「対バンは必ず見なさい。あんたらみたいなペーペーは何見ても吸い込めるスポンジみたいなもんやから。もしも「見たけど何も得るものなかったです」なんてほざけばあんたらスポンジとしてもう終わってるからな、ええスポンジになりなさい」というのは高校生の時分にライブハウスのブッキングマネージャーの御人から教わったもので、あれから10年超の時が流れてもかの御方の指導のお陰で僕はライブハウスでその日共演するバンドは少なくとも必ず一曲は通して見るようにしてます。正直に申し上げますと一曲聴いたら(なんか足とか腰とかしんどいからもうええか)と思ってフロアーを離れることもありますがそのような慣習については『法事の時にご焼香を顔の前にもってきてなんかよくわからんけど神妙な面持ちで拝む』と同じような感覚で当たり前に行っております。なので此度の(対バン見ろ論)について様々な論調が(大体は肯定的意見ですが)交差弾幕の如く飛び交うのを『ほえー』と浴びながら私が思うのは、そのような礼儀があるのは素晴らしいことではあるけれどそれがライブハウスの外側から来る圧力になってしまうことに対する危惧です。エンターテイメントの本質としては皆様お金なり時間なり少なくとも何かしらの対価を支払ってそこにいるのだから味わいたいものだけ味わうのは何も間違っていません。対バン見るとかめんどくせーと言うくっそ生意気なバンドマンがいても目当てのバンドの最前押さえる為に1番前でずっと携帯いじってるやべー客がいても、謂わば自由主義としてのライブハウスの在り方としては間違ってないと思うのです。そう、今回僕が1番言いたいのはライブハウスの在り方の部分です。本来、ライブハウスと云う場所はルールでは無くモラルとマナーのみで成り立っていてほしい場所だと僕は願っています。あなたにとっても恐らくそうではないでしょうか。だって僕達は自分と自由と開放を求めてあの場に集まるのだから。ルールがないからこそモラルやマナーを重んじなくてはならない、そんな文化がこの時代にまだ存在していることがある種の奇跡みたいなものです。
ならば『対バン見ろ論』について、現在蔓延している世論と何も違えることはないのではないか?と思われるかもしれませんが僕が言いたいのは、今しがた述べた「モラルやマナー」と云うものは、決して明文化されるものではなく、そのハコで、そのイベントで、もしかしたらその日にしか存在しない空気のようなものだということです。それは言い換えるならば同調圧力というものになるかもしれません。ただ、たとえそれが同調圧力というつまらないものだったしても、それがライブハウス以外の場所で、例えば今回のようにインターネッツでキッパリと言葉にされてしまうことに至極嫌悪します。言葉になれば形を持ちます。形を持てば必ず多数派と少数派が生まれます。そうなると民主主義的解決という一見平和な、その実とても残酷で恐ろしい排他的潮流が生まれてしまいます。分母が恐ろしい数になればその分マイノリティは殺されます。それがライブハウスの外で行われてしまうのは僕はとても腹立たしい。僕らの正義もあなたの正義もちゃんと意味をもってぶつかり合うことができるのは"その日のライブハウス"以外にありません。ライブハウスではこうするのが正しい皆もこうするように、なんて元も子もない話です。
今から10年ほど前に十三ファンダンゴでライブ前の音出しをしていた時に今はもう売れっ子バンドになってしまった彼らが「明日ROジャックの本選あるんで帰りまーす」とステージ横の扉から出ていくのを殺意をもって睨みつけながら僕らは最高のライブをしました。
今から13年ほど前にとあるイベントで僕らが当時の売れっ子バンドの1つ前の出番でライブをした時、最前列から3列目くらいまでのお客様全員が耳を手を塞いで僕らを拒絶したことがありまして、僕らはその光景にすこぶる興奮して「あーバンドっていいなー死ね!」と思ってゲインを更にガッと上げてライブをしました。その光景をステージ脇で見ていた見ていた森良太は爆笑していました。
今から15年ほど前に僕らの偉大な先輩がライブをしている時、最前列で俯いて携帯をいじってるやべーお客様がおられました。そのバンドのボーカルの御人は最後の曲のギターソロで彼女を頭を鷲掴みにして無理矢理ヘドバンさせてました。僕はそれを見てライブハウスっていいなと思いました。
何度も言いますがライブハウスに正しさなんてありません。皆がやりたいように見たいように見ればいいと思うしそれに腹立つならその場でぶつかり合ったらいい。そういうのが楽しいから皆ライブハウスを「俺達の遊ぶところ」って言うのでしょう。
ということで8/27日はフラワーズロフトってライブハウスで遊びましょう。花言葉はデンマーク、この言葉にどこか覚えがあるならば是非来てください。答えはライブハウスで決めましょう。
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