OS▲KA ShAngri-LA
「お好み焼きを食べるぞ、マスター。」
「待ちなさい。今夜は串カツと決めた筈です!」
数年前にご依頼いただいて制作した二次創作同人誌小説の原稿ですが、お相手のご都合での本の発行延期・小説完成後の大幅な内容変更が繰り返され、結果的にお蔵入りになってしまったものです。シリアス寄りのコメディ寄りのシリアスみたいな内容になります。
元ネタは「英霊紀行:カルナ&アルジュナ 」。
大阪の街を食べ歩くアルジュナとカルナの概念礼装カードから始まる、太陽の塔・爆発的なエネルギー・そして弥勒到来に連なる5万字オーバーの大アドベンチャー。
突如特異点となった『大阪』に取り残されたアルジュナ、だが、宿敵であるはずのカルナは、様子が…。
(本来、イラスト・漫画との組み合わせで発行される予定だったものなので、少し展開が急な部分がありますがご容赦ください。)
※尚、当方は大阪弁ネイティブではありません。いちおうAIなどの力を借りながらセリフを書きましたが、間違っていたら生暖かい目で見逃してください。
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【prologue】
「お好み焼きを食べるぞ、マスター。」
「待ちなさい。今夜は串カツと決めた筈です!」
五十六億と七千万年の時、未だ来たらず。
嗚呼、されど。
我が身求むる声あらば、時を超えて、いざ。
■□■
【encounter】
気がついたら、たった一人でここに佇んでいた。
ここに至るまでの記憶は、何故かぽっかりと、あるべきものがなくなったかのような空洞となって抜け落ちている。
僅かに覚えているのは、知己の困惑と制止の声、それを振り切って走ったこと、群衆の悲鳴、「兄ちゃん!今年はまだ虎は勝ってへんぞ!!」という野太い野次と、派手に立ち昇る水飛沫の音。
然して、それ以前の記憶は、己の中をいくら探しても見当たらないのだ。
佇んでいるのは、進行方向が放射状に延びた、迷宮のような地下通路の真ん中だった。
『大阪』
ふっと、そんな単語が暗澹とした脳裏に浮かび上がってくる。それがここの地名なのか?
周囲を見渡せば、そこかしこに「負けるな大阪」、「がんばれ大阪」、「大阪の未詳事案への注意喚起」などと書かれた張り紙があるのを見るに、そうやらどうなのだろう。
だが、それ以外のヒントはさっぱり浮かんで来ず、人々が往来する地下道の中に取り残され、たったひとりでどうすることもできない迷子になっていた。
不意に、肩口にドン、と後ろから何かがぶつかってくる。
「何や危ないなぁこないなとこにボーっと立…あら、お兄ちゃん外国の人?ええ男やなぁどっから来たん?」
「はぁ…。」
出会い頭に浴びせ掛けられる、千本の矢のような質問の嵐に、衝突してきた派手な化粧と出で立ちの御婦人を見詰めて唖然としたまま曖昧に頷いた。
自分は誰か?そう問い掛けた時、頭の中に閃いた単語がある。『アルジュナ』。そう、自分はアルジュナだ。アルジュナと呼ばれ、己をアルジュナだと認める存在だ。
自己というモノの存在に気付けば、後の言葉や振舞いは、不思議な程にすんなりと出てきた。
「すみません、少し…ぼんやりしていたもので。お怪我はありませんか?」
「あらぁ、お兄さん日本語上手やねぇ、ええって、ええって。梅田はよそから来るとよう迷子になるさかいなぁ。まあ、大阪がこないえらいことになっとんのに、来てくれておおきに。ほな、オバチャンが飴ちゃんやろか。」
相変わらず、身振り手振りと共に一方的に話す御婦人に手を取られ、強引に何かの包みを一掴み握らされた。
その速度についていけずにいるうちに、気が付けば、自称オバチャンはアルジュナの手に色とりどりの飴玉を残して元気良く立ち去っていってしまった。
取り残されたアルジュナは、残されたヒントを思考の糸で繋ごうと必死で記憶を辿る。
ここは大阪の、梅田という場所で、そして自分はアルジュナという存在である。それだけは間違いがないのだが、一体何の為にここにいて、何故こうしているのかはてんで解らず仕舞いだった。
そして、「こんなことになっている」とは、果たしてどういう意味だろう。
ゆらりと蟠る黒い影があった。
私はアルジュナで、ここは大阪で、そして奴は…
「問おう…。お前がオレのマスターか…?」
低い声。黒い衣装に全身を包み、フードを目深に被って佇む、幽鬼の様な痩せた男。アルジュナを鋭く見据える空色の二つの眼光は、その時、雷霆となってアルジュナの思考を激しく撃った。
「カルナ…!」
そう、唇が勝手に音を綴る。その通り、これはカルナ、カルナという存在だ。何故だか解らないが、それだけは明確に断言できた。
『自分がアルジュナであるならば、この男がカルナでない筈がない。』
それ程までに強い想いに突き動かされるアルジュナの前で、カルナに相違ない男は、唇を歪めて静かに笑った。
「そうか、オレがカルナであると知っているのならば、…ならば、正しくお前は、オレのマスターなの、だろう、な。」
呟くなり、彼の細い足がふらりとよろめく。
咄嗟に腕を差し出して支えると、右手の甲に、見慣れない文様が三画、浮かび上がっているのに気が付いた。
「あぁ、その令呪が何よりの証だ。…すまない、魔力の匂いを辿ってここまで来たのだが…どうやら、ここで尽きたようだ…。出会った瞬間に消滅とはな…。」
「待て!…お前、これを…これを喰らえっ…!」
嘆息しながら本当に息も絶え絶えに呟くカルナの口に、アルジュナは咄嗟の思い付きで、最も相応しいと思えるものを放り込んだ。
目をぱちぱちと見開きするカルナの口の中に、次から次へと、機械的に『飴ちゃん』のセロファンを剥いでは放り込んでいく。
数分後。
「驚いたな。まさかこんな供給手段を持っているとは思わなかった。口にしただけで活力が湧いてくる、素朴だが優しい、そんな味だ…。いよいよ、お前はオレのマスターということで間違いないのだろう。」
大量の飴玉を詰め込まれ、頬袋を一杯にしたリスのようにもごもごとそれを消化していたカルナは、やがて最後の断片をぱきりと噛み砕いて頷いた。
「ならば、オレと契約してくれ。オレは、この魔都と化した大阪の危機に対抗する者として召喚された身だ。きっとお前の力となるだろう。」
「待て、順番に説明してくれ…。そもそも、魔都大阪とは何だ?そして、今ここで何が起きている…?」
カルナの顔が曇る。
「記憶喪失、か…?」
「残念ながら、どうやらそのようだ。この地下街を出て周囲を見渡せば、或いは何かを思い出せそうな気がするのだが…。」
眉根を寄せて痛む頭を振るアルジュナの前で、カルナはひとつ頷いた。
「ならば、大阪の街を見て回るとしよう。道すがら、ここで起きていることをオレが知っている範囲で説明してやる。実のところオレも、全てを把握している訳ではないのだ。見て、聞いて、そして理解することで未知は知恵となる。運が良ければ記憶が戻るやもしれん。戻らずとも、為すべきことは解るだろうさ。」
その耳朶で、三連の球形ピアスがしゃらりと揺れる。
斯くして、初めはとりとめのない二人の旅が始まった。
■□■
【conversation street】
話す、はなす。言葉を交わす。
とりとめもなく。
理解を導くように。
或いは、解り合えなかった者たちが、手探りで解り合おうとするかのように。
この大阪には、独自の結界が張り巡らされている。
それはこの地から永劫に朝を奪い、昼を奪い、果てしなく続く夜の闇の中からは、人ならざる『バケモン』が闊歩し、人々に襲い掛かるのだ。
だが、それでも街は動いている。
人々の営みは続き、大阪の街からは明かりが絶えることはなかった。
今や生身のマスターとなったアルジュナと、そのサーヴァントたるカルナ。しかし。
「くっ…活気の絶えた夜では我が日天の力を駆使できんということか、アルジュナ、ひとまず退却だ!」
「あぁ、少しでも陽の気があれば違うのか…?」
不意とそこに、そんな状態を体現する建物が現れた。
「化けモンがなんぼのもんじゃい!王入の燃える大安売り魂は負けへんでぇ!三百六十五日大出血サービス中・更に大大大出血サービスや!大阪の商人根性見せたるわ!さあさあ早いもん勝ちや!!」
真っ黄色のハッピを着た、メガホン持ったコテコテの呼び込みおじちゃんが声を限りに叫んでいる。
「やっぱり買い物はうちらの聖域、スーパー王入やな!」
「あら、お惣菜安いやん!今日のおかずはこれでええわ!明日のパンも!」
「燃える…聖域…だと…?」
「確かに、この活気には化け物すら近寄れんようだ…が…?」
「アルジュナ、オレは二つの事に気が付いた。」
「一体、何だ?」
「この化け物共は、明るく活気のある場所には近寄れないと見た。そしてもう一つは…」
「(ゴクリ)」
「ここのスーパーの総菜は安い!」
「今の緊張を返しなさい!!!」
じゃあ、この理屈なら、通天閣やら、グリコの看板やら、明るいところを飛び回ることで夜間でも戦うことが出来ることに気付く。
「アリなのか…!概念としてアリなのかそれは!!!!」
「実際戦えるのだからひとまずはアリだ!魔力を回せ、マスター!」
暗い夜の中でも失われないもの、それは『活気』と『明るさ』だ。
では、大阪のご婦人方を見習って、恰好から入るというのはどうだろうか。そんなカルナの迷案に渋々付き合わされ、とりあえず商店街で試着してみる。店員も客も、これでもかとばかりに明るい大阪のオバチャン。あら兄さんかっこええわぁ、こっちもどない?と勧められるまま、気付けば完全にコーディネイトされていた。
「いいぞ、シヴァの衣にも通じる豹や虎の力強さ…そしてこのパンチの効いた柄を堂々と着こなす王者の風格。根拠はないが活力が湧き上がってくるのを感じる、戦闘だ、行くぞマスター!」
「…ふと思ったのだが、これ、私まで着る意味はないのではないか…?」
「フ、細かいことを気にするな、コーディネイトはこうでねいと。」
「力任せにひっぱたきますよ。」
そしてこの地の色々な寺社には、色々な神々が祀られている。それは人々の信仰の篤さを示しているかのようだ。
「商売繁盛の神として祀られている大黒天はマハーカーラ…つまり、シヴァの化身だ。日本においては、豊穣の部分が強く信仰された結果、こういう形になったらしい。」
「あちらこちらで祀られているビリケンという神も、様々な神性が集合解釈されてこの地で生まれた豊穣神ということになる。」
「インドラは帝釈天に、そしてサラスヴァティーは弁財天として芸術と学問を司る神になった。形を変えてはいるが、我々に繋がるものがこの地に根付いているのだ。」
いつも、共に食事を摂った。
串カツ、ラーメン、お好み焼き、そしてなぜか毎回頼まれる生ビールふたつ。それを、恐ろしい勢いで平らげていくカルナの様子に、アルジュナは溜息を禁じえない。凄まじい食欲というか、食べっぷりだ。
「そういえば、これだけは記憶にあった。支払いは全て、この16桁の数字が刻印された黒いカードでできるようですね。」
「む…マスターの使用するカードだけに、マスターカード、という奴か。」
「ドやかましいわ。」
相手のことなどなにひとつ思い出せないというのに、旅は続く。
今日も、カード払いでガラガラのホテルの部屋をひとつ抑えた。
まだ食べ足りないか、部屋の小さなデスクでカップラーメンを作りながら、不意とカルナが呟く。
「お前は、相変わらず記憶がないままか。」
「ああ、相変わらず、だ。」
「そうか…そう、か。」
時に、二人で地下鉄に乗った。
「エスカレーターとは実に興味深い乗り物だな。左と右、どちらに立つかでその者の生まれ故郷が解ってしまうという。では、バラモンは、クシャトリアはどちらに立つべきなのか?…興味深い。実に興味深い。」
「お前の大真面目にズレた解釈にもだんだん慣れてきつつある自分が怖いと最近思う…。」
世界が闇に満ち溢れても、何気ない日常を守ろうとする人の営みは変わらない。
今日も今日とて、満員電車の中で、買いこんだ食料の袋を抱えながら流れゆく車窓からの景色をぼんやりと眺めるアルジュナ。
通り過ぎる電信柱の数を数える傍らで、カルナが何を考えているのか。それはもう数カ月もの長い時を共に過ごしているというのに、その存在そのものを含めて何処かあいまいだった。
宵のオリオン座の輝きがさそり座の尾に取って代わる、それはそれは、めくるめくほどに長い夜。
あべのハルカスの展望台に佇んで、二人は地上を見下ろす。
「アルジュナ…今のお前は、この刻を楽しんでいるように見える。」
「ああ、そうだな…」
「良いことだ。…良いことだ。」
「今もなお人の営みというのはこんなにも活気にあふれて輝いているものなのだな。網の目の様に張り巡らされ、どれ一つとして欠けていい部品はない。高みから見下ろしていると忘れてしまうこともあるし、近くにあり過ぎても存外気付かないものなのかも知れん。」
この美しい景色、そこに住まう人たちを、人類史を大切にし、護らなくてはならない…?
強烈なデジャヴュ。何かを思い出しそうな。
そうだ、そういえば、私は川に飛び込んで、そこで聖杯を見つけて触れて…
ツキリと頭の芯が痛み、寄せた眉間を指先でグリグリと押し込む。
不意に、カルナの目が鋭く光った。
「あそこの一角を見ろ。梅田のビジネス街だ。酷い淀みに包まれているな…。一際高いビルを中心に、何かが吸い上げられている!」
■□■
【meanwhile.1】
「では、話を整理しよう。」
ノウム・カルデアの管制室では、臨時の作戦会議が開かれていた。話を切り出したのは、眼鏡の下でさも不可解だと言わんばかりに端整な眉根を寄せるダ・ヴィンチ。その周囲に集まっているのはマスターこと藤丸立香、そのサーヴァントであるマシュ、そして、蒼い瞳を鷹のように険しく細めて成り行きを見守っているサーヴァント…一行と同じく大阪特異点のために仕立てられた当世風の霊衣に身を包んだランサー・施しの英雄カルナその人であった。
「結論から言うと、君たちは、微小特異点大阪から強制送還されてきた。マスター君とマシュ、そしてカルナさんとアルジュナで行動する計画だったよね?けれど今、全員がこのカルデアに戻ってきている。…ただ一名、アルジュナを除いてね。」
「はい。私たちは聖杯から漏れる魔力を辿っていくうちに、道頓堀川に辿り着きました。」
胸の前で拳をぎゅっと握り締めながら、マシュが聊か緊張した面持ちで頷く。ほんの数時間前、大阪特異点へのレイシフトを行ったメンバーのうち、アルジュナ一人だけがこの場所にいない。
「観測データによると、アルジュナの霊基消滅は確認されていない。正確に言うと、アルジュナは、今なお単独行動で大阪特異点に取り残されている。…マスターである藤丸君がいないのにもかかわらず、だ。そして、観測数値は君たちの帰還に同調して急激に悪化している。異質なものに変化していると言った方が正しいのかな。ともかく、何故そうなったのか、通信を切るまでの行動を教えてくれるかい?」
「では、オレから話そう。奴と最後まで行動を共にしていたのは、どうやらオレのようだからな。」
それまで黙っていたカルナが、淡々と口を開いた。
微小特異点・OSAKA。その地に生じた聖杯の欠片が引き起こす変調は、ほんの小さなものだった。故に、人数は最小限、そして適性があると弾き出されたサーヴァント、カルナとアルジュナがマスターとマシュに同行することになる。
レイシフトした先の大阪の地は、マスターの故郷である日本の大阪の在り方から大きくかけ離れた様相を呈しているということもなく、ごくごく穏やかで賑やかな人の営みが行われている風に見える、というマスターの言葉通り、異変はさほど大規模なものにはなっていないのだろう。カルデアからの通信に従って歩く道すがら、一行はむしろ旅行気分でのんびりと買い食いなどを楽しんでいた。
「何だ、あれは。」
聖杯の欠片と思しき反応のあった道頓堀川の周囲に黒山の人だかりができている。人目をカモフラージュするために当世風の霊衣に身を包んだアルジュナが、水飛沫の立ち昇る橋の上を見詰めて眉を顰めた。変異の前触れかもしれない、と一同顔を見合わせて足早に橋の上に近付いていくと、祭りのような熱狂に包まれた橋の上から一人、また一人と狭い川の中に身を投げているのである。川面から立ち昇る水は、まるで墨のように黒い。おおよそ尋常な水とは言い難い、光をも通さぬ泥炭状の液体で満たされた川は、どう考えても汎人類史に存在する事象であるとは思えなかった。心なしか、瘴気とも取れる負の魔力さえ感じる気がする。
「祭事のような熱気だ。見るからに沐浴には適さないが、溺れるほど深く流れが速い訳ではなさそうだな。マスター、何の風習だ?これは。」
「いや…俺にもよくわかんないよ。こんなことが起こるのは、確か…。」
『なになに?その川に大勢が飛び込むのは、たとえば猛虎軍が優勝した時のような祝祭の折、と、カルデアのデータベースにはある。だが、おかしいな。この時期の記録にそんな大規模な祝祭や行事はないし、第一、儀式が行われるのはおおむね皆に酒の回った夜だと書いてあるんだけど…?』
頭を搔くマスターの発言を引き取る形で、通信機越しにダ・ヴィンチの声が聞こえてくる。まるで狂乱沙汰のパレードの様に次から次へと闇黒の川へ飛び込み続ける人の身を案ずる声は聞こえてこない。歓声と熱気に包まれる人々をそうさせているものが何なのかは、もう少し近付いてみなければ分からないだろう。
不意と、低く呻く声を聞いた。振り返れば、アルジュナが蒼い顔でふらりとよろめき、掌で口許を押さえている。咄嗟に片腕でその身を支え、見るからに具合の悪そうな宿敵の様子に眉根を寄せた。
「アルジュナ!どうした?」
「…いえ…。少々、気分が…。レイシフトの際の異常か、魔力の乱れか、はたまた皆が揃ってあのような汚い川に飛び込んでいる様子を見ていたからか…。少し休めばすぐ治るでしょう。ご心配をお掛けして申し訳ありません。」
「確かに酷い水質のようだ。負の魔力のようなものも感じるが、そこで沐浴しろと言われたら、さしものオレも一瞬戸惑うだろうな。」
「そういう問題ではないし、一瞬ではなく深い疑問を抱け!」
「無理しないでいいよ、アルジュナ。とりあえず、先にホテルにチェックインして少し休んでから立て直さないか?今気づいたんだけど、チェックイン時間もギリギリのようだし…。」
斯くして、心配そうに見詰める藤丸立香の提案もあり、一行は心斎橋の宿で身を休めることにしたのだった。
「…全く、不甲斐ない…。」
ツインルームのベッドの片方に仰向けに横たわり、低い声でぼやくアルジュナの額に、カルナは黙って冷水に浸して搾ったハンドタオルを乗せる。次いで、サイドテーブルによく冷えたスポーツドリンクのペットボトルと、栄養ドリンクと、薬局の店主に『精付けるならこれやで!』と太鼓判を押された赤まむしドリンクとやらをコトリと並べた。
「まさか、貴様に介抱されることになるとは、このアルジュナ一生の不覚だ…。」
「まあ、そう嫌な顔をするな。オレ達の在り方がどうであれ、今は同じマスターの刃たるサーヴァントだ。万全でいてくればければ、困る。」
ふぅ、とアルジュナが深い溜息を吐くのが聞こえた。
「私の知らない、貴様らしからぬ行動に少々驚いただけだ。全く、調子を狂わされる…。」
ぼんやりと呟くアルジュナは、どう見ても本調子とは言い難い。幾度も刃を交えた宿敵であれば、流石にその程度の察しはつくというもの。もう片方のベッドに腰を下ろし、それぞれシングルルームを取ったというマスターとマシュからの連絡を待って、手渡されたスマートフォン型端末の画面を見詰める。この、コミュニケーションを取ることに特化したような当世の機器はどうにも使い慣れず、また、元よりの口下手が祟って、業務連絡以外何を伝えていいのかもわからない。ただぼんやりとカルデアか、マスターからの言葉が届くのを待つだけのツールを持て余して無為に時間を潰す。窓枠に四角く切り抜かれた空からは、間もなく夕暮れ時を迎えようという茜色の光が降り注いでいた。
どのくらいそうして静謐の中にいたのか。不意と、アルジュナが幽鬼の様にふらりとベッドから立ち上がった。全く想像もしなかった唐突な反応に息を呑み、訝しみつつ見上げるその漆黒の瞳は、最早この世の何処をも映していない。まずい、と直感が告げる前に、夢見る如く唇が動く。
「アルジュナ、お前…!誑かされたか、正気に戻れ、待てっ…!」
制止の為に伸ばしたカルナの腕を容易く振り切り、アルジュナは猛然とドアを開いて走り出す。非常階段の踊り場から飛び降り、全力で疾駆するアルジュナを、一陣の風となって猛然と追い掛けるカルナ。マスターに異変を伝えている暇など、とてもありはしない。やがてその身は狂喜乱舞する黒山の人だかりを飛び越え、今しも橋の欄干からあの光通さぬ闇を湛えた道頓堀川に飛び込もうとしているのだ。驚愕に目を見開き、カルナは叫ぶ。
「待て、アルジュナ、止せッ…!」
「今…すぐに…。」
警告の声も空しく、アルジュナは何かに導かれるように、吸い寄せられるように、そのまま道頓堀川に身を躍らせた。欄干から身を乗り出して水面を見詰めるカルナの目に最後に焼き付いたのは、高々と跳ねる水飛沫、そして、眩く輝く黄金の光。川面から溢れ出すような爆発的な輝きは、太陽の子であるカルナの目すら焼き尽くさんばかりにカルナごと辺りを吞み込み…。
「…そして、気がついたらここに強制送還、という訳だ。」
カルナが唇を閉ざすと同時に、周囲に重々しい沈黙が漂った。アルジュナの身に生じた異変の原因に心当たりのある者は、カルナをはじめ誰一人としていない。
「ドリンクのチョイスに赤まむしはどうかと思うけど…じゃなくて。で、今をもってアルジュナは、マスター無く単騎で行動している。…いや、待ってくれ。この、魔力…。技術班、アルジュナの近辺に観測点を絞り込んでくれ給え。…誰かが一緒にいる。妙な波長だ…。サーヴァント、クラスは…キャスター?しかしこんな霊基グラフ、見たこともないぞ…!」
「ふむ、それだけではないね、ダ・ヴィンチ女史。見たまえ、この特異点の中では、時空の流れすらおかしい。アルジュナに渡してある端末から送られてくるデータ…ただならぬことになっているようだよ。」
少し離れたところでログの観測を行っていたシャーロック・ホームズが、片眉を持ち上げながらタブレットに映し出されるデータを共有する。顔を寄せて覗き込んだ瞬間、ダ・ヴィンチが裏返った悲鳴を上げた。
「何だこりゃ!端末に紐づけされたクレジットカードのログ…どう考えても時間がおかしい!既に数か月分が経過している…それに、食事や宿泊に使う費用も莫大だ!一体どうなっているんだ?」
「明細は、宿泊費、食費、食費、宿泊費…それに、お土産代?どう考えてもアルジュナ一人で消費しているものではないね。特に食費、見たところ二名…いや、三名以上でもおかしくはない量だが…。」
そうこうしている間にも、クレジットカードのログは画面を流れる滝のような勢いで伸びていく。瞠られた一同の目の中に飛び込んでくる金額も、日付も、どれもこれも常識的な次元では考えにくい推移をしている。一日が数秒の間に過ぎていくような、そんなログを吐き出し続けるクレジットカードの使用状況を細めた濃緑の眸に映し、人理に名高い名探偵はふむ、と鼻を鳴らして洞察の目を光らせた。
「宿代は二人分、だが、食費やその他の雑費はとてもそうは思えない…。ただひとつ解るのは。」
「解るのは?」
だいぶ長い沈黙を挟んだ後、探偵は、パイプの紫煙を燻らせるように、実に優雅に口を開いた。
「食事内容は、粉モノと揚げ物が多いようだね。後、何故か生ビールが二つ、儀式的に含まれている。」
「ホームズ。それ、散々溜めてまで言うことかな?」
■□■
【essence】
「そう。この夜の地、特異点大阪にお前を呼び出したのは、他ならぬこのオレだ。」
「お前が…?」
サーヴァントがマスターを召喚する。一体、そんな違和感のある召喚術式がこの世に存在するのだろうか。怪訝な面持ちを隠せないアルジュナの前で、カルナは碧い眼をスッと細めてごく微かな笑みを浮かべる。
「そうだ。お前は知る由もないのだろうが、この特異点には最初から大きな異変があった。それは何か。…お前は、あの太陽の塔を覚えているだろう?」
「ああ。万博公園の、あの不思議な形をした塔か。しかし、あれがどうかしたか?暗くて近寄ることも出来ん有様だったが…。」
ますます不可解だった。遠目に見れば、薄汚れ、まるで闇夜に沈んだ世界で本来の輝かしい立ち位置を見失って、泣いているかにも見えた塔。
「そう、それが決定的な違いなのだ、アルジュナ。あの塔は、汎人類史において長期間灯りを絶やしたことがない。オレはてっきり街を脅かす魔物に壊されたのだ、と思い込んでいたのだが、お前と旅を続ける中で不意にその思い込みを逆転させた瞬間、オレの中に叡智が宿るのを感じたのだ。ご丁寧にも『当たり』と言わんばかりに、多くの意志や記憶が徐々にオレに受け渡された…。開眼、とでも言おうか。今、梅田のビル街に集まる瘴気を目の当たりにして、その最後のピースがようやく繋がった。端的に言おう、我がマスター、アルジュナよ。今こそ、我々はあの万博公園の、太陽の塔に向かうべきだ。」
「待て待て待て、待ちなさい!どうしてお前はそうも…いつも言葉が足りない…。いつも…。」
地を照らす灯りの数すら疎らになりつつある、太陽の刻を喪失した大阪の夜景を背に佇むカルナの真摯な眼差しに射抜かれ、不意にアルジュナの脳裏に針のような頭痛が突き刺さるのを感じた。
あぁ、まただ、とアルジュナは思う。何かしら決定的なことを思い出しそうになる度、忘却している記憶と現実の齟齬を示すように差し込む痛みだ。眉間を寄せる己がマスターの姿を見詰め、カルナはふむ、と一度頷いた。
「一理ある。お前には、この特異点の成り立ちを共有しておくべきかもしれんな。…たとえそれが信じ難く、理解も難しいものだとしても、お前には知る権利がある。そして、資格もな。一年もの長きに亘る旅の中で、共に育ったマスターよ。」
その昔、太陽の塔には太陽を象った四つの顔があった。
未来を象徴する「黄金の顔」、
現在を象徴する「太陽の顔」、
過去を象徴する「黒い太陽」、
そして、いのりとこころを象徴する「地底の太陽」と呼ばれる陽が、そこには確かに存在した。
地底の太陽は、塔の内部に造られた「調和の広場」の地下部分で、生命の神秘を、そして人類の進歩や調和の根源にある混沌とした原始的な体験とを人々に見せるべく設置された数々の展示物と、それに魅せられる多くの人々を、ただ静かに、空高く輝く日天の代わりに暗い地底からじっと見守り続けてきた。
しかし歴史とは、時とは流転するもの。今、いのりとこころを具現化した「地底の太陽」は、この世界のどこにも在りはしない。
輝かしい祭りのあと、その威光は威光と見做されず、誰かの手から手へと渡るうちに、人知れず忽然と姿をくらましてしまった。
そして今なお誰もその所在を知らないという「地底の太陽」は、自分の行き場を永久に忘れ去った人類に対して、恨みとも僻みともつかない感情を抱くに至った。一時は繁栄の象徴として讃えられた物に宿った魂が、確かにそんな負の意識を抱いたのだ。
祭典が終わった後、祭りの役目を終えたとばかりに忘れ去られた塔の内部は、さながら風化する棺のように数十年も朽ちるに身を任せ、そして解体される地下展示室からは、幾つかの品が面白半分で、もしくは単なる記念品として気紛れに持ち出されていたという。そして何の偶然か、気紛れに持ち出された一見無価値に思える展示物の中に、『聖杯の欠片』と呼ばれるものがあった。
忘却された、足蹴にされた、あるいは埋め隠された…そんな物や者やモノ達の無念の「こころ」、そして恨みという「逆転されたいのり」を養分として吸い込みながら、巡り巡って澱んだ川の汚泥の中に水音高く沈められた聖杯は、「地底の太陽」の念を核に少しずつ育っていった。
目を逸らさないで、気付いて、思い出して…
世の中に蟠る心と祈りの反転形、そんな想いを吸収し、およそ半世紀分を蓄積した結果創り出されたのが、皆が忘れ去った夜だけを繰り返す、この大阪の特異点の発端なのである。
「…成程。大筋は解った。だが、解せないことがある。お前の口ぶりからするに、今ここで全てを思い出した、という訳ではないのだろう?」
「あぁ、そうだな。お前と出会って、こうして旅を共にしていくうちに、ゆっくりと…氷山が融解するような気付きと変化がオレの中に生じた、とでも言おうか。」
「ならば何故、その過程を私に語らなかった。」
露骨に眉を吊り上げて迫るアルジュナを片手で軽くいなし、カルナは、口許だけをアルカイックに笑ませて頷いた。
「まず、オレは結果的に敵対することになる存在の大きさを知り、存分に魔力を蓄えておく必要があった。そして、オレという存在をこの地に繋いでくれる存在をオレ自身の目で見定め、それが確かであると解ったのならば、その存在とより強固な絆を結ばなければならなかった。アルジュナよ、人と人との強い絆とは、一朝一夕で築き上げられるものではないだろう?」
「それは、そうだが…。」
正論を聞いてもますます解せぬ想いと、それを諭すようなカルナの穏やかな口調がアルジュナの困惑を招く。ふ、と視線を横合いに流して言いよどむアルジュナを見据え、カルナは静かに続けた。
「今まさに梅田の一角に引き寄せられているのは、見て見ぬふりや忘却によって亡き者にされた怨念の集合事象だ。遂に人の心を蝕み、その身を祭りの狂乱の内に川に引き込む魔性と成り果てた者…流石に、このままではおいたが過ぎる、というものだからな。」
カルナに倣って、梅田の方角を見遣る。確かに、そこに赤黒く渦巻く不可解な瘴気のようなものがあるのがアルジュナにすら解るまでになっていた。否、そうではない。アルジュナも、カルナと同じものを見据える目を確かに持っているのだ。
「第四の顔、地底の太陽は、お前を甚く気に入ったらしいな。何故ならお前は、自分自身で忘却しようとしたもう一つの黒い自分自身を、サーヴァントになってからも確かに真正面から見据えることができた男だ。もしお前が、自分の中に宿る『黒』を完全に否定していたら、今頃川底に引きずり込まれて特異点のまたとないリソースになっていただろうが、お前はそんな隠れた自分を無意識に認めて見せることで聖杯の誘いを断ち切った。故に、だ、アルジュナ。お前は、遊び相手に選ばれたのだよ。サーヴァントではなく、人として。」
「待ってくれ、カルナ…。頭が…。遊び相手、とは…。第一、サーヴァントとは…?」
めくるめく事実と記憶の混濁に飲み込まれながら、アルジュナは頭を抱えて顔を顰める。あたかも、一年分積もりに積もった常識という名のデータが脆弱な配線を通じて一括で書き換えられようとしているような、そんなトラフィック・ジャムが思考回路に生じて頭痛と共に酷く胸が高鳴った。
「第四の顔は実に無邪気だ。何せ、生み出されて一年ほどで喪われてしまった存在だからな。忘れ去られた者同士、盛大な『かくれんぼ』をしようと思い立ったらしい。だが、その為に集められたものは無邪気とは程遠い負の怨念…。手に負えない程に膨れ上がって、ああやって梅田に一角を表すまでに育ってしまっている。見つけて刈り取ってやらなければ。今はまだ尻が見えている程度だが、胴体が、頭が見えたら、この大阪から始まって地球が丸ごと人理から忘れ去られることになるぞ。…ふむ、あちらも丁度、頃合いであるようだな。」
あちら、という代名詞が指し示すものを把握する余地はない。未だ頭の中を整頓できずにいるアルジュナの肩に、そっと手が触れてきた。アルジュナというマスターのサーヴァントだと信じて疑わなかった白皙の男、カルナが、穏やかに唇を持ち上げて微笑を浮かべている、その表情に酷い違和感を覚えたのは何故なのだか、今のアルジュナには解らなかった。ただ、同じ顔が浮かべる好戦的で突き刺さるような笑みが確かに記憶の中にあることを自覚して、大きく息を呑む。
「今こそ決戦の時。そして、お前のその眼が隠れた真実を見据える時だ。だが、その前に。」
「…その前に?」
カルナの右腕がスッと持ち上がり、その親指が、眼下に広がる大阪の街を指し示した。
「最後の腹ごしらえ、という奴だ。トリアエズナマフタツ…このマントラを唱えてからでなければな。感慨深い。実に感慨深い。」
「こんな悠長な最終決戦があるか!その前に、貴様それを…マントラの一種だと思っていたのか?詫びろ!ただちに神とバラモンに土下座して詫びるがいい!」
「うわっ、現在進行形でどんどん伸びてくこのログ、よく見たら宿泊費や飲食だけじゃない!『面白い変人』、『オモローおじさんのチーズケーキ』、『食い過ぎ人形クッキー』…大阪土産の定番か!うわぁ、また増えた!」
「他には…『午後イチのALL LIGHT豚まん』、『よしんばキャラクター人形焼』…などなど。ふむ、それにしてもとんでもない量だな。アルジュナは、現地で業者でも開いているのかね?」
「いや、業者でもここまで買わないだろ!カルデアが破産する前に止めなきゃ!ということで、色々な意味でピンチなので早く現地に向かってくれたまえ、君たち!」
「ハイ!マシュ・キリエライト、先輩…マスターと共にいつでも準備できています!」
「ひとまず現地でアルジュナとその協力者らしき存在に合流してくれ!座標は確認してある!その後のことは、追って考えよう。」
■□■
【meanwhile.2】
『アンサモンプログラム スタート。霊子変換を開始します。レイシフト開始まで、あと3・2・1…』
もう幾度も耳にした機械音声が、コフィンに身を投じた者の耳に届く。あらゆるものを分解して再構築する術式の中、全ての事象がくらくらと歪む霊子変換の波に飲まれ、気が付けばマスター・藤丸立香の足は、芝生をしっかりと踏み締めて大地に佇んでいた。時を同じくして、デミ・サーヴァントであるマシュの気配が軽やかな足音を伴って傍らに降り立つのが解る。軽い酔いに似たいつもの眩暈を頭を振って払うと、ぐるりと周囲を見渡した。
「マスター、御無事ですか?」
「うん、大丈夫。だけど、ここは…?」
心配そうに見詰めてくるマシュの紫水晶の瞳に、ひとつ頷きを返す。時は夕暮れを過ぎて夜の帳が落ち掛かる頃。そこは、大阪の街中とは懸け離れた、ただ広く妙に寂れた場所であった。足先を包む芝はざっくばらんに伸び放題で、近くのベンチは風化して真ん中から曲がっている。植木の枝は無惨に折れ、街灯は錆び、まるで久しく打ち捨てられた広場のよう。だが、こんなただ広いだけの廃墟のような場所が、記憶にある大阪の街に存在するとは考えにくい。言いようのない不気味な違和感だけが垂れ、周囲の空気を重く濁らせていた。
『おーい、マスター、マシュ!無事かい?』
その時、通信機を通じて耳に届いたダ・ヴィンチの声は、いつにない焦りを含んでいる。問題ないよ、と答えようとして、不意に異変に気付いた。ダ・ヴィンチは確かに、藤丸とマシュの名を呼んだ。そして、欠落した名前…ここにあるはずの気配が、どうした訳か全く感じられないのだ。
「カルナさん…カルナさんは?」
『オレなら、ここだ。』
「え…?」
二人、揃って息を飲む。立体映像に映し出されたダ・ヴィンチの険しい顔の背後に、眉根を寄せ、蒼い眼を苦々しげに細めた白皙の顔がある。暫しの絶句を、通信越しに聞こえたダ・ヴィンチの溜息が破った。
『…そう。何故か、カルナさんだけがレイシフトに失敗した。機材の不具合じゃない。特異点そのものに弾き返された、としか思えない現象だ。しかも、君たちの今いる座標も、想定した位置から大幅にズレてる。そこは、大阪の中心部からざっと二十キロ程度離れた…地図上の名称は、万博記念公園、となっているね。』
『不甲斐ない限りだ…』
「ここが万博記念公園…?いや、違う。ここは確か、こんな風じゃ…」
戸惑いながら首を横に振る。そう、記憶の中にある大阪の万博記念公園は、少なくともここまで荒れ果てた場所ではない。まだ生まれる前、復興と発展の象徴として華やかに開催された祭事の跡地は、今も立派な公園として整備されているということだけははっきりと覚えている。座標のズレ、カルナの不在、そして荒れ果てた万博記念公園と思しき場所がどういうことで何を意味するのか、考えるよりも早く、マシュとダ・ヴィンチが異変を察知して鋭い警鐘を発する。
「敵性反応を確認しました!こちらに近付いてきます!マスター!」
『二体…三体…小さいが、どんどん集まってくる!どうなってるんだコレ?この大阪、まるで前とは別の世界じゃないか!』
ダ・ヴィンチが叫ぶのも当然の事だった。今や、正体不明の敵性体は、生身の人間の目でも捕捉できる程に迫ってきている。正体不明の、影のような存在。小さな悲鳴とも嗚咽ともつかない金切り声を発しながら肉薄してくるモノを見据えてしまっては、迷っている暇などある筈もなかった。緊張の糸を張り巡らせながら右手を翳し、頼もしい後輩でもあるデミ・サーヴァントの少女に高らかに告げる。
「戦闘だ、マシュ。撃退するぞ!」
「はい!」
■□■
「くッ…これは、…まるでキリがない…ッ!」
細く頑丈な鉄材を武器代わりにして敵性体を払い、顔を顰めてアルジュナは短く叫ぶ。ささやかな、しかし平らげた量としては人並み外れた晩餐で補充した魔力を根こそぎ奪い尽くすかの如く、魔物たちは猛攻撃を仕掛けてきた。その勢いは、この一年で味わったどの戦闘よりも激しく、執拗に、何処までもアルジュナと、そしてそのサーヴァント・カルナを追い詰める。
赤く禍々しく光る梅田の一角が脈打つようにどくどくとどす黒い怨嗟を吐き、それを吸い込んだ魔物は、一際耳障りな金切り声を張り上げて敵意も露わに襲ってくるのだ。それらを次々と斬り捨て、黄金の軌跡を描いて薙ぎ払うカルナの腕には、いつの間にか幾筋もの赤い傷口が生じて、魔力による治癒すら追いつかない有様だった。
半死半生、それでも蒼い双眸に尽きせぬ闘志を漲らせて敵性体を蹴散らし、手にした武器で自ら道を切り開くその男の貌を、アルジュナは確かに知っている。否、それはアルジュナという存在の在り方に深く結び付き、決して切り離すことのできないただ一人の存在なのだ。今の今までどうして忘れ去っていたのか、自分自身にも全く解らない。それ以外にもまだ解かなければならない謎は数多くあったが、目の前に立ちはだかる試練はあまりにも険しく、鋭く、魔物の形を取って絶え間なく襲い掛かってくる。
「どういうことだ…。あれだけ輝かしかった大阪の街の灯が、消えていく…。」
顔を伝う血糊を乱暴に拭いつつ、猛禽のように眇められた蒼い瞳が、活気の消えつつある街の様子を捉えて歪む。
「消えているのではない、正確には消されている。この魔物共は街の灯に喰らい付く、故に、人々の手によって故意に消されている…。お前の耳にも届くだろう、恐怖に慄く住民の声が…!」
荒ぶる息に混じるカルナの言葉の意味が、今となってははっきりと理解できた。生身の人間を遥かに超越した聴力を研ぎ澄ませば、街のあちこちから『早く明かりを消せ…!』という声なき声が聞こえてくる。まるで、光がこの異常事態を呼び覚ましているという不確かな情報に踊らされているかの如く、一軒が消えたら隣が、またその隣が、意味もなく明かりを消していくのだ。同時に、照明という視界を奪われて狂乱する人々が悲鳴を上げながら走り回っている。
「集団心理、という奴か。…人間とは、溺れると藁にでも縋りたくなる生き物だったな…。」
戦場にも似た地獄の光景を前にして、苦々しく嘆息するカルナの脇腹に、刹那、鋭く伸びた巨大な魔物の触腕が死角から食い込んで薙ぎ払う。アルジュナが声を上げる間もなく、金と銀の軌跡を描いて為す術もなく吹き飛び、石畳の上に弾む痩身。派手な血飛沫と共に、並の人間であれば即時に絶命しているであろう鈍く不気味な、肉が潰れ骨が砕ける音が聞こえた。衝動的にそちらに駆け寄り、誰に命じられるともなく右手の甲を翳して息するように叫んでいた。
「第一令呪使用、霊基、修復…ッ!」
「…はァァ……ッ……!」
けほ、と血を吐いて粉々に打ち付けられたカルナの身体を、淡い緑色の光が包み込む。マスターに与えられた三画の令呪のうちの一画を躊躇いもなく使ったアルジュナを顧みることもなく、カルナは全身の発条で素早く跳ね起きて、今しも襲い掛かろうとしていた一際巨大な魔物を、短い雄叫びと共に握り締めた黄金の武器で刺し穿っていた。耳に堪えない無念の悲鳴…少なくともアルジュナにはそう聞こえるものを振り絞り、霧消していく巨大敵性体の陰で、戦闘に巻き込まれたと思しき一人の初老の男が震えながら腰を抜かして蹲っているのが見えた。直ちに手を差し伸べて引き起こしながら、閃光の如くに敵性体を蹴散らすカルナの腕に、今までのやり方では到底癒しきれない傷と鈍りが確かにあることをまた察して、忌々しさも露わに憚らず舌打ちを鳴らす。満身創痍を遥かに超えた状況で尚も闘うカルナと共に、人並みの力でどうにか魔性を打ち据えるアルジュナもまた、相応の疲労と、躱し切れなかった手傷をあちこちに負っていた。
「あぁ…!灯り、この街の灯りさえあれば、この男はまだ腕を振るえるものを…!」
そう、日天の化身であるカルナは、太陽の如き眩さがあってこそ、その象徴たる民草の繁栄がなければその真価を発揮しえない。今日の今日までこうして闘ってこれたのも、この大阪という街の明るさ、陽気さ、そしてそうあらんと輝く人々の繁栄の営みに助けられてのものなのだ。
その時、アルジュナの支えでどうにか立ち上がった男の傍に、夜目でもそれと解るほど派手な獣柄の上着を纏い、紫に染めた髪にくるくるのパーマを当てた野性味溢れる出で立ちの御婦人が足を縺れさせながら真っ直ぐに駆け寄ってくる。
「あんた!あんたぁ!こないなとこにおったんか、ウチえらい心配したでぇ…!」
「あ、ああ…この兄ちゃんに助けられてな…おおきに、おおきになぁ…。兄ちゃんたち、よう解らんけどえらい強いなぁ…。」
ごくごく普通の、大阪のオッちゃんとオバチャンが抱き合って涙ながらに喜んでいる。手を合わせんばかりにして頭を下げる二人を前に、アルジュナはどうしても険しくなる一方の表情を精一杯緩めて微笑して見せた。
「早く、安全な場所に逃げてください。繁華街から外れたところに。…あぁ、もう少し灯りさえ点ってくれればこちらも全力を出せるのですが、口惜しい…。」
「おい、兄ちゃん。今、灯り言うたな?そりゃ、あっちこっちで普通に点いとる店だの飲み屋の看板のことか?」
不意に、オバチャンに支えられたオッちゃんが真顔になる。
「とにかく、ド派手な灯りがあればええんか?大阪が明るければ明るいほど、兄ちゃん達、強うなるんやな?」
「ええ、そういうことになります。詳しくは説明できませんが…活気さえあれば強くなる。もっと、輝きを…闇夜に対抗すべくして灯された、夜に負けない人々の灯りこそがこの魔物を打ち払うのです!」
暫し夫婦で顔を見合わせた後、オッちゃんは強い意志を秘めた顔で頷いた。
「よっしゃ、その賭け、乗ったでぇ!ワシはこれでも浪速一番の大工の棟梁や!大阪職人の意地ィ見せたるわ。ちょっとばっかり待っとれや。おい、お前もや!」
「浪速一番とか、ようホラ吹くわぁ。博打はてんであかん癖に。せやけど、ウチも乗ったで。兄ちゃん達、ボロボロやないの。なのに、こないおっかない化け物退治に行くん?」
負けじとオバチャンも、既にスマートフォンを片手に、拙い手つきでポチポチと操作しながら問い掛けてくる。
「ええ、そうです。その為に私達はここにいるのですから。…今は、万博記念公園の太陽の塔へ。一刻も早く向かいます!」
「ええ度胸やなぁ、こないなええ男が二人も気張ってるんやから、ウチらが気張なんでどないなるん!」
短いやり取りの間にも、絶え間なく襲い掛かる魔物から三人を、否、街を守り続けるカルナの姿を目の当たりにして、物陰で固唾を飲んでいた人々が一人、また一人と路上に現れ始める。闇夜に尚も眩い黄金の光、その圧倒的な力に全てを託そうと、全員がスマートフォンを片手に情報を送り始めた。瞬く間に見えない情報網を駆け巡る伝言、それは声であり、言葉であり、映像であり、様々な手段で大阪の街中を駆け巡る。一人が十人に、十人が百人に、更に広く、縒られ束になってより強固に信憑性を高めながら。そして、街の闇夜を照らし出す蛍火のようなスマートフォンの明かりが一瞬魔物を怯ませたのを、二人の英雄の目は決して見逃さなかった。誰よりも戦を知り尽くした戦士は、顔を見合わせで頷き合う。
「後は、宜しくお願いします。私たちは問題の源、万博記念公園へ向かう。そこを灯りで満たす為に…皆さんを信じています。私は…いえ、私たちは、この大阪の街を救いたい。心から…そう思います!」
「…く、…ああ、その通りだ、アルジュナ…。とん平焼き、餅入り海鮮お好み焼き、みたらし団子…そしてそれを笑顔で提供してくれる人々。…オレは、それが消えるのだけは…耐え難い…っ!」
「そこ!大怪我をしているところ恐縮だが、物事を口に出す時は優先順位に気を付けるように!」
■□■
「酷い有様だな…。梅田のオフィス街を中心に、まるで地獄絵図だ。魔力の瘴気が高すぎて、並の人間では近付くこともできないだろうね…。」
カルデアの経営顧問ことシャーロック・ホームズが、モニターに映し出された梅田のビル街を見て眉を寄せた。
「人間ばかりか、防御力の高いサーヴァントですらどれだけ耐えられるか…。しかも、シャドウ・ボーダーみたいな車両で間接的に乗り込むのならまだしも、生身では…。」
ダ・ヴィンチの表情も暗く澱んだままだ。大阪の中心部、ひしめき合う巨大なビル群に群がり、絡み付くように黒い靄が垂れ込め、時折赤い雷光のようなものを閃かせながら瘴気という名の負の魔力を増し続けている。まるでその区画自体が叫ぶように汚泥の如き闇を吐き出し続ける厄災の中心は、一際目を引く高いビルの中腹辺りに澱となって積もり、更なる負を吸い寄せて育っていた。
「ンンン…拙僧、見覚えがありまするなぁ…。故ありて結界となった建物の一角に集まる鬼気…。そう、これは…。」
故郷に近い関西の事象ということで、モニタールームに入ることを許されていた蘆屋道満が、猫の様に目を細めてゆっくりと顎を撫でる。
「まるで、京の都の羅生門の様でありまする。悪鬼悪霊、怨念怨嗟、魑魅魍魎が積もり積もって溢れ出し、更なる邪念悪念を呼び寄せる。…之なるは梅田の羅生門。正に、梅田羅生門と呼ぶに相応しき事象にて。」
「梅田羅生門、か。言い得て妙だな。」
感心したとでも言わんばかりに片眉を僅かに持ち上げるホームズ。平安時代の歴史に残る都の怪異といえば知らぬ者はない瘴気の根源、その有様に酷似していると、当の時代を生きた道満が語るのであるから間違いはない。
ダ・ヴィンチが、今なお戦闘中のマスターとマシュに向かって語り掛ける。
「聞こえるかい、マスター!諸悪の根源は梅田羅生門だ!そこに向かってのナビゲートを全力で行う。…いや、待ってくれ。これは…この反応は、アルジュナ…?かなりの速度で万博記念公園に向かっているぞ…。チャンスだ、上手く落ち合えれば勝機が増す!相手の座標は今から送るから、うまい具合に合流してくれ!」
『はい!』
『マシュ・キリエライト、了解しました!』
■□■
「ッ…ぐ、……はっ…。」
最早全身で傷を負っていない箇所はどこにもない。満身創痍を体現しながら、それでも万博記念公園へ、太陽の塔へと敵を打ち払いながら駆け抜けてきたカルナが、公園入場ゲートの直前で不意に苦しげに咳き込んだ。ただ執念だけで黄金の武器の長柄をしっかと掴み、杖代わりに身体を支えるその膝がふらりと蹌踉ける。吐き出した大量の血反吐が服を染め、尚も溢れてぼたぼたとアスファルトを黒く染めた。全身、無事な箇所はどこにもない。手足が胴体に繋がっているのが不思議な程の深手を受け、尚も執拗に迫る魔性を撃退しようと、正に霊核に宿る最後の炎を燃やし尽くそうとするカルナを前に、アルジュナは傷だらけの右手を翳して叫ぶ。
「貴様、消滅する気か!…第二令呪使用、霊基を修復する…!」
手の甲から図形の一部が消失し、身体から魔力が失われていく消耗感と同時に、今にも倒れ込みそうだったカルナの足に辛うじて力が戻るのが解った。使える令呪はもう残すところ一画、だが、万博記念公園は、一年もの歳月の間に風化が進み、木々も生い茂るが侭にそこかしこで深い闇を作り出している。居住者のいないただ広い公園であるが故に、魔が溜まり人が寄り付かなくなるのも早かったのだろうか。廃墟のようになったゲートを尻目に、激しさを増すばかりの魔性の攻撃をひたすらに打ち返し、駆逐して塔へと向かった。夜空に両腕を広げた塔のシルエットは既に視界に入っている。しかし、近付こうとすればするだけ、周囲を取り囲む魔物は大も小も、金属音に似た怒声を張り上げて広場に集結してくるのである。これでは一方的な消耗戦だった。まして今のカルナに、その霊基の支えとなる街灯りは届かない。
ならば。自分がマスターであれば、成すべきことは何なのか。たとえどんな宿業で繋がれた相手であろうが、自分の知る最も優れたマスターならばどうするだろうか。その答えは、不思議な程にすんなりと思い浮かんできた。覚悟を決めて唇を引き結び、最後の一画を自らのサーヴァントに注ぐべく、静かに意識を集中させる。
不意に、その手首を有無を言わさぬ強い力が掴み、阻んだ。
「カルナ、何を…?」
血みどろになりながらも、あくまでも首を横に振って治癒を拒むカルナに、アルジュナは怪訝な視線を向ける。
「アルジュナ…ここまで来ればさすがにある程度の記憶も戻っているのだろう?その上で問おう、お前はこのオレを、貴様の宿痾、カルナと理解した上で、それでも身を削って癒すというのか。」
「黙れ、散々共に飯を分かち食らってきた癖に、今更何を言い出す。」
「そうか…。そう、か。」
ふん、と鼻を鳴らしてその言葉を一蹴する。今やアルジュナの脳裏には、封印が解かれた魔法の泉の様に数々の記憶が湧き上がり、大阪の地下街に佇んでいたあの日からずっと空のままだった部分をゆっくりと満たしていくのだ。徐々に組み上がる、連綿と続く記憶のパズル。そして今、図らずも欠けたパズルの最後のピースがぴたりと嵌まろうとしていた。
「アルジュナ!見つけた!」
「大丈夫ですか、アルジュナさん…!」
遠くから、息を切らして駆け寄ってくる少年の、そして少女の声を、自分は確かに知っている。ああ、と感嘆しながら、気配のする方角にゆっくりと向き直り、満面の笑みを浮かべた。
「本当に…久しぶりです。我がマスター。そして、マシュ。…御無事で何より。このアルジュナは、貴方のサーヴァント。そんな大事なことを、どうしてずっと思い出せずにいたのでしょうね。」
「詳しいことは解らないけど、色々あったみたいだね。…で、その、えっと…そっちの人…は…。」
安堵の笑顔を浮かべたのも束の間、マスターである少年は、複雑な表情で傍らのカルナを見詰め、似たような表情を浮かべるマシュと交互に顔を見合わせている。いくら外見が襤褸布の様に傷ついていようと見間違える筈もないだろう、その反応がただ不可解で、首を傾げて問い返した。
「妙なことを仰いますね。これはカルナでしょう?ランサー、カルナ。我が最大の宿敵であり、今は貴方のサーヴァント。…違いありませんね?」
『うーん、残念ながら、アルジュナ。その人は、少なくとも、君の知るカルデアのカルナさんだけではないんだよ…。』
歯切れ悪く言い淀むマスターに代わって、ホログラムの中に現われたダ・ヴィンチが言葉を続けた。
「何ですって…?」
『本物のカルナさんは、今もここ、カルデアにいる。どういう訳かレイシフトに失敗してね。もっとも、そのカルナさんは、マスターとマシュが大阪に再度レイシフトすると同時に霊基グラフに軽い異常が発生して、念のためネモ・ナースとアスクレピオス達医療チームの元に連れていって貰ったんだ。だが、カルデアのカルナさんが間違いなく別の存在であることは、私とホームズが証明しよう。その証拠に、そちらのカルナさんの霊基グラフは、明らかにランサー・カルナのものじゃない。』
「そんな…。カルナ…、では、お前…は…?」
技術顧問たる万能の天才、可憐な少女の口から紡がれる冷静な言葉に、少なくとも嘘偽りは感じられなかった。呆然と、ただ、元々感情表出の乏しい宿痾の顔を、今の今まで真名を疑う余地もなかった男の貌を見詰めて言葉を喪う。
『単刀直入に聞こう。カルナの姿を取るそこの君は、一体誰なんだ?何が目的でアルジュナと共にいるんだい?』
薄氷のように冷ややかな、しかし極限まで張り詰めた空気が辺り一面に広がるのを感じた。
「カルナ…?」
冗談にしては質の悪い展開だった。ようやく失われていた記憶を取り戻したかと思えば、その肝心な核たる部分が全き偽造なのだという。ダ・ヴィンチの言葉を真っ向から否定したかった。いや、カルナ自身の口から否定して欲しかった、と言った方が正しい。縋るような気持ちで恐る恐る見詰めた白皙の男、今も全身に癒え切らぬ傷を負いながら、蒼い瞳を微塵も揺らがせることなく佇んでいる。
つと、彼の口許がほんの僅かに、柔らかな笑みに似た表情を取った。硬質でありながら、内側に深い誠意と慈愛とを孕んだ笑顔。その視線をアルジュナに、そして、カルデアのマスターへとゆっくり巡らせ、静かに脚を一歩、踏み出す。決して手放すことなく闘い続けてきた黄金の、長い錫杖の先端が燦、と涼しげな音を立てて辺りに音叉の如き振動を走らせた。
「カルデアのマスター、そしてこの地には在らぬ知恵者よ。…先ずは、非礼を許して頂きたい。オレは未熟者故、名乗る名を持ち合わせてはいないのだ。だが、その代わり。」
不意に、カルナの形をした存在が、ゆらりと暗い影のように闘志を漲らせる。マスターの傍に高速で踏み込むや否や、黄金の錫杖の鋭い切っ先が、少年の肩をあわや掠める程の距離に力強い突きを放った。
「うわ…っ…!」
「カルナっ!」
マスターが腕で顔を庇うのと、アルジュナが目を見開いて水平に手を伸ばし掛けるのと、マシュが息を飲むのと、そして、話に気を取られている隙に背後まで迫っていた魔物が鋭い武器の切っ先に貫かれ、苦しげな悲鳴を上げて溶けるように消滅していくのはほぼ同時だった。人理で唯一のマスターに危害を加えようとしていた存在を見事な武器の一閃で消し去り、安堵の表情を浮かべるカルナは、口角から真っ赤な血を流し、肩で大きな息をしている。その表情も、言動も、何一つ己の知るカルナとは相違ないというのに、然しカルデアのカルナではないという存在。ふるり、と朱に染まった銀色の髪を散らしながら頭を振ったカルナは、呆然と立ち尽くすマスターとマシュ、そしてアルジュナを順に見遣って静かに口を開いた。
「残念ながら悠長な話をしている時間はないが、その分はこの通り、行動で示そう。オレがどのような男で、人理にとってどのような存在なのかは、そこな大英雄アルジュナが示してくれるだろうさ。」
彼が瀕死であることは誰の目にも明らかだった。傷付き、倒れそうになりながらも、その力強い意志の軸が揺らぐことはない。たとえそれが勝ち目のない戦いだとしても喜んで身を擲つ、黄金を纏った男。一年もの間行動を共にし、失っていた記憶を取り戻した今、アルジュナは自信を持って己の主たる少年の目を見据え、言い切ることが出来る。
「えぇ、決まっています。今しもマスターを穿つかと思わせた、この言葉足らずが何よりの証拠。マスター、彼は、カルデアのカルナではないのかもしれません。しかし、私は随分と長い間、彼と旅を共にしてきた。この者はカルナ同等、信用に値する男です。それは、このアルジュナの命を賭けてでもを証明して見せましょう。」
『…だ、そうだ。どうする?彼のマスターは君だからね。判断は君に任せるよ。』
通信機の向こうから、ダ・ヴィンチの冷静な声が告げる。少年は、デミ・サーヴァントの少女と数瞬、視線を交わし合った。だが、すぐに力強い黒い瞳がアルジュナを見上げ、頷く。
「事情はまだよくわからないけど…俺はアルジュナを信じるよ。俺たちはここまで、いつもそうやってきたじゃないか。」
「ありがとうございます、マスター。」
肩に漲っていた緊張がふっと和らぐのを感じた。そして恐らく、ダ・ヴィンチもホームズも、少年のこの答えを半ば予想していたのだろう。特に異論もなく、決まったね、という短い声が返ってきた。
「まずは、その怪我を治さなきゃ…。令呪一画使用、アルジュナを回復する…!」
少年が、真なる令呪の刻まれた右手を翳して唱えると同時に、魔術回路を通じて温かく力強い魔力が流れ込んでくるのを感じた。立っているのが不思議な程ボロボロに傷ついたカルナには到底及ばないが、あちこち負傷して疲れ果てていた身体に体力が戻っていくのをはっきりと悟る。だが、その魔力の恩恵を受けたのは、アルジュナだけではなかった。
「これが…マスターの魔力による癒しか。見事なものだ。実に見事なものだ。」
「カルナ…?」
その一画は、アルジュナのみならず隣にいたカルナにも伝播し、壊れかけの人形さながらの惨状であった身体中の傷をすっかり癒して、敵に立ち向かう力を回復させていた。一体どういうことなのかと首を傾げるアルジュナの耳に、ダ・ヴィンチの声が届く。
『どういう理屈なのかは分からないけど、アルジュナは今、そちらのカルナさんのマスターとして機能しているようだね。推測だけど、カルデアのマスターが帰還させられた時にバックアップとしてこの地に設定されたのか…ともかく、分析の結果、アルジュナとカルナさんはパスで繋がっているんだ。だから、アルジュナの回復はカルナさんの回復にも繋がる訳だね。』
呆然と立ち尽くすアルジュナの肩を叩き、はっと我に返らせる存在があった。氷のように鋭く、それでいて憤怒のない意志だけに満ちた双眸を向け、顔に掛かる銀色の髪を掻き上げながら、決して切れない宿業で結ばれた男の顔をした存在が力強く告げる。
「勝機を逃す手はないぞ、アルジュナ。…我がマスター。オレとお前のパスは切れていない。ならば、オレはまだお前のサーヴァントだということだ。その残りの一画、全てオレに託してくれ。さすればオレは、今度こそ情け容赦なく闇を照らし出し、この熱で全てを灼き滅ぼす獅子搏兔の陽光となろう。だが、それには。」
カルナは一度言葉を切り、全身でカルデアのマスターと、決して解けぬ縁で結ばれたデミ・サーヴァントの少女とに向き直った。
「お前達の力が必要だ。オレの力の根源は、太陽であり光。もしくはその概念に等しき生命の営みであり、活力。故に、オレはこの先の太陽の塔に向かう必要がある。だが、今の太陽には、肝心の概念が欠けているようだ…。僅かでもいい。お前達の力で、あの今にも闇黒に吞み込まれそうな太陽の塔を光り輝かせることは出来ないだろうか。」
『えぇと…。つまり、カルナ…と敢えて呼ぼう。君は、あの太陽の塔に光を集めさえすれば、今の状況を打開できると、そう言うんだね?』
通信機越しに、悩ましげなダ・ヴィンチの声が聞こえる。それに、ただ無言で頷いて応じるカルナの力強い横顔には、言葉では説明のできない説得力と確証とがあった。少なくとも、一年の旅を共にしたアルジュナにはそう思えるだけの何かを確かに見いだせる。今は、非常用保守灯の豆電球だけが僅かに灯るだけになったあの太陽の塔こそが、この男が太陽の化身たる姿をしている最大の所以であり、活路なのだと、そう信じるに足りるものであった。
「うん…、光を起こすだけの魔術なら、俺の礼装にも組み込まれているから…。」
未だ戸惑いを隠しきれてはいない口調で頬を掻きながら、されど、この藤丸立香というマスターは、緊急事態において信を寄せるサーヴァントの提案に異や疑問を唱えることはしない。続いて、マスターの答えを聞いたマシュも、少し考えた末にしっかりと頷く。
「はい。私の宝具は、白い城壁。一切の敵意、悪意を寄せ付けない魔を弾く城塞。そこに先輩…いえ、マスターの灯した光を全て集め、弾き返しながら増幅させれば…。」
『なるほど、理論上は可能だね。光の角度の最適な位置座標はこちらで割り出せるとして…問題は、マスター君とマシュが戦線から離脱せざるを得ない、ということになるが、そこは?』
疑問を抱いた際、片眉を上げる癖のあるホームズの顔がホログラムに映る。それに応じたのは、二人分の力強い首肯だった。
「えぇ、このアルジュナ、マスターの最優サーヴァントであることを、今になってやっと思い出しました。まだ全力には至らないようですが…必ずや、この男の為すべきことを成し遂げさせてお見せしましょう。」
「問題ない。…何、必ずやり遂げて見せる。この男の力量は、もう充分に把握した。背を預けるに値する。」
アルジュナと、そしてカルナからの返答。ほんの僅かな沈黙を挟んで、カルデアと、そして場の空気が一変した。
「よし、ダ・ヴィンチちゃん、座標を送って!マシュ、至急離脱だ。宝具の準備、頼んだよ!」
「ハイ!マシュ・キリエライト、全力でマスターと…そして、アルジュナさんとカルナさんの盾となります!」
『よし、作戦開始だ。四人とも、健闘を祈ってるよ!』
ダ・ヴィンチの力に満ちた声を合図に、二組のマスターとサーヴァントは素早く次の行動に移行する。この迅速な判断力と行動力 今までどれだけの危機を救ってきたのか、アルジュナは既に思い出していた。
「と、その作戦が始まる前に、少々オレの話を聞いて欲しい。」
今しもマスターとマシュが散開しようとしたその時、割り込んで口を開いたのは、誰より事態の迅速な打開を望んでいた筈のカルナその人であった。誰もが訝しげに眉を寄せる中、首を傾げてアルジュナは問い掛ける。
「急げと言ったのはお前でしょう。なのに何故止める?」
「まあ、そう急くな。諸悪の根源は、梅田のビル街…その中でも一際目立つ高層ビルの中程に集まっている、ということは伝えた通りだが、その正体が何なのか。気に掛かりはしないか?」
思いも拠らない言葉に、アルジュナも、マスターも、マシュも、そして通信機越しのカルデアの面々も思わず息を飲む。
「何…?それではお前は、あれの正体を知っている、ということか?」
「ああ…。アルジュナよ、そして、マスター、マシュ、カルデアの皆よ。あれなる物が、この大阪の街を変異させた原因だ。…心して聞け。その叫びを。訴えを。今まで誰にも拾い上げられなかった怨嗟の塊を。」
凛と響くカルナの声に、一同は、梅田羅生門と名付けられた方角に意識を向けた。
遠くに見える、今は灯りの消えたビルの群れ。赤黒く渦巻く怨念の集合体はくっきりと暗雲となってドロドロとビル街を包み込み、その中で、心臓のように、ひとつだけの目のように蠢く中心部が、脈打ちながら嗚咽のように叫びを放っている。実際のところ、それは凡人にとっては不快なだけの地鳴りに過ぎず、言葉でもなければ声でもなかった。ただ、そこに耳を傾けようと思った者、カルナの言葉によって気付きを得た者達の心にだけ、言の葉の形を結び、意味を成して直接届いてくるのだ。
■□■
…あああぁあぁァぁあぁあぁぁあうあああぁァぁああああぁぁ…
「客が来ない…このままでは一家心中しかないのに、お上は何もしてくれへん…!」
「もう金なんて一円もないのに、貸し付けもないなんて!」
「家に帰りたいよ…仕事場で寝泊まりする生活なんか、もう嫌だよぉ…。」
「店員は奴隷じゃねえ…!なんで怒鳴られても笑ってなきゃいけねえんだ…!」
「ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…全部私の仕事が遅いのが悪いんです…だから怒らないで、怒鳴らないで…!」
「パチンコばかり、キャバクラばかり、ホストクラブばかり槍玉に挙げて叩いて」
「俺らだって働いてるんだ!」
「そんなデマを信じないで!お願い、正気に戻ってよ!」
「いたい、痛いよ、ママ、殴らないで…叩かないで…!」
「風情被害だ、魔女狩りだ…。」
「学歴がそんなに偉いのか?」
「アタシはアンタのストレスのはけ口じゃねえよ…!」
「畜生、お前が通ってる道は誰が作ったと思ってやがる…!日雇いをバカにしやがって…!」
…ううううぉおぉぉぉぉおおォォおぉおぉぉぉォおおぉぉォおおぉぉぉォ…
■□■
『…これは。』
管制室のダ・ヴィンチがやっと呟くまで、誰もがをの集合体の発する声なき声に意識を奪われていた。あまりの激憤、醜さ、悲痛さ、おどろおどろしさに耳を塞ぎたくとも、それすらも出来ずにただただ言葉を失って立ち尽くすことしかできない。
「そうだ。そういうことだ。この世には、たとえ不急でも目に見えなくとも、不要なものなど何ひとつない筈。だが、人間は、目の前にあるものを都合のいいように解釈する。…故に、これらは聖杯に引き寄せられてしまった。本来、失われた太陽の顔の願望は、かくれんぼという遊びに似た実に無邪気なものだった。しかし結果的に引き寄せられたのは、見つけて欲しいのに見つけて貰えない物…無視され続けてきた負の感情だったのだよ。こうなったら、もう遊びでは済まない。刈り取ってやらねば。」
『…あぁ、こちらでも魔力の流れがはっきりと観測できている。道頓堀川の一角に生じた魔力の淀みが、梅田のビジネス街の辺りにに吸い上げられているのをね。見たまえ、アレは腕を形作って、標的をこちらに据えて掴み掛ろうとしている。そして本体はあの一番高いビルの中腹に溜まって、このまま空想樹の様に育つ気だ…。』
『ンンンンン、なりませぬ。あれほどの怨念の塊、もし花開いてしまえば、五つの社で結ばれた近畿大結界を容易く破り、大阪のみならず全世界にこの澱みを飛ばしまするぞ。具体的に言えば、地球上がこの特異点大阪のようになりましょう。ンンン何たる蛮行、許し難し!』
『えっ?リンボ君がそれ言っちゃう?マジで?…コホン、これはこっちで後程シバいておくとして、マスター君。気の毒な事象だけれども…あれは、消さなければいけないモノだ。』
ダ・ヴィンチの鬱々とした、しかし毅然とした声が通信機越しに告げる。アルジュナのマスターとは、その意味が解らないほど甘く、決断が出来ないほど弱い少年ではなかった。少し沈黙を挟んだ後、大きな息と共に指令が下される。
「そう、だね。今度はちゃんと…見つけてあげなきゃいけないんだ。俺達じゃなく、この大阪の人たちが。…だから、アルジュナ。カルナさん。」
手伝ってくれ、と、言葉なき声が意志を漲らせて呼び掛けてくる。
その答えを聞いて、実に満足げに、慈愛すら伺い見える眼差しを細めて優しげに微笑むカルナが見せた表情の意味は、アルジュナにはよく解らなかった。
『マスター君、そしてみんな、よく聞いてくれ。今まで戦っていた魔物のデータを分析した結果が出たんだ。…結論から言うと、この正体不明の敵性体は全て、あの梅田羅生門の放つ魔力と同質だ。つまり…。』
「大元を断たない限りは、永久に湧き続けると…そういうことですね?」
アルジュナが敢えて言葉にするまでもなかった。この場にいる四人全員に、ただならぬ緊張が走り抜ける。もう幾度となく難局を切り抜けてきたからこそ共有し、理解できる結末だった。
「だけど…このままにはしておけないよ!聖杯の欠片を回収しないと、この街が…そして、世界中がこうなっちゃうんだろう?」
『そうだね。汎人類史への影響は避けられない。それに…このまま強制送還したら、そちらのカルナさんと繋がったアルジュナの霊基がどうなってしまうのかは未知数だ。でも、勝算がない訳ではない…だからこそ、我々にあれを見せたんだろう?そっちのカルナさん。』
拳を握り締める少年の瞳に宿る、彼なりに導き出した答え。彼ならばきっとそう言うだろうと思っていた通りの言葉を聞いて、知らず唇の端が綻ぶのをアルジュナは感じた。ああ、この非力な人間の少年こそが我がマスターだと改めて思い直す。そして、話を振られたカルナもまた、確と頷いてダ・ヴィンチに応じていた。
「…無論だ。故に、あれを弾き飛ばす程の力が要る。この身に陽光の活力を漲らせる為には、どうしてもあの塔を輝かせねばならない。太陽であり、繁栄の象徴であり、そして此度の異変の発端でもあるあの塔。あれの輝きを取り戻さないことには、対抗は不可能だろう。」
「だったら、俺達がそれをやるしかないんだ。…急ごう、アルジュナ、カルナさん。俺達が光を造り出すまで、持ちこたえてくれ!」
最早マスターは、目の前の存在をカルナと呼ぶことに躊躇がないようだった。マスターがカルナと認めた男、であれば、己もこの存在がカルナであると声高に訴え続ける必要はない。互いに切れない宿縁で繋がれた、しかしそれ故に共闘相手としては誰よりも信の置ける男が共にある。それだけで千の軍勢を得るより遥かに心強いことは、多少癪に障るとしても認めざるを得ない事実としてアルジュナの記憶の中に明瞭に残っていた。
「では、行こう。マスターとマシュ、すまないが光を頼む。オレとアルジュナは、極力塔の近くで双方を支援しよう。異存はないな?」
互いに目配せをして、頷き合う。話は、ただそれだけで終わった。
『…では、今度こそ。…健闘を。』
通信機から聞こえるホームズの声を合図に、二手に分かれて走り出した。人の身を超越した高速移動の感覚を取り戻し、カルナと共に太陽の塔を目指す。ごう、と耳朶を切って流れる風の中に、極小さな声が聞こえたのは、もしかするとアルジュナの錯覚かもしれなかった。
「…感謝する。」
■□■
【critical moment】
「座標、到達しました!宝具展開、準備は出来ています!」
マシュが、その盾を構えて力強く叫ぶ。
「よし、行くぞ。礼装、起動…っ!」
大きく息を吸い込み、洞窟内を照らし出す程の魔力の明かりを放つ。そのタイミングをごく自然に把握して、マシュが宝具の城壁を展開させた。
「真名、開帳───私は災厄の席に立つ。其は全ての疵、全ての怨恨を癒す我らが故郷――顕現せよ、『いまは遙か理想の城』!」
太陽の塔を半分囲う形で展開される白亜の壁は、その眩さ故に自ら光を放ち、また、魔力によって放たれた光を増幅させる。少しずつ、ゆっくりと、白亜の壁と太陽の塔の間で呼応するように光が強まっていくのは人間である藤丸の目にも見て取れた。だが。
『くっ…敵襲だ、流石に、これを見逃してはくれないか…!アルジュナ、カルナ、そちらはどうなっている?』
レーダーが、無数の敵影を捕捉する。ホログラムで伝えられた点の数は、大も小も、その全てがまるで一つの意志に統率されたかのようにマシュの盾が放つ光に吸い寄せられていくのだ。マシュの宝具は、使用者の心が崩れない限り、一切の敵意・悪意を寄せ付けない「魔を弾く城塞」。それ故に、城壁となったマシュを加護することは不可能である。そんなことは知り尽くしている自分自身には、マシュを防御する程の戦闘力はない。大きく目を見開いて見守るレーダーの敵影は、最早、束になれば幻想種や竜種にも匹敵する程の脅威になっていることは明らかだった。
「まだだ…まだ、足りない!あの怨念に匹敵する力を開花させるには、もう少し…今少しの光が必要だ!」
怒鳴るような語気のカルナの声。そうしている間にも、光り輝く壁を敵と認識したのだろう黒く澱んだ魔物たちが、次々とマシュの展開する宝具の壁に牙を立てて喰らい付き、打ち据え、よじ登ろうとしている。
「くう…ッ…!」
苦悶の声と共に、盾を構えた少女の黒いブーツに包まれた可憐な爪先が、土をザリ、と抉り、何とか踏み締めて持ちこたえる。渾身の魔力を注ぎ込んで尚も宝具防壁を保つマシュの眼前を、黄金の鋭い錫杖が一薙ぎし、絡み付いてくる魔性を切り裂いて消し飛ばした。
「カルナさん…!」
「駄目だ、数が多すぎる。これでは展開どころではない。オレとアルジュナで雑魚を排除する、どうにか持ち堪えろ!」
いつの間にか、太陽の塔寄りに位置していた筈のアルジュナとカルナが、光の城壁をよじ登ろうとする小型の魔性を手当たり次第に跳ね除けていた。ランサーのカルナに勝るとも劣らない動きで黄金の錫杖を操り、貫き、薙ぎ払うその姿は、どこからどう見てもカルデアのカルナそのものだ。そして、そんなカルナが力ではなく数で圧されている、という現実が、少年の背筋に冷たい緊張を走らせる。
「ぐ…!すまん、カルナっ…!一匹、取り逃がした…ッ!」
離れたところで、先端が刃物のように鋭い鉄柵の一本を武器に戦うアルジュナが、苦痛交じりに叫ぶのが聞こえた。彼とパスで繋がったマスターには、アルジュナが未だサーヴァントとして完全な力を出し切れていないことが手に取るように解る。何もできない苦悩を噛み締めながら、落ち着け、と自分に言い聞かせ、少年は拳を握り締める。
「ッ、しまった…ッ!」
アルジュナの方から地を這うように押し寄せる魔物の一匹を深々と杖先で穿ち、引き抜いたその勢いで頭上に迫る一匹に斬り掛かる。だが、防戦を強いられるカルナの攻撃範囲を潜り抜けた魔物の一匹が今、耳障りな金切り声を上げながらマシュの背後に控えて光を送り続ける藤丸自身に襲い掛かろうとしているのが見えた。
「させないッ…!」
咄嗟に地を蹴った盾の少女が割って入り、細い全身から力を絞り出して魔物の手から唯一のマスターを守り抜こうとしている。だが、宝具を展開している間は、マシュは全くの無防備も同然だった。二匹、三匹と群がってくる魔物を巨大な盾で打ち据える、その息は上がり、攻撃の手も鈍っている。緩やかに、城壁の光が弱まる。黄金の錫杖を振るって何とか魔物を食い止めようとするカルナも、離れた場所で魔物と格闘するアルジュナもまた、度重なる攻撃に疲弊しきり、その身に手傷を負っているのが遠目から見ても解った。だが、それでも、光を造り出す礼装の起動を止める訳にはいかない。そして、それを増幅させて次第に巨大な光の塊を作ろうとしているマシュの宝具も。ならば、非力な人間のマスターに過ぎない自分に出来るのは、この命を魔力に変換してでも皆を守り切ること、それだけだった。右手を高々と翳し、血を吐くように声を振り絞る。
「令呪一画を以って、マシュと…皆を回復する…っ!」
「マスター…っ…!」
マシュの悲鳴にも似た声と共に、再び白亜の城壁に魔を押し返すだけの力が戻った。腹の底から声を張り上げ、渾身の力で盾の障壁を展開し続けるマシュを、そして際限もなく湧き続ける魔物を相手に消耗する一方の二騎のサーヴァントをただ黙って見ていることしか出来ない。無力感と歯痒さに打ちひしがれそうになりながらも、礼装に込めた光を目一杯強めて叫んだ。
「このまま持久戦に持ち込む…っ!準備が出来たら、すぐに塔に向かってくれ…!頼む、アルジュナ…カルナさんっ…!」
そう、この二騎ならば。そしてマシュが共にいるならば。
必ずや、やり遂げてくれる。そう信じるからこそ、一介の力なきマスターである自分は、今までの難関を乗り越えてこれたのだから。
その時。
『おーい、兄ちゃん。間に合うたかぁー?』
罅割れた拡声器越しの、妙に暢気さを感じる初老の男の声が辺り一面に響き渡った。次いで、地響きと共に何かが押し寄せてくるのが解る。
「これは…!」
誰もが息を飲んだ。聞こえてきたのは、港に轟く船の汽笛、ではない。カッと遠方まで照らし出す、目玉に似た一対の目映く白い灯り。それが無数に集まって光の軍団と化し、威嚇のように、勝鬨のようにクラクションを鳴り響かせている。逆光から片腕で眼を庇いながらも、薄く開いた視界の中に映ったのは、どこから集まってきたかもしれない無数の大型トラックの船団だった。数えることが出来ただけでも一大隊に近い量の大型トラックが、今、太陽の塔を照らして一斉にヘッドライトを照射している。先頭の一台の窓ガラスが開き、いかにも人のよさそうなオッちゃんが顔を出した。
『おう、間に合うたな、多分そうやな?なんや光らせればええんやったら、ワシらかて出来るで。浪速の底力、見せちゃるわ。こん化けモン共…ようけ一年もワシらの大阪をけったいな世界にしてくれよってからに。見さらせ、浪速輸送隊、突撃や!』
オッちゃんの威勢のいい合図と共に、屈強なトラックドライバー達が鬨の声を張り上げ、クラクションを鳴らしながら、魔物の群れに向けてじりじりとアクセルを踏み込んでいく。標的の分散に戸惑い、統率を失った魔性は、単体ではあまりに小さく、重い荷物を積んで高速道路をひた走るためだけに造られた4トンから10トンもの車体の突貫には耐え切れない。陸の戦艦の特攻で、無残にも耳障りな悲鳴を張り上げて霧散し、跳ね飛ばされる傍から掻き消えていく。ただ広い草原に集合した魔物たちにとっては圧倒的に不利な状態だったが、それでも、減速した車体に本能で喰らい付こうとする個体はいた。そうはさせるまいと、前線のトラックが急遽左右にハンドルを切り始める。
『そないな手に引っかかるかい。天下無敵の武田の騎馬隊を破ったのは、三段構えの織田の鉄砲隊やがな。次!どえらい重たいのが行くで!』
まるで岩に当たった水流が割れるように、左右から後方に戻る輸送隊の次には、赤々とヘッドライトを点す工事用のダンプカーの群れが重戦車さながらにエンジンの唸りを上げて控えていた。そしてその次には、また無数の配送トラックが。
唖然と立ち尽くす四人の目の前で、日常生活の中ではごく当たり前だった光景が展開されている。ベテランの警備員達が赤い誘導灯と笛で車両を巧みに誘導し、作業員たちは協力して、車が通るのには邪魔な鉄の車止や柵をカッターの火花を散らしながら根元から切断していた。大型車両が踏み荒らした土は即座にロードローラー隊が左右から息を合わせて慣らし、そしてまた次の車両が魔物の群れを蹴散らし、太陽の塔を照らし出しては後退していく。遥か遠くに見えるのは、集まった人々の姿。誰しもがスマートフォンを握り締め、その画面の光が蛍火となって存在を知らしめていた。
張り巡らされた情報網によって繋がった、人の力。一つの目的に向かって団結した人間の力の塊。活力。輝き。それが今、確かにこの荒れ果ててしまった公園に集結し、一丸となって危機を乗り越えようとしているのだ。
『あーあー、警察です。こちら大阪府警。市民の安全を守る為に見張りに来てるだけや。もうじき投光車とかも来るけど、ワシら、見張っとるだけやさかい。柵だの花壇だのは全部化け物が壊した。ええか、そういうこっちゃ。』
『こちら消防です。間もなくこちらの陸上投光車も五台到着します。配置の為、道を開けてください。尚、少しでも怪我をされた方はただちに救急隊員へ。ドクターカーも到着しておりますが、見物人に民間の医療従事者の方がいらっしゃいましたら、ご協力願います。』
『陸上自衛隊八尾駐屯地より、間もなくヘリと警護車両到着します!一般の皆様は下がってください!』
「何と…信じられない…。」
「あぁ、俄かには信じ難い奇跡だ。…奇跡だ。だが、それだけ、皆が大阪というこの街の活気を手放し難く思っていた。…すなわち、この土地の想い、だったのだろう。」
今や満場のスタジアムのようになった公園の明かりを見渡して、戦いの中にあった誰もが感嘆を漏らさざるを得ない。そして今、四人の目には、車列を巧みに抜けて進む一群の姿が映っていた。複数の機動隊員の盾に守られながら少しずつ塔に向かう、幾人かの作業着の人間たちであるように見える。
「あれは…?」
『今からその塔、ちゃちゃっと直して光らせたるさかい。ワシャあ浪速で一番の大工やけど、今は陣頭指揮ですよって。せやから浪速で一番の電気工事士連中に代わり任せたんで、まあ大船に乗ったつもりで安心しとき。』
タイミングよく拡声器から響くのは、間違いなくあの時に助けたオッちゃんの声だった。
「あの人、いいところだけ持ってくのが上手いな…。」
「まあ、それも適材適所、個性ということなのだろう。これだけの人々を集めたきっかけは、彼が持つ人の好さ、それに助けられた。…そういうことだ、マスター、マシュ。彼らを安全に塔の中へ。そしてオレ達は、予定通り塔の上部に向かう。」
ポツリと零したアルジュナの呟きを拾い上げ、カルナが僅かに笑ったような気がした。この光景を見て勇気付けられない者はいないだろう。少なくとも、現地の民と力を合わせて幾度も難局を切り抜けてきた、このカルデアには。光が充分に満たされ、白い発光体となった宝具に割り込める魔性はもう存在しない。浪速で一番の電気工事士一団を誘導するため、走って遠ざかっていく元気のいい少年の了解を聞き遂げた後、カルナとアルジュナは顔を見合わせて地を蹴り、太陽の塔の大きく広げられた白い片腕の上へと同時に飛び上がった。
「凄いな…。これが人の力、本当の、願いで繋がれた人の力なのだな…。」
遠くまで連なる人工の灯りという灯り。投光車や車の後ろで揺らぐ蛍火は、きっと情報を元に駆け付けた市民が揺らす精一杯の灯りなのだ。そして、街のあちこちにも、ポツリ、ポツリと電気の明かりが灯り始めている。最初はたった数名から、瞬く間に縒り合わせられて強固になった情報を信じ、藁にも縋る思いで駆けつけた、この時代を確かに生きる人々。その中には、きっとこの一年の間に擦れ違った人も、言葉を交わした人もいるのだろう。眼を細めて、アルジュナは感慨の溜息を吐く。
「さて、これで条件は整った。間もなく、お前は開花を見るだろう。…その前に、ひとつだけ言っておきたいことがあってな。」
「何だ、藪から棒に。」
頬に付着した血糊の跡を拳で拭い去りつつ、アルジュナは訝しげにカルナを眺める。
「お前の手に残るその令呪の一画だ。それだけは、必ず持っていてくれ。いいか、オレの言葉を信じて、何があっても使用するな。たとえ…オレが死の危機に瀕していたとしても。」
「…貴様は、いつもそうだ。理由も言わずに唐突に、結論だけを告げる。あまりに言葉足らずだと、何度言わせれば解る…。」
「そうか、すまんな。」
事も無げに言うカルナが反省というものを一つもしていないことは火を見るより明らかだった。いらり、と片眉を上げた正にその時、遥か塔の上部で、眩いばかりの黄金の光が灯る。サーヴァントの目すら眩ませる程の、何より眩い閃光。
常闇の世に浮かび上がる太陽、黄金の顔は今、人々の願いを聞き遂げたかのようにその二つの目を煌々と光らせ、魔性の群れを、助け合い行く末を案じて集う人々を、そして聖杯の力に吸い寄せられて澱みに集い育とうとしている哀しき力の集合体を、対抗の力を以って焼き焦がさんばかりの眼差しでただ真っ直ぐに、凝と見詰めていた。
「やった!」
「やったぞ!」
「太陽の塔に明かりが戻った!」
口々に叫ぶ人々の歓声で、漸く塔に何が起きたのかを知る。命綱ひとつで黄金の顔によじ登り、作業を終えた熟練のエンジニア達が今、アルジュナとカルナの姿を認めて笑顔で手を振りながら安全ロープ伝いに塔内に退避しようとしていた。苦悶と共に攻撃行動を止めてその場で転げ回るだけとなった魔物を前に、今まで前線を守っていた重機や車両の軍団も、遠巻きに塔を照らし出せる程の距離まで撤退している。
「成し遂げられたぞ、カルナ。これで足りないとはまさか言わないだろう?」
「あぁ。…充分だ。充分過ぎる程だ。…だから、アルジュナ。これで終わらせる。オレから離れろ、早く。」
「何…、…ッ…ぅ、…カルナ…っ……!」
鋭い一声と共に、カルナの細腕が有りっ丈の力を込めてアルジュナの胸を大きく突き飛ばす。無防備な身体はサーヴァントの力を浴びて紙のように吹き飛び、塔の腕先から胴体に背を打ち付ける形で漸く体勢を立て直した。何をするつもりだ、と叫ぼうとした矢先、アルジュナの双眸はその異変をまじまじと捉えることになる。
「お前との旅、実に楽しかったぞ…。あぁ、楽しかったのだ。…ゥ、ぐ…あぁ……ッ……!」
燦、と音を立て、カルナの手にした黄金の錫杖の柄が足場をトンと軽く叩く。
途端、夜空に広がる塔の腕、その切っ先に佇んで微笑を浮かべるカルナの全身が、突如として紅い炎に包まれた。否、内部から爆発的に、己が身を燃やして耀く恒星の如く燃え上がっている、という表現が相応しい。血相を変えて駆け寄ろうとするアルジュナを、炎の中で消し炭になりつつある腕が伸びて制した。煉獄の炎の中で苦痛に呻き、身悶え、次第に黒化していくカルナの姿。どうすることも出来ずに見守るアルジュナの目の前で、力尽きたその躰が背中を丸めてゆっくりと前に傾ぎ始める。
と。
燃え殻が塔から転がり落ちようかという正にその瞬間、蹲ったまま炭になったカルナの背にピシリ、と白い亀裂が走る。ピシリ、ピシ、とそこから幾重にも広がる亀裂は光を放ち、燃滓となった闇黒を内側に取り込んで育つかの如く面積を広げていく。
自らの炎で焼け死んで蘇るという鳥。あるいは、漆黒の泥の中から生まれ出でて尚も穢れなき鮮やかな花。今、アルジュナの眼の前には、カルナであってカルナではない、神秘の存在が確かに顕現しようとしていた。
「マスター、そして、マシュなる娘よ。よく耐えてくれた。後はオレが引き受けよう。お前達が護った光、全て貰い受けた。」
『カルナさん…?』
『待って、一体何が起きているんだ?現地のカルナさんの霊基が…急に変わって…これは、神性…?いや、それとも違う…!』
通信機越しに戸惑うマスターの、そしてマシュの声も、ダ・ヴィンチの声も意には介さず、無表情な唇が動いて厳かに告げる。
「今こそ開華の時。刮目せよ!」
人々の作り出した光と活気、そして、煌々と輝く文明の象徴である太陽の塔の黄金の顔を全身に浴びて佇むカルナの纏う雰囲気は、今、長旅を共にしたカルナのものとは懸け離れた神気に満ち溢れていた。
白銀の髪をゆらりと舞い上げ、光に包まれた痩躯が、音もなく足場を蹴ってふっと中空に浮かび上がる。
神々しさすら宿した蒼穹の眸が、ついと細んで広場を埋める魔性の群れを捉えた。
「この身、蓮華の塔より豊穣の証もて済度をもたらさん。…哀れなる衆生、その忘れ去られた断片をどうして慈しまずにおれようか。人々を導くのは今を生きる者の役割なれば、オレは今より、魂なき怨念の全てを救済の技で導こう。…見よ、これが救済だ。」
左掌を顔前に掲げ、錫杖を翳して、カルナは瞑目して祈りを捧げる。その仕草に偽りはなく、雑念なき誠の慈愛だけが彼を形作っていた。
刹那。
その右腕の軽い一振りから疾風の如き業火の刃が放たれ、広場を満たしていた魔性の群れのみを瞬く間に灼き焦がして無へと返していった。人々の身はおろか、芝生の一本すら灼かず傷付けず、ただこの世にあってはならない怨念だけが温度のない炎に包まれ、消える。これが彼の言う救済の奇蹟というものなのだろう。離れた場所から事態を見守る大阪の街の人々から、驚異と畏怖交じりの歓声が上がる。
「ふむ…。予想以上に力を振るえるらしい。これも全て、カルデアと大阪の街の人々、そして、アルジュナ…我が仮初のマスター、お前のお陰だ。」
『こちらカルデア、宝具からの光が強くて何も見えない!…が、梅田羅生門から多数の飛翔体発射を確認!目標は…太陽の塔だ!』
ほんの一時の間に起きたあまりの様変わりと想像を絶する凄まじい力に、言葉もなくその姿を見詰めるだけのアルジュナ。不意に通信機が鳴らした警鐘を耳にするや否や、カルナの蒼い、曇りない空の色をした眸が眇み、口許がアルカイックな笑みを浮かべる。
「成る程、視認できた。それではこの街で蓄えた我が力、存分に返させて貰おう。今まで正しく導いてやれず、気の毒なことをした。だが、それも終わりだ。我が慈愛は憐憫のみに非ず、時に焦熱と化し、時に獅子と化しては威光を以て道を示す者なり…。」
凛、と黄金の錫杖が鳴り響き、辺りの空をビリビリと震わせる。今やアルジュナの眼にも、そして人々の目にも、梅田から猛スピードで向かってくるどす黒い物体のかたちが解るまでになっていた。
手だ。無数の、巨大な手。禍々しい光を放つ高層ビルの中程から伸びて、咲き誇る花を摘もうとする腕。それが、迷うことなく光り輝く太陽の塔をへし折らんばかりの勢いで接近してくる。
「カルナっ、助太刀を…!」
「案ずるな。之なるは只の哀れなる心の残滓、虚仮脅しに使われた意思なき存在に過ぎん。その証拠を今、見せてやろう。これぞ我が真なる救済…とくと味わえ!」
アルジュナの言葉を、されどカルナは涼しげに首を振って固辞した。不意に、虚空に浮かび上がった輝くカルナの身体に、燃え盛るばかりの光り輝く闘志が宿る。先程カルナ自身を焦がし尽くした焔とは全く別種の強大なエネルギーが光となり、神の血を引くアルジュナですら怯む程。
音速の波を飛ばし、カルナの姿は一条の光になる。ここに新たなる太陽が生じたとばかり安寧を齎す救済の光に、新たなる脅威を前に逃げ惑うばかりだった人々は、誰もが立ち尽くしたまま上を向いて見蕩れていた。
光り輝くカルナは、その手の中の黄金の錫杖を力一杯振るい抜く。忽ちそこからごう、と焔の柱が立ち上り、カルナに掴み掛ろうとしていた黒い腕を数本、束にして瞬時に焼き尽くしていった。その威力の凄まじさたるや、アルジュナが生前に目にしたどの戦場の勇士ですら並び立つ者は思い浮かばない。二度、三度、続け様に金の錫杖が振るい抜かれ、その度に手元から放たれる熱線が、幾つもの腕を包み込んでは束の間輝く火の玉に変え、闇黒に染まった大阪の夜空を灼熱の赤で彩る。
『カルナさん、どこにあんな力があったのでしょう…。敵性体が…まるで、花火のようです。…でも、これは…。』
通信機から聞こえてくるマシュの声は、何処となく歯切れの悪い戸惑いを孕んでいる。その理由は、虚空に幾つもの火柱を生じさせて飛翔するカルナの攻撃の威力を見れば共感できるものだった。
目許を細め、口角のみ持ち上げる柔らかな笑みとは対照的に、その腕から放たれる煉獄の炎は、一撃が対軍宝具級の威力となって、襲い来る魔性を断末魔を上げる暇すら与えずにひと輝きの火球に変えていく。その行いを魂なき怨念の救済だと彼は言った。しかし、おおよそ一切の慈悲や躊躇い、感情というものは見当たらない。戦意も、覇気も、歓びさえ窺わせることなく、ただ淡々と彫像を刻むように腕を振るい、目の前の敵を完膚なきまでに跡形もなく焼滅させている。煌々と輝く錫杖を片手に夜空で舞いながら歯向かう全てをあまねく非情に屠る、まるで、太陽神スーリヤの物言わぬ厳しさだけが顕現したかのような様相だ、と、アルジュナは朧に思った。畏怖すら覚える猛攻にも関わらず、表情一つ変えず疲弊を見せることもない、宿敵の姿をした男。もしかするとそこには、善悪や正義というものすら既に無いのかもしれない。彼という存在に初めて底知れぬ怖気を感じて、握り拳の中にじとりと汗を感じる。
と、音に近しい速さで飛翔するカルナの通信機から、風の雑音に紛れて確かに声が聞こえてくる。
確と耳を傾けて意識を集中してみれば、マントラめいた抑揚に乏しい声が、途切れることなく何かを紡ぎ続けている。それは、ともすると負から生まれ消えゆく命運の哀しき敵性体を憐れんだ、祈りの文言だろうか。全聴覚を集中させて、意味なす言葉を聴き取ってみた。
「…これは、あの時道頓堀で味わったお好み焼きの分。」
「…これは、ソースを二度付けしてはいけないと学んだ日の、あの串カツの分。」
「…これは、宿で夜食にした、お湯を注げば三分で完成するとても便利なカップ麵の分。」
「そしてこれは、豚まんや甘味…全ての間食の分だ…!」
「カルナ…貴様、貴様あぁぁぁぁぁぁぁッ!今までの空気を返せぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!」
「何、オレがただ無意味に爆食しているだけだとでも思っていたのか?蓄えた分は確り返させて貰う。それが道理というものだ…。」
膝から崩れそうな脱力感と共に、顔を引き攣らせて怒声を張り上げるアルジュナを顧みて、ニヤリ、と遠くで戦うカルナが不敵な笑みを浮かべた。
そして、最後の一撃が、向かい来る魔性の腕を一塊にして灼き、跳ね飛ばす。大方の暗雲を攻撃に使い果たした今、剥き出しになった梅田羅生門のおぞましい紅い眼が、高層ビルの中腹から憤怒の色も露わにこちらを見据えていた。
「さて、猛虎破竹の満塁ホームラン、といったところか。だが、このままではいずれまた魔性は現れる。人々の忘れ去られた想いが有り続ける限りは、永久にな…。楽しい遊びの時間は、やがて終わるものだ。…終わらせよう、英霊アルジュナ。それがお前の、我がマスターとしての最後の責務だ。」
