渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

男たちのまぶしい休日

2023年08月29日 | open

男たちのまぶしい休日

1973年の夏頃の映像作品か。
町の風景、人々の服装等が私が
中学生の頃だ。
映像に映るカレンダーを見ると、
月は映っていないが、映った
日付で12日が日曜日であるので、
1973年の8月に撮影されたもの
だろう。
トライアル世界選手権は1975年

から開始された。
日本ではMFJが1973年に第一回
トライアルス全日本選抜大会を
開催した。それの予選大会は
8月の12日だったのだろう。
映像作品を観ると、11月の本

大会決勝と同じ神奈川県早戸川
河川敷だと判る。
当時トライアルという言葉は
存在せず、トライアルスと呼
んでいた。
全国で予選大会を開き、上位者

が本大会決勝に出場できる甲子
園高校野球のような競技大会
から歴史は開始された。
この映像はそのトライアルス
大会の全国選抜競技大会に参加
した若者を撮った
ドキュメン
タリーである。
全日本大会本戦決勝は1973年
11月、
神奈川県の早戸川の河川
敷で
開催された。
翌年から選抜ではなくクラス
分けライセンス保持者の本格的
な選手権大会のレース
となった。

1973年1月のホンダTL125の登場
は国内
に革命をもたらした。
「トライアル」という言葉
さえまだ存在しなかった時代。
今から半世紀前の1973年1月
に122ccで発売された。
後続機は124cc。
ホンダ大ヒットの人気爆発
モデルとなった。

初期型が発売されたのは1973

の1月だった。
発売当時、TL125の車両本体価格
は152,000円。当時の大卒初任給
が52,700円程だった。

2023年大卒初任給が228,500円。
当時152,000円のオートバイは
現在換算価格だと659,000円程
になる。
私が自分の力で二輪に初めて

乗ったのが、このホンダTL125
バイアルスが登場した時と同じ
1973年の1月だった。小6。

初めて運転したのはホンダスー
パーカブだった。氷屋配達仕様。
その後、クラスメート奴の兄が
ヤマハミニトレを河川敷のオフ
コースで運転させてくれた。
中学生になる頃には、ごく普通
にマニュアルバイクのミニトレ
でいろいろな運転ができるよう
になっていた。その友人の兄は
ミニトレ50と80と白タンクの
500のマッハを持っていた。
私は二輪を運転し始めてことし
で半世紀50年が過ぎた。

日本の歴史を変えたホンダTL125
バイアルス。
この車種が1973年1月に出てから、
白バイ隊員はこの車種を選んで
二輪低速不整地路運転の訓練を
した。
日本の白バイ隊員の技術が1960

年代に比べて飛躍的に向上した
のは、この車種の果たした役割
は大きいのではなかろうか。
1973年の夏休み前、白バイ訓練
施設が
近所にあったので友人たち
よく見に行った。土手上から
見学できた。トライアルス車では
なく実働白バイでの
舗装整地路
走行訓練だったが、初めて
観た
時にぶったまげた。

あんな速度で模擬市街地コース
を運転できるの?と。
パイロンなどは4秒台あたりだった
のではなかろうか。一本橋は30
秒程だ。もっとかけて白バイで
ほぼスタンディングの様に静止

している隊員もいた。
クランクも8の字もかなりの高速。
そして、白バイは車体をこすっ
たらいけ
ないのに限界フルバンク
で走る。思いっきりリーンインで。

車体のガードバンパーが路面と
接触してすっころんでいる隊員
も何人もいた。即起こしてまた
走行。

だが、全員が低速も高速度も
完全制御に近い乗り方で運転
していた。高速度とは加速の
意味で。とにかく車を加速させ
る。瞬時に。
目から鱗落ちの乗り方だった。
二輪というのはこうやって乗る
のが本当なのか、と友人たちと
言い合った13才の初夏だった。
ちょうど1年前の同じ頃には
街では天地真理の「ひとりじゃ
ないの」がよくかかっていた頃
だ。
その年のその初夏の頃は麻丘
めぐみの「私の彼は左利き」が
ヒットしていた。

ホンダTL125バイアルス。

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