思いやりには種類がある

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「自閉症は津軽弁を話さない」(松本敏治著)という本を読んでいたら、こんな興味深い記述があった。

私が主催している発達障害青年・成人の会「ガジュマル」にきているある方がこんなことを言っていました。
人が道で転んだのをみかけたとき、普通の人は「まあ、あんな転び方をして痛そう」と思い、そばに駆け寄って「大丈夫ですか」と尋ねますよね。「大丈夫です」と言われても、何度か確認をします。しかし、このASDの方は人が転んだのをみて「私だったらあのくらいなら大丈夫」と判断をするそうです。このことを、この方は「自分目線」と呼んでいました。しかも、「大丈夫だとわかっているのにわざわざ噓くさいやりとりがうざい。自分だったら、そんなやりとりはしたくない。ほら、自分がされたくないことは他人にしないでって言うじゃないですか」と言うのです。

この事例はつまり、誰かが転んだが、怪我をしたわけでもなさそうな場合の話である。この著者によれば、たいしたことがないとわかり切っていても、駆け寄って「大丈夫ですか」と確認するのが当たり前だという。
自閉症スペクトラム障害者だと、「大丈夫だとわかっているのにわざわざ噓くさいやりとりがうざい」というのである。
ふむふむ。
どうだろうか。
なんとなく男女の差はありそうな気はする。
少なくとも女性なら、(転んだ人が怪我をしてないと確信していても)大げさに心配の演技をしてみせる。
男性なら「どうせ大丈夫だろう」と考えてスルーするのはありえる、と思う。
果たして、自閉症スペクトラム云々の話かどうか、そこは疑問である。とはいえ、おそらく心配の演技をしてみせるのが健常者っぽいのであろう。「どうせ大丈夫だろう」とスルーすると、思いやりがないと言われそうである。
思いやりにも種類があって、本当に心配する思いやりもあれば、儀礼的な思いやりもあるのである。
あくまで儀礼の問題としては、オーバーアクションで心配してみせるのが必要なのだろう。心配そうに演技をするべき場面で演技をしなかったらアスペルガーと言われてしまう。
人間の裏表への心理的抵抗の問題とも言える。儀礼的にいい人ぶることへの唾棄の感情の問題。ある意味、自閉のほうが純粋というか、裏表の使い分けという社会的な機能を認めていないのである。他人が表面的な思いやりを示したときに「裏では人間のクズのくせして」みたいなことを考えるわけだ。
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