満足げに、ゆったりと飛翔してアルジュナの許に戻ってくるカルナ。光り輝くその面輪には、先程まで見せていた鬼神の如き圧倒的な威圧感はなく、燃えるような銀色の髪を靡かせてアルジュナと相対し、ゆるりと手を差し伸べる。無言の侭、顎で指し示す方角を見て、アルジュナは黙ってその手を取った。こうして宿敵の顔をした存在と手を取り合ったのは初めてだったが、不思議と何の違和感も覚えない。そのまま静かに飛翔し、光り輝く黄金の顔の更に上方、蓮華座のかたちに広がる避雷針の上に二人で降り立っていた。
「大英雄アルジュナよ。我が力は、今この時の為に花開くものだ。一年もの間、泥の中でただひたすらに開花を待っていた力を昇華させるには、どうしてもお前の力が必要なのだ。…純白を示す名の許に、己の内なる闇黒と向き合い、受け容れた真の英雄。どうか、その手に残る令呪一画をこの身に注いで欲しい。以って、この世界の大願は成就するだろう。」
凛と響く声に、黄金の錫杖が奏でる清かな音が重なる。静かに動く唇から流れる言葉は、神々しい託宣を思わせる響きを帯びていた。姿かたちのみならず、纏う雰囲気までが一年を共にした男のそれとはまるで異なる。大きく見開いた目に映る、淡い笑顔を浮かべるカルナの醸す謹厳に打たれては、さしものアルジュナも困惑を覚えざるを得なかった。
「何を他人行儀な…。お前は、いや…貴方は、一体、何者なのですか…。」
その時、梅田の高層ビルに生じた真っ赤な目玉が、一際大きな咆哮を上げた。怒り、恨みつらみ、悲しみ、苦しみ、それら全てを混ぜ合わせた雄叫びと共に、再び周囲に、同じ負の気に惹かれた魔性を呼び寄せようとしている。
「最早時間がない。さあ、早く行使するがいい。我が主として、最後に残された力を。…嘗てお前が生き、そしてこれからも守護者として生き続ける、人理の為に。」
「何から何まで、全く言葉が足りない。…矢張り、お前は、カルナだ。」
溜息交じりに呟いて、アルジュナは右の拳を翳した。本来であれば人間のマスターの手に宿る不思議な文様は、残り一画のみ。今や最後の切り札となった術式を、理由も聞かずに駆使することに躊躇いはなかった。何故ならば、目の前の男が確かにカルナであるから。最大にして最強の宿敵である男がこれを手段として選んだのであれば、ただそれだけで信じるに値する。それ以外の理由はない。深々と息を吸い込み、向かい合うカルナの蒼穹の眸を見据えて、最後の術式を起動させる言葉を唱える。
「最後の令呪を以って命ずる。…人理に仇為す魔を穿つ者よ、…時は来たれり、開華せよ!」
声に呼応して右手の甲から文様が滲み消え果るのと、瞬時にして霊衣に戻ったアルジュナの手元に使い慣れたガーンディーヴァが戻るのとはほぼ同時。そして、炎神に賜った何より心強い武器を確りと握り締めた刹那、それは起こった。
「何…?」
カルデアからの映像を遮断し、完全なるサーヴァントとなったアルジュナの目さえ眩ませる照度となったエネルギーが、凄まじい速度で逆流する光の滝となり、瞬く間に太陽の塔の上方に向けて吸い上げられていく。大阪の空、アルジュナとカルナの頭上まで遥か高く打ち上げられた光は、やがて緩やかな弧を描きながら、二人が佇む避雷針の中央に向けて数百の雷霆を従えた流星の如く吸い込まれていく。雷光なぞ見慣れた筈の神の子の目を以ってしても耐え難い程の光が炸裂した。傍らで炸裂するのは恐れさえ覚える程の高位かつ甚大な魔力エネルギーであるというのに、爆発どころか地鳴りひとつ、轟音のひとつも響かせずに太陽の塔の最も高くに位置する鋼の花弁の中へと集約されていくのだ。
咄嗟に腕で眼を庇ったアルジュナの細めた視野の中で、「それ」はゆっくりと正しき形を結び始める。淡く白い光を纏った太陽の塔から、三つの光が同時に飛び出して、避雷針の上で切っ先を下にして浮かぶカルナの黄金の錫杖に絡み付き始めた。
ひとつめ、黒い太陽の顔、それは過去を表す。ふたつめ、白い太陽の顔、それは現在を。みっつめの黄金の顔は光り輝く未来を意味し、そして、かつて確かにそこにあったというよっつめの迷子の顔を呼び寄せるかのように高く、澄んだ音色を発し始めた。
漸くまともに見詰められるようになった「それ」は、三本の茎が絡んだ蓮華の矢羽を持つ、黄金の輝きを燦燦と発する巨大な一本の矢であった。
戦火に焼かれ荒れ果てた街を、瞬く間に蘇らせた逞しい人々の活力、希望。その象徴。嘗てこの地を埋め尽くした栄光にも等しき概念がいま再びこの太陽の塔の上で光り輝き、二つの黄金の眼差しと共に梅田羅生門に巣食う魔性と対峙していた。
「さあ、人理に名高き弓の使い手よ。オレに出来るのはここまでだ。オレ自身にはこの矢を引くことは出来ん。アルジュナ、お前のアグニ・ガーンディーヴァにこれを番えて、お前自身の手で引け。これは、今の人理を確かに生きるお前にしか出来ないことだ。」
今や、その力の大半をこの巨大な矢の為に変化させ、割いているのであろうカルナは、一年を共にしたあのカルナと同じ穏やかな空気を纏い、しかし、慈愛と毅然に満ちた眼差しでアルジュナの瞳を見詰めている。左手に、いつも身に付けていたあの首飾を巻き付けて携え、右手の指は顔の少し下で不思議な印を結んでいた。
「カルデアと共に数々の人理を修復し、そして、不要だと切り捨てようとした自分の中の「黒」を認めたお前。そして、一年もの時を共にした人々の助力を得た今ならば、必ずや叶う。…あぁ、『今の』お前にならば、必ずできるとも。」
「えぇい…言葉が足りない癖に、次から次へと注文ばかり多い男だ!いいか、貴様の我儘に付き合うのもこれっきりだぞ!」
「すまんな。」
微塵も悪いとは思っていないのだろう形ばかりの涼しげなその言葉、この一年で何度耳にしたことだろう。眉根を寄せて唇を捻じ曲げ、アルジュナはある種の決意と共に矢尻を下向けて空中に浮かぶ矢に手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、ピリ、と空気が震え、喪われた顔を呼び求めていた音が消える。手中に収まった黄金の矢、それそのものが燃え盛る太陽と活気の概念である蓮華の矢が、今しも成すべきことを成し遂げるべく飛翔したがっていることは、神弓使いであるアルジュナには息をするように自然と理解できることだった。
「神性領域拡大…神罰執行期限設定…全承認。これより放つ一矢は、人々の命の灯、繁栄への希望を繋ぐ矢であると心得よ…!」
すぅ、と息を一つ吸い込み、ゆらりと黒髪を揺らして足場を蹴り、ゆっくりと身体を宙に浮き上がらせる。手にした黄金の矢、そこに重ねて込めるは、サーヴァント・アルジュナが行使し得る全ての魔力。使い慣れた神弓に黄金の矢を番え、眸は真っ直ぐに、ただ真っ直ぐに、樹上の鳥の目のみを見据えるが如く、梅田羅生門の中心に息衝く邪悪な紅い光だけを見据えていた。そこに至るまでの軌跡は、太陽の塔の両眼から真っ直ぐに放たれる光が示してくれている。さすればアルジュナに為せることは、太陽の化身である塔の導きの通りに終焉の矢を放つことだけである。
『我が慈愛は憐憫のみに非ず、時に焦熱と化し、時に獅子と化しては威光を以て道を示す者なり…。』
何処からか、幾重にも反響するカルナの声だけが耳に飛び込んでくる。それを合図に、狙いを定めてギリ、と限界まで弦を引き絞った蓮華の矢羽から、風切る音と共に指を離した。
「魔を穿ち抜け、永劫紡ぎし慈愛の蓮矢…!」
張り詰めた弦が勢いよく弾ける音と共に、黄金の矢は赤と青のふたつの魔力の残像を靡かせながら、巨大な発光体へと変幻して真っ直ぐに標的を目掛けて飛翔した。
『な…何が起きているんだ?これ…最新鋭の音速戦闘機クラス、いや、それより遥かにデカい魔力の塊が、梅田羅生門に向かって…!』
『カルナさん!…カルナさんなの…?』
混乱の最中にいるカルデアと、そして、地上にいるマスターの声が通信機越しに響いた。
弓使いの眼は鷹のように鋭く、今や空中で流星と化した巨大なエネルギー体の軌跡を凝視している。それが間違いなく獲物を射抜くまで、確かに見届ける。そこまでが己の役割なのだと、誰に教えられるでもなくそう認識していた。
人々の頭上を、灯りが戻り始めた街の上を、闇を切り裂いて黄金の矢は飛び続ける。全ての人の営みをなぞりながら、ひたすらに射抜くべき物のみを射抜かんとする意志の籠もる矢の切っ先は、程なく、高層ビルの中程で禍々しく光り続ける紅い目玉の中心に寸分の狂いもなく正確に突き刺さる。魔性の根源たる目玉を射抜いた矢は、そのまま激しい閃光を炸裂させながら衝撃のない爆発を起こして、三次元の物質には傷ひとつ付けることなく、悪性だけを断末魔ごと消し飛ばしていた。
赤、青、紫、そして黄金色が入り混じり、色とりどりの光の欠片が、長き夜空の支配からの終焉を告げるかのように梅田の高層ビルから街全体に降り注ぎ、封じられていた陽光の分だけ音もなく零れ落ちる光は、何処か切なくも物悲しげな尾を引きながら街のそこかしこにふわりと還っていく。散華の時。誰もが魅了される地上の流星群に照らされ、何処かで、かくれんぼで最後まで隠れ切った子供の、無邪気に笑う幼い声が聞こえたような気がした。
「やった…ッ…!」
アルジュナが短く叫ぶのと、全てを見守る人々から大きな歓声が上がるのと、通信機から『敵性体完全消滅』を示す無機的な音声が流れるのとは、ほぼ同時だった。
時を同じくして、アルジュナの身体を柔らかで高貴な光が包み込む。それは、サーヴァントが特異点を退去する時に目にする輝きとは質の違う光だった。太陽の塔の上部を中心にして領域ごと包み込む光には、厳かな神聖すら覚える程。あぁ、とアルジュナは溜息を吐く。
「これで、終わった…のだな…。」
「そうだ、全てが終わった。我が主だった者よ。よくぞ長きに亘り力を貸してくれた。礼を言おう。」
何処までも続く澄み渡った風景の中、静かな声だけが周囲に反響する。いつの間にか、アルジュナはカルナと共に、あの太陽の塔の上にある蓮華台に似た避雷針の上に立っていた。手を伸ばせば届く程の距離で、二つの蒼い瞳が実に穏やかな微笑を浮かべている。一切の雑音も、人の声も、通信機からの音声すら今は聞こえない。ここだけ次元が元の軸から切り取られた、いわば固有結界のように働いているのだろうか。世界は、アルジュナとカルナのみを太陽の塔の最上部に残して、綺麗に閉ざされていた。
ああ、とアルジュナは二度目の嘆息を零す。宿敵の姿をした男の身には、先程まで振るっていた鬼神さながらの魔力は最早欠片も感じられない。ただ形のみとなって尚、ひとひらの後悔すら匂わせず、唇に柔らかな笑みを刷いて、その存在は凛と佇んでいた。
「…カルナ。お前は、こうなることが全て解っていて。」
「もう、お前とこの大阪の街を味わい尽くしながら巡ることは出来ないな。それだけが聊か…残念でもあるが。」
アルジュナの問いをはぐらかし、カルナは眉尻を下げて肩を竦める。その右耳に一連残った耳飾が、淡い煌めきと共に消えるのが見えた。
「そう残念そうな顔をするな。元々、オレとこの土地…お前達が特異点と呼ぶ事象とは、そのような契約であったのだ。聖杯の欠片という異物の介入があったとはいえ、人の想いが引き起こしたことは同じ人の手でしか解決できん。オレはその条件には適合しなかった、だが、不条理で重すぎる試練に苦しみ喘ぐ衆生を見捨ててはおれない。故に、この地で忘れ去られようとしているモノ達と相対する概念と手を組むことにした。何れ、機会は訪れる。唯一、人の世と繋がりがあり、この土地で起きた事象の全てを理解し得る英雄が現れるだろう。…そうさな、オレという存在は、契約者の性質と、この土地が求める力が、お前の意識の中に存在した連想…固有の概念と交じり合った結果、一時的に形作られた紛い物の存在だ。無き糸から錦は織れん、つまり、オレの形や性質をこのように定義して織り成したのはお前自身だということになるのだよ、アルジュナ。」
「……待て。ひとつも解らん。さっぱり解らん。説明したら説明したで、矢張り言葉が足りな過ぎるのだ、この期に及んで…。」
「故に、人理の外なるオレが顕現させた矢は、人理に連なる者の手でしか引くことはできなかった。それを見事に成し遂げて見せた大英雄よ。見事だ。…実に、見事だ。」
狭めた眉間を指先で押さえながら、アルジュナは渋面で首を振る。そんな様子を見遣っていつものように涼しげな笑みを浮かべるカルナは、矢張りどう見ても己の知るカルナでしかなかった。しかしその事の葉だけは、たとえ意味は解らずとも淵からこんこんと湧き出る水の如くアルジュナの心に沁み込んでいく。カルナであり、しかし確実にカルナではない存在を前にして、如何なる結論を導いたものだろう。三度目の溜息と共に睫毛を伏せ、アルジュナは静かに口を開いた。
「…矢張り、どうあっても貴方はカルナだ。私には、そうとしか見えない。」
「そうか。…そう、か。」
完膚なき否定の筈であるのに、何故か、宿敵の姿をした存在は少しだけ嬉しげに頷いた。そして、ふと気が付いたかのように遥か遠くを眺め、顎で指し示す。
「見ろ、アルジュナ。…朝日だ。長い、とても長い夜だったな…。」
広々とした公園の木々を抜け、そして、怪異などはじめから無かったかのように静かに聳え立つ梅田の高層ビルのガラス面に反射し、誰もが待ち望んでいた威光が東雲を橙色に燃やしてゆっくりと昇ってくる。全てを等しく包み込む、謹厳なる慈愛に満ち溢れた天体。澄み渡る空気の中、日天スーリヤの威光が一年もの闇を切り裂いて全ての終焉と、そして始まりとを同時に告げていた。
静かに眼を細め、懐かしくも感じる朝日を見詰めるアルジュナの傍らで、カルナが大きく深呼吸をする。
「あぁ、感じる。聞こえる。…これが正しくあるべき人の営みの姿。排気ガスの匂いがする。飛行機が飛び立つ音が聞こえる。太古の昔に比べればずっと澱んでしまった空だが、それをもやがて人は乗り越えるのだろう。連綿と未来へ続く営み…故にこの今が、堪らなく愛おしい。」
全き無音であると思っていた固有結界の中に、朝の澄んだ空気が忍び込んできていた。耳をすませば、遠く走るトラックの音が聞こえる。鳥の歌声が聞こえる。威勢のいい市場の競りの声も、何処かでほんの小さな言い争いが起きる声すらも、全てが長い夢から目覚めたかのように緩々と動き出し、昼間という名の活気を少しずつ取り戻そうとしていた。
「なんと眩く、かくも温かく、そして時には苛烈にして峻厳なものにも変貌しうる強さを持つ…。これを値千金と、人間はよくぞ比喩したものだな。」
白銀色の髪を透かし、淡い金色の光が射し込んでいる。全身を研ぎ澄ませて僅かな風の流れをも味わいつつ、目映い朝日だけを見つめ続ける蒼穹の双眸持つ男は、何処か懐かしげに、感慨深げに柔らかな息を零した。
「確かに一年ぶりの日照ではあるが…何がお前をそうも惹き付ける?」
「惹き付けられている…そうか、お前からはそう見えたか。…何。オレがこちら側に立ってあれな恒星を眺める機会はそうそうない。お前が、お前自身の概念や在り方を、第三者の目を通じて見ることができないようにな。」
「矢張り、お前の言葉はどこまで行っても解りづらいな…カルナ。いや、だからこそ…。」
お前はカルナとして当たり前のように振る舞い、並び立っているのだろう、と口に出そうとした言葉は、敢えて中途半端なまま切った。代わりに、その横顔をじ、と見やって唇を開く。
「サーヴァントとして現界し、マスターとも縁は結ばれた筈だ。…来ないのか、カルデアに。人理修復の長い旅路へ。」
陽光だけを見詰め続けていた彼の表情に乏しい双眸が、少しだけ見開かれてアルジュナを向いた。暫し沈黙を挟んだ後、ゆるりと首が横に揺れ、固辞の意を伝えてくる。
「いや…。人理救済の途方もない旅路を見てみたいという想いは、正直なところなくはない。然しながら、オレはお前のように過去を生き、そして今なお人理に息づいて確かに生きている存在とは全く質の異なるものだ。確かに人の世を歩みながらも、召喚・契約そのものの理論から外れたところに存在している、とでも言うべきか。」
相変わらず、カルナが述べることの本質は解らない。だが、答えは半ば予想はしていたことだった。彼が本質ではなくカルナという概念を纏って目に前に現われた、つまるところそれが理由なのだろう。そうか、と短く呟いて頷き、それ以上を追求しないアルジュナに向けて、カルナは淡い笑みを浮かべて見せた。
「オレは、本来であれば未だ現界すら許されない、いわば未熟な胎児のようなものだ。此度、このような形で姿を現したのは、何れ生まれ落ちるであろう地が願い、そこに幾つもの偶然が重なった結果、那由他の確率にも等しい奇跡の産物だった、と思って貰えればいい。…いつの日にか、王でもなく、神でもなく、魔でもなく、霊でもない、ようやくただ一人の『人』として…ただ一人の『人』として再びこの地を踏むだろう。その日のためだけに修行を続ける身にとって、この一年はほんの光の瞬くが如き刹那の時。だが、決して忘れ得ぬ光煌の記憶。その中で共に肩を並べて戦えたことが、何よりも嬉しいよ。アルジュナ。」
「…カルナ。…今となっては貴方という存在を、どう捉えていいのかも解らない。だが、私は間違いなく、カルナと呼ぶに相応しい男と、活気に満ち溢れた街を取り戻す長い旅をした。無論、楽しいばかりの旅路ではなかったが…特異点が修復され、座に還ったとしても、この記憶が霊基の隅にほんの僅かな針先の傷として残っていればいいと、そう願わずにはいられない。」
「やれやれ、最後の時まで真面目腐った奴だな、お前は。」
と、カルナが肩を竦めておどけた仕草を見せる。
「こんな不定形要素の多いオレだからこそ、残る記憶や記録は曖昧なものになり得るだろう。だが、な。お前はこんなオレを、最後まで『カルナ』と呼んでくれた。そういう名前で呼ばれるかたちをくれた。…ありがとう。感謝する。」
今までに見せたことのない、儚げな笑みと共に、朝の風に流れる白金の髪先が陽光とは異なる光を帯び始める。止める術も、阻む理由もアルジュナにはなかった。ただ黙って拳を握り締め、強く頷く。
「あぁ、それと、折角人の活力に満ちた地を訪れたのだから、元の世界に戻るにあたり、同胞たちの知見を深めるための土産は必要かと考えた。これは別途、カルデアの面々にも礼を言っておかねばならないな。」
言うや否や、透けつつあるカルナの背後に見えたのは、そこかしこで買い込んだ大阪土産のパッケージが積み重なって出来たあまりにも巨大な、山と呼んだ方がいいような幻影だった。噂に聞く、古代王ギルガメッシュの宝物庫とは中を覗けばこういった具合なのだろうか。そういえばやけに買い食いをしているかと思えば、気付かぬところで途方もないことをしでかしていたこの男の思惑を今になって知り、脱力感と、恐らくサーヴァントとしての知識付与がないこの男は知り得ないのであろうカードという名のQPツケ払いシステムの脅威との板挟みになって震えながらヒクヒクと顔を引き攣らせる。
「…貴様!最後の最後までカルナだな!ああ、カルナと呼んでやる!そのキレッキレの土産の量…多すぎて固定資産税が掛かりそうだな!そんなもの、特異点の解消と聖杯回収とでチャラになるかどうかではないか!」
そんな負債を押し付けたまま、記憶ごと消えられては堪ったものではない。声を荒げるアルジュナの前で素知らぬ顔をして土産の山の幻影を消し、カルナは、思い出したように左手に下げていた首飾の紐を手繰り寄せる。
「特異点の解消と共に、人々の記憶は少しずつ修正される。それは世の常であるし、況してオレという存在の記憶がどこまで不確定なものになるのかは解らん。…が、これくらいは構わないだろう。水瓶から落とす三つの種…これだけはこの地に残していこう。」
黄金の飾りが施された首飾の先端から、カルナの右掌にぽた、ぽたり、と三滴の雫が落ちる。雫は見る間に種子となり、その茎を長く伸ばして、やがて軽やかに弾ける音と共に咲き誇る三輪の蓮の花へと姿を変えた。薄れつつあるカルナの腕の中で、確かに実体を持った瑞々しい蓮華を慈しむように眺めた後、彼はそれを朝日差す虚空にゆっくりと浮き上がらせた。
「この公園には、蓮華が咲く池があるという。まあ、このような異常事態の後だ。狂い咲きする蓮の三輪ばかりあっても不思議ではないな。…願わくば、オレが再び『人』としてこの大地を踏む、その資格を得る日まで連綿と生の営みを続けるがいいさ。幾度道を誤っても、泥の中から力強く咲け。それが…人という生き物の力ではないかな。なあ、アルジュナ。」
三輪の蓮華が池の方角に向かってゆっくりと飛翔するのを見送って、カルナの姿をした男は、アルジュナの前で実に柔らかに眼を細める。右手の指先でアルジュナに、そしてカルデアの面々に、この地を生きる人々の全てに安寧の祈りを捧げながら、何時しかその姿は昇りきった朝日に溶け、光の砂塵と化して跡形もなく消え失せていた。
塔の頂上には、アルジュナだけがただ残されていた。所在なく男の消えた場所を見れば、足元で何かがキラリと光るのが見える。どうした経緯でここに引っ掛かったのだろう、それは、長年の風雨に曝されてあちこち塗装の剥げた、『太陽の塔』を象った金属製のキーホルダーなのである。恐らくは、汎人類史の一九七〇年に土産物として売り出され、持ち主の手を離れてからずっとここにこうして一人でいたのだろう。沈む夕日や昇る朝日を見ながら、その朽ちかけた小さな太陽の塔は延々とこの日が来るのを待っていた。
腰を屈めて拾い上げ、手のひらに収まる太陽の塔をそっと握り締める。一年の記憶が胸に去来し、物寂しくも懐かしい。それに、忘れ去られていた「もの」の存在に気付いたならば、気付いた誰かが拾い上げてやらなくてはならないのだ、と思った。
丁度その時、通信機が小さなノイズと共に元気のいい少女の声を届けてくれた。
『こちら、カルデアのダ・ヴィンチちゃん。マスター、マシュー、アルジュナ、聞こえる?梅田羅生門と…そして、味方してくれた誰かの存在の消滅を確認したよ。この特異点も、ゆっくり元に戻るだろうけど…その前に、聖杯の回収、忘れないでよね?』
相手には見えないだろう笑顔を浮かべ、キーホルダーを握り締めたままアルジュナは力強く頷いた。
「はい。今となっては、聖杯の場所も解る…解ります。そちらで落ち合いましょう、街中に出るので、霊衣を変えておくのを忘れないように、ですね。」
■□■
【ending】
斯くして、特異点OSAKAは消滅した。
未だ動き出したばかりの街には人影も疎らで、人の気配のない道頓堀川の橋の上はかえって好都合である。照り付ける朝日を反射してキラキラと光る川辺からは、一年前の同じ場所で感じた淀みは感じられない。そして、今は浄化も進んで魚の姿さえ戻るまでになったのだという川の真ん中が微かに光っているのが見える。
「アルジュナ、気を付けてね…。」
「えぇ、心得ました。今はもう…大丈夫でしょう。戻るべき概念が戻るべき鞘に収まったのなら、後はこれを回収してマシュの盾に格納すれば…。」
心配そうな少年に一笑を返すと、慎重に淀んだ水の中に足を踏み入れ、光る場所にゆっくりと近付く。川は、思ったよりも浅かった。ざぶざぶと水を分けながら強い魔力を発するものに向かって手を伸ばす。確かに捕まえたそれを、ゆっくりと引き上げて高らかに、誇らしげに掲げ見せた。これが苦労の果てに得た聖杯の欠片、世界を狂わせるが、またとないリソースでもある願望器の断片…
「「「「『『『え。』』』」」」」
その形状に、誰しもが絶句した。というより、他に妥当なリアクションがなかった。
とりあえず手土産に買ってきたはいいものの、誰も手を付けようとしないフライドチキンやビスケットをただ一人貪り食うカルナの姿がカルデアの管制室にある。その横で、ダ・ヴィンチ、ホームズといった顧問陣、マスターとマシュにアルジュナ、そして蘆屋道満や紫式部がひとつの『怪現象』を取り囲み、頭を抱えて分析を試みていた。
「…で、無事に帰還して、無事にゲットしたこの?聖杯?なんだけど?…何これ。」
「おじさん、でしょうか…。見たことのない形状をしていますね…。」
懊悩するダ・ヴィンチとマシュを余所に、フライドチキンとビスケットをリスのようにもぐもぐと頬張るカルナを横目で見遣る。たとえ目にしたところで己には解を導けないと知れば、興味は有り難くもマスター一行が買って来てくれた手土産に移り、まるで場の空気を読もうとしない。リスのように頬を膨らませて鶏肉に齧り付くカルナの姿は、何処ぞやで見た姿と大いに被る。一人、解析に悩む皆とは違う理由で眉間に皺を寄せながら、聖杯の欠片の仮の姿…ジットリした暗い表情を浮かべる髭とメガネの中年男性像に視線を落としていた。
道満が、少し唸った後に顎を撫でながら目を眇める。
「ンンン…拙僧、少々データベースなるものを調べたのですが、これはもしや…汎人類史の一九八五年十月十六日、勝利の生贄として道頓堀川に捧げられたというンンネル・ンンダースなどという依代人形にこびりついた怨念…。その凄まじさたるや、何十年もの間一度たりとも虎に勝利を呼び寄せなかったという、ノリで棄てられ忘れ去られた怨恨の塊がそのまま川の淀みに取り残され、聖杯の欠片と一体化したものでございましょうかなぁ…?」
管制室で一番巨大なモニターに、当時の資料画像が大写しになった。そして熱気と共に胴上げされ、そのまま川に突き落とされたという人形の図も。
よもや、まさか、この特異点を造り出したのは。
ただ一人、フライドチキンを頬張るカルナ(※本人)を除いて、全員が膝を崩して倒れながら同じタイミングでこう叫ばずにはいられなかった。
「お前だったんかーーーーーい!!!」
「チャン↓チャン↑、というところだ。」
脱力するアルジュナの耳だけに、聞き慣れた抑揚のない幻聴が聞こえた、気がした。
■□■
【epilogue】
一人身を休めていたカルデアの自室に、湯気が立ち上る皿を手にしたカルナがやってきた。
なんでも、大阪特異点修復をねぎらって、彼の地で愛されている名店の豚まんを厨房のエミヤが張り切って再現した、というものらしい。
大皿に幾つか盛られた蒸したての肉まんは、柔らかで、一口齧れば野菜のうまみをたっぷり含んだ肉汁が溢れ出してくる。
それを両手で持ってガツガツと一心不乱に齧り付くカルナを見詰めながら、あぁ、この男の食への執着に似たものを何処かで見たことがある気がするな…とぼんやり思った。
そしてそれは、黒鉛で綴られた記録のそこかしこに消しゴムを掛けたように、記憶の断片から無くなってしまった空白の中に納まるもののひとつであるのかもしれない。
カルデアのデータベースの中にも、同じ消しゴムの如き異変が起こっているようだ。あるべきものが消えている。いや、故意に消されている、という方が正しいのかもしれない。
不意と、カルナが呟く。
「此度は、オレを差し置いてお前が特異点で一人活躍したと聞いた。」
「それがどうかしたか?」
頬袋を膨らませたリスのように肉まんを頬張る、いささか行儀の悪い男を、今日は不思議と咎める気にはなれなかった。
眼の前の皿に、ひとつだけ残った肉まんをカルナの方に押し遣って、言外に「食え」と促す。
「少しばかり断片的なデータを見聞きしたのだが、お前と共にあったという者は、それほどまでに強かったのか?」
「あぁ、あれは…。私の記憶の中のあれは、全き善とも言い難く、全き悪とも言い難い。そのような立ち位置でこそ力を行使できる…そんな存在であるように見えた。」
「ふむ?」
「実行しようとしたことは、間違いなく人理にとっての善であろう。が、それ故に、もし彼の存在に抗う必要が生じたら…私は全ての力を擲ってでも相対せねばならない。」
「ふん…。そのような強者に、お前だけが相まみえたというのが聊か癪に障るな。」
「何だ、貴様。…もしや、妬いているのか?」
「妬く…?…妬くとは、嫉妬するという意味、か。」
最後の肉まんに遠慮もなくかぶりつきながら、カルナは虚空を見据えてしばらく考えていた。
あるいは、咀嚼しながら同時に彼自身の思考回路の中で縺れた糸を解す、そんな作業をしているようにも見える。
「妬いている…妬く、という意味の本質を、正直なところオレは知らん。だが、お前がオレならぬものにオレ以上の執着を向けたとしたら、オレは間違いなく怒りという感情を覚えるだろうな。」
「結局、どういう関係であろうとも、お互い同じ蓮の上、一蓮托生という奴か…。」
ベッドサイドに飾った、古い金属製の色あせたキーホルダー。何故ここにあるのかは解らないが、手元に置くに相応しいと思ったそれを微笑しながら眺め、アルジュナは小さく肩を竦める。
眉間を寄せるカルナは、珍しく不機嫌という感情を露わにしている様子だった。
「ならば、それを飲み込んだらシミュレーターに行くぞ、我が最大にして最強の宿敵。お前に向ける私の刃が嘘偽りではないことを、身を以ってとくと知らしめてやる。」
「望むところだ。」
指を舐めながら勢いよく立ち上がるカルナ。こうして並び立つ宿敵として語り継がれるからこそ、互いの存在が人理に残されているのだ。
カルナあってのアルジュナ、そしてその逆も然り。皮肉なようにも思えるが、それが正常な在り方というものだ。
しかしそれを、何故肉まんを頬張るカルナの姿から連想したのかは、相変わらず空白のままだった。そして、心には少年の様に心躍る冒険を終えた後に似た懐かしさだけがある。何とも奇妙な感覚だ。
「先程から、何を一人で笑っている。」
「いや、何でもない。今日は心ゆくまで対戦に付き合ってやろう。精々息切れするなよ。」
「言ったな。お前こそ、特異点修復の疲れを言い訳には使わせんぞ。」
二輪の華は、今日も互いに競って咲く。たとえその地がどこであろうとも。
ー FIN ー
■□■
【あとがき】
ゲスト依頼があり、作成に取り掛かったのが2021年の6月末のこと。
元々のネタが、概念礼装に描かれた大阪の二人(通天閣のアルジュナとカルナですね)で、そこからご依頼に合わせて話を膨らませ、大阪といえば太陽の塔で岡本太郎の概念が、とあれこれいろいろ盛り込んでいるうちに、気付けば5万字オーバーのストーリーが出来上がっておりました。
これだけ注力して書き上げたストーリーを本来あるべき手段で世の中に出せなかったのはとても残念ですが、もはやイベントシナリオかな???という物量になったFGO世界のアルジュナとカルナの大冒険を少しでも楽しんでいただける方がいらっしゃいますと幸いです。
当時はコロナ禍の真っただ中で、「希望」「消えない光」「鬱屈した怨念や怨嗟」「納得できない格差」というものを目の当たりにしながら、それも踏まえ(でもあんまりドストレートに出さないように…という要望を踏まえながら)五十六億と七千万年の時の途中で衆生救済の為に弥勒来たれり、というシナリオを作成しました。
『梅田羅生門』、我ながらいいネーミングだと思います(笑)
街の人々が協力して化け物を斃すシーンは、自分自身が実際に大災害(東日本大震災と水海道豪雨)を経験したことから生まれました。そういえば、天変地異の真っ只中では、みんな誰もが協力して自分のできることをやって、みんなで助かろうという発想だったことをよく覚えています。
人間、とにかく必死で命を燃やしてできることをするものだという体験がなければ、このシーンは書けなかったかなと思います。なのでここは本当に自信のあるシーンです。
シリアスなシーンの中、そこここに散らかした笑いのパートも、書いていてとても楽しかったです。
あと、蘆屋が出てるのは完璧に私の趣味で(笑)
そして2年が経って気づけば、人類はまだ未曽有の大災害の中にいるというのが感慨深いですね…。
当時は、世界がこんなことになっているとは想像もせずに明るいハッピーエンドを書きましたが、本当に先の読めない世の中になったものです。なので、私の方では、人々が望みを叶えるという意味で「理想郷」というタイトルをつけました。
世界が平和であることを願ってやみません。
ミナモト エディ