今日も仕事。けどノラないわぁ。
というわけで、昨日の続き。まあ、トランスサロンみたいなトランス系サークルでも、関西の習慣としてはミックスなので、ゲイの人も何人か出入りするのね。なぜゲイの人がトランスジェンダーに関心があるか、というと、要するにこういうこと。
「自分が男性が好きなのは、自分は女性だからではないだろうか??」
という疑問を内心では感じるからじゃないかしら。勿論、「自分はゲイ」と自己規定してしまうと、これはこれでジェンダーに関する主観的フリーハンドを得ることになるから、いわゆる「オネエ」であってもいいわけね。「どうせオイラ変態だから...」という開き直りの一種ね。だから、そこらへんで「本当に女性に変わりたい MtF とは??」という関心が生まれる...そういうタイプの人っているのね。
けど、やっぱり完全に別人種ね。やはりゲイの人って、雰囲気は完全に男性。勿論、MtF の一定部分(よく男が好き=1/3,女が好き=1/3, 関心なし=1/3って言われる...けど、これはホルモン医療とか、生活の変化で「変わる」こともあるみたい)は、「男が好き」でゲイとは共通するけど、簡単に言うと
「ゲイは男が女が好きなように、男が好き」で、
「MtF は女が男が好きなように、男が好き」
とまとめれるようにも思うの。だから、あまり共通点ってないわね(あ、別に「ミックス」というサークルのあり方自体は私は「結構なこと」、と思うから、ゲイの参加を否定する気は全然ないわよ...)
私も昔は、「自分はゲイ?」と思っていたこともあったので、一度だけ「薔薇族」を買ったこともあるの。でもねえ、ダメね。写真とか見ても、「グロ!」って感じの方が強いの....要するにゲイ特有のファンタジーって、体質に合わないのね。だって即物的でSEXの汚らしい部分がゲイの人は好きだし、視覚的に燃える部分がないし...で、そこらへん女性とタイプが同じ「男の好きになり方」のようにも感じるわね。(ま、他人事として「面白がって見る」、くらいのことはそれでも出来なくもないわね。けど、それが自分の「ファンタジー」には絶対にならない、という程度のことだと思ってくれればいいかしら?)
で、まあそういうことが本題じゃなくて、実際のテーマは「運動」ということ。私に言わせれば
「男が好き=ゲイ」
じゃないと思うわけね。要するに、ニッポンの現状では、「ゲイ文化」という確固たる文化があるわけで、その「ゲイ文化」にアイデンティファイしている人が「ゲイ」であって、「男が好きな男」の一部に過ぎない、というのがやっぱり言えるんじゃないか、と思うの。「男が好きな男」というのは、いろいろよ。
1. 「男が好き」だけど、それは「良くないこと・社会的に不利・家族に迷惑」だから、ファンタジーレベルに留めておく。
2. 妻と子供を愛しているので、「男が好き」でも妻子に不忠実なことはしない。まあ、独身の頃には少しだけ経験がないわけでもないけどね。
3. 家庭はあるけど、「遊び」のレベルで後腐れのないように「男」と遊ぶこともある。
4. 自分は「同性愛」だと思うけど、ゲイ文化はキライ。
5. 自分はゲイであり、ゲイ文化にアイデンティファイしている。
という具合な類型がありうるわけだけど、やっぱ「運動」とか「理論」とかで捉える人ってのは、この類型を「発展モデル」「階層モデル」風に捉えがちなのね。まあ、この心理は、「ゲイ文化は良い」ものであり、それを布教したい、という「運動的性格」にホントの理由がないわけでもなさそうね。
実際、トランスの「運動」というのは、まあ、こういう階層性を主張する一部グループもないわけじゃないけど、
1. トランスヴェスタイト(女装趣味)
2. パートタイムのトランスジェンダー
3. フルタイムのトランスジェンダー
4. トランスセクシャル(手術済み)
まあ、こういう「手術した人がエライ!」なんてのはナンセンスだ、というのが、どっちか言えば一般的な了解事項のように思うの。だから、この類型を「発展モデル」とか「階層モデル」としては捉えない、というのが、了解事項になっているのね。言い換えると「手術を求めないトランスは、真のトランスとは言えない!」というような言い方はナンセンスだ、ということよ。
更に大きな違いとしては、ゲイカルチャーにずっぽり染まったゲイ(類型5)は、「一生ゲイ」だけど、これは本人の「自己規定がそうだから、そう」という理由で「一生ゲイ」に過ぎないわけで、だからこそ「ゲイリブの運動としての持続性」ということにこだわりがちね。だからどうしても政治的に「ゲイの権利」ということを主張せざるを得ない...ということにもなりそうね。
