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さて、では前回の続きです。

学生結婚をした両親は、父はそのまま大学に通い、母は中退して私を育てることに専念することに決めた。しかし、当然収入はないので、祖父母たちの力を借りねばならず、きっと肩身の狭い思いをしていたことだろう。また、立派な遊び人だった二人にとって、いきなりの「生活」というものは重くのしかかったに違いない。結果、二人の結婚生活は3年ほどで幕を閉じることとなった。私自身、父と母と3人だけで過ごした記憶はごくわずかしか残っていない。

具体的なことは私は知らないが、その後の親権をどうするかは簡単には決まらなかったようだ。私の記憶には、幾度か父方の家と母方の家の両方に預けられた記憶が残っている。どうやら取り合いになっていたようだ。父方の家は祖母以外男ばかりで、言葉遣いも荒かったので怖かった記憶のほうが多い。ただ、祖母は優しくしてくれていたので、その点で母方に引き取られる際は淋しがったようだ。また、母方のほうは家庭が裕福なこともあり、何不自由ない扱いを受けていた。母方の家は上品なイメージで、記憶的には悪くない。結局数回あっちへ行かされたりこっちに行かされながら、幼稚園に入る直前に最終的に母方の家で生活することが決まった。

しかし、祖父母は私には優しかったが、母にはそうではなかった。当時母方の家は隣同士に2軒あり(元々隣の家はアパートとして使っていた)、母は夜になると、隣の家に行かされていた。私は理由もわからずに、毎夜母と別れねばならなかった。後年母に当時の様子を尋ねると、私は母の去り際に毎回必ず玄関にやってきて、いつまでもいつまでも母に手を振っていたという。その私を見て、母も去りづらく辛かった、と語っていた。

私は中学に上がる頃まで大変病弱で、特に小児喘息を抱えていた。幼稚園も小学校も休むことなどしