠如」によってのみ定義されるものだ、ということになります。
まあ、「アーチスト」とか「ミュージシャン」「カメラマン」、こういう職業は「すべてまず、自称すること」から始まりますよね。自称しているうちに、やっていける能力のある人は、周囲からもそう呼ばれるようになって、何となく収入が増えて...と「客観的な職業」みたいに徐々になっていくわけです。それに近いものが「性同一性障害」にもないわけではないでしょう。

しかし「性同一性障害患者は治療を求め」ます。「医学的サポートを求めるから性同一性障害である」と言ってもいいくらいでしょう。もともと、ホルモン療法やSRSの適用対象として、医学が囲い込んだ対象の命名が「性同一性障害」という名前であるわけですからね。ですから、医学によって対象化されると「性同一性障害、という診断書」が頂けます。これがホルモン療法やSRSを「とりあえずやっていい」ための関門になるわけです。強いて言うと、ここで「ほんもの」「にせもの」を区別する根拠が出てこないわけでもないでしょう。
つまり、「ほんもの」は「診断書がある」わけで、医療サポートを受ける可能性が出ています。それに対して、「にせもの」「自称」は、「診断書がない」ことで、区別されることになるのでしょう。とはいえ、「ほんもの」でも「SRSまで完全に済ませないといけない」義務があるわけではありません。適当なところで打ち切っても、全然OKなのですね。しかし、「ほんもの」で「SRSまで済ませた」場合でも、容姿の上でパスできるか、生活に困らないか、新しい性別に適応がしっかりできるか..は保証の限りでもないわけです。
逆に「にせもの」「自称」であっても、ヤミのホルモンくらい簡単に手に入りますし、SRSをしてくれる医者だって、国内はともかく海外なら探せばあるでしょう。「男の娘」路線で若いうちなら、そりゃそれなりに楽しく生活できるかもしれませんしね。「にせもの」「自称」がパスしないわけでもありませんし、不幸せなわけでもないでしょう。
そうしてみると、「ほんもの」だから偉い、とかは本当に勘違いも甚だしいのは言うまでもないのですが、「ほんもの」だから幸せとか、「にせもの」だからパスしないとか、そういうことも現実では無関係のわけです....面白いですね。

じゃあ、おばさま、どうだったか....というと、ガイドライン&特例法以前はともかく、それ以降ではとりあえずジェンクリを受診して、「性同一性障害」の意見書をもらって、それでフルタイマー化して...ですが、表面上「女性」で就職して仕事が忙しくなったら、ジェンクリさぼっちゃって放置してました。なので実質「自称」で15年間過ごしていたわけですね。ホルモンももらえる医者と知り合って、定期的に供給してもらい、「ほんもの」でなくてもしっかりホルモンは使ってたわけです。で、仕事が空いたタイミングでジェンクリを再受診して、「診断書」をもらったから、この時点で「ほんもの」化したわけでしょうか(苦笑)。

まあ、分かって書いてます。全部ジョークみたいなものですよ、失礼しました。

第二次性徴が微弱だったから、ホルモン未使用でも完全パスしてました。だから、ひょっとしてアンドロゲン不応症の弱い傾向があるのかもしれません。ジェンクリでも初診でホルモン異常を疑われましたからね。これは証明しづらい話なのですが、もしそうなら性分化疾患になりますから、そもそも性同一性障害からの「除外鑑別対象」になるのかもしれないです。一応これが、オチ、ですね。