けど、トランスセクシャルの場合は、「セクシャル・マイノリティを辞めれる」可能性がないわけじゃないわけ。そりゃ、戸籍がちゃんと希望の性別に変わり、社会生活も完全に希望の性別で送れるようになれば、自己規定の問題として「自分はセクシャル・マイノリティではなく」、昔と今では性別が違うだけである・昔の性別はたんなるマチガイに過ぎない、という風に思うことは、これは実生活の上での感覚として、非難されるべき問題だ、とまでは言えないわけね。だから、トランジション真っ最中の時点ではセクシャル・マイノリティ運動に積極的に参加しても、個人の問題が片付いたら、それに参加する積極的メリットってなくなってしまう...逆に言えば、そういう運動に参加すること自体にデメリット(性別を変えたことがバレる可能性が高まる)しかなくなる可能性だってないわけじゃない...だから、「トランスの運動」というのは、どうしてもそのうちに、「トランスジェンダー中心(それもパスしない人)」になるんじゃないかしら?(ま、現状は「特例法」と「子なし要件」の問題があるから、そうじゃないけどね)
だから、「政治性」という意味では、トランスセクシャルは本質的には全然「政治的」ではなくって、「個人の問題を解決するために」運動に参加するけど、「問題が解決したら」引退・埋没というのがある意味「理想的パターン」化する可能性があるわけ。
で、私はどうか?というと、若干微妙な問題があるのよね。要するに今まで「男性として活動しすぎてた」ということがあるので、やっぱりこれを捨てるのは「もったいなすぎ」なので、どうしてもアートの分野では、「元男で、性別を変えた」というのが、ずっとついて回らざるを得ないわけね。それなりに私の今までのアート活動に対しては、愛着もあるし、人脈もあるし...で、性別を変えたことについての反発とかは特にないわけだから、こちらからそれを「切る」のは道理に合わないしね。というわけだと、どうやら私は「引退・埋没」ができなさそうね...残念。
今日の服装:ピンクの綿のロングスカート+薄い白のブラウス+ピンクのボレロ風セーター。かなりカジュアル。
というわけで、昨日の続き。まあ、トランスサロンみたいなトランス系サークルでも、関西の習慣としてはミックスなので、ゲイの人も何人か出入りするのね。なぜゲイの人がトランスジェンダーに関心があるか、というと、要するにこういうこと。
「自分が男性が好きなのは、自分は女性だからではないだろうか??」
という疑問を内心では感じるからじゃないかしら。勿論、「自分はゲイ」と自己規定してしまうと、これはこれでジェンダーに関する主観的フリーハンドを得ることになるから、いわゆる「オネエ」であってもいいわけね。「どうせオイラ変態だから...」という開き直りの一種ね。だから、そこらへんで「本当に女性に変わりたい MtF とは??」という関心が生まれる...そういうタイプの人っているのね。
けど、やっぱり完全に別人種ね。やはりゲイの人って、雰囲気は完全に男性。勿論、MtF の一定部分(よく男が好き=1/3,女が好き=1/3, 関心なし=1/3って言われる...けど、これはホルモン医療とか、生活の変化で「変わる」こともあるみたい)は、「男が好き」でゲイとは共通するけど、簡単に言うと
「ゲイは男が女が好きなように、男が好き」で、
「MtF は女が男が好きなように、男が好き」
とまとめれるようにも思うの。だから、あまり共通点ってないわね(あ、別に「ミックス」というサークルのあり方自体は私は「結構なこと」、と思うから、ゲイの参加を否定する気は全然ないわよ...)
私も昔は、「自分はゲイ?」と思っていたこともあったので、一度だけ「薔薇族」を買ったこともあるの。でもねえ、ダメね。写真とか見ても、「グロ!」って感じの方が強いの....要するにゲイ特有のファンタジーって、体質に合わないのね。だって即物的でSEXの汚らしい部分がゲイの人は好きだし、視覚的に燃える部分がないし...で、そこらへん女性とタイプが同じ「男の好きになり方」のようにも感じるわね。(ま、他人事として「面白がって見る」、くらいのことはそれでも出来なくもないわね。けど、それが自分の「ファンタジー」には絶対にならない、という程度のことだと思ってくれればいいかしら?)
で、まあそういうことが本題じゃなくて、実際のテーマは「運動」ということ。私に言わせれば
「男が好き=ゲイ」
じゃないと思うわけね。要するに、ニッポンの現状では、「ゲイ文化」という確固たる文化があるわけで、その「ゲイ文化」にアイデンティファイしている人が「ゲイ」であって、「男が好きな男」の一部に過ぎない、というのがやっぱり言えるんじゃないか、と思うの。「男が好きな男」というのは、いろいろよ。
1. 「男が好き」だけど、それは「良くないこと・社会的に不利・家族に迷惑」だから、ファンタジーレベルに留めておく。
2. 妻と子供を愛しているので、「男が好き」でも妻子に不忠実なことはしない。まあ、独身の頃には少しだけ経験がないわけでもないけどね。
3. 家庭はあるけど、「遊び」のレベルで後腐れのないように「男」と遊ぶこともある。
4. 自分は「同性愛」だと思うけど、ゲイ文化はキライ。
5. 自分はゲイであり、ゲイ文化にアイデンティファイしている。
という具合な類型がありうるわけだけど、やっぱ「運動」とか「理論」とかで捉える人ってのは、この類型を「発展モデル」「階層モデル」風に捉えがちなのね。まあ、この心理は、「ゲイ文化は良い」ものであり、それを布教したい、という「運動的性格」にホントの理由がないわけでもなさそうね。
実際、トランスの「運動」というのは、まあ、こういう階層性を主張する一部グループもないわけじゃないけど、
1. トランスヴェスタイト(女装趣味)
2. パートタイムのトランスジェンダー
3. フルタイムのトランスジェンダー
4. トランスセクシャル(手術済み)
まあ、こういう「手術した人がエライ!」なんてのはナンセンスだ、というのが、どっちか言えば一般的な了解事項のように思うの。だから、この類型を「発展モデル」とか「階層モデル」としては捉えない、というのが、了解事項になっているのね。言い換えると「手術を求めないトランスは、真のトランスとは言えない!」というような言い方はナンセンスだ、ということよ。
更に大きな違いとしては、ゲイカルチャーにずっぽり染まったゲイ(類型5)は、「一生ゲイ」だけど、これは本人の「自己規定がそうだから、そう」という理由で「一生ゲイ」に過ぎないわけで、だからこそ「ゲイリブの運動としての持続性」ということにこだわりがちね。だからどうしても政治的に「ゲイの権利」ということを主張せざるを得ない...ということにもなりそうね。
けど、トランスセクシャルの場合は、「セクシャル・マイノリティを辞めれる」可能性がないわけじゃないわけ。そりゃ、戸籍がちゃんと希望の性別に変わり、社会生活も完全に希望の性別で送れるようになれば、自己規定の問題として「自分はセクシャル・マイノリティではなく」、昔と今では性別が違うだけである・昔の性別はたんなるマチガイに過ぎない、という風に思うことは、これは実生活の上での感覚として、非難されるべき問題だ、とまでは言えないわけね。だから、トランジション真っ最中の時点ではセクシャル・マイノリティ運動に積極的に参加しても、個人の問題が片付いたら、それに参加する積極的メリットってなくなってしまう...逆に言えば、そういう運動に参加すること自体にデメリット(性別を変えたことがバレる可能性が高まる)しかなくなる可能性だってないわけじゃない...だから、「トランスの運動」というのは、どうしてもそのうちに、「トランスジェンダー中心(それもパスしない人)」になるんじゃないかしら?(ま、現状は「特例法」と「子なし要件」の問題があるから、そうじゃないけどね)
だから、「政治性」という意味では、トランスセクシャルは本質的には全然「政治的」ではなくって、「個人の問題を解決するために」運動に参加するけど、「問題が解決したら」引退・埋没というのがある意味「理想的パターン」化する可能性があるわけ。
で、私はどうか?というと、若干微妙な問題があるのよね。要するに今まで「男性として活動しすぎてた」ということがあるので、やっぱりこれを捨てるのは「もったいなすぎ」なので、どうしてもアートの分野では、「元男で、性別を変えた」というのが、ずっとついて回らざるを得ないわけね。それなりに私の今までのアート活動に対しては、愛着もあるし、人脈もあるし...で、性別を変えたことについての反発とかは特にないわけだから、こちらからそれを「切る」のは道理に合わないしね。というわけだと、どうやら私は「引退・埋没」ができなさそうね...残念。
今日の服装:ピンクの綿のロングスカート+薄い白のブラウス+ピンクのボレロ風セーター。かなりカジュアル。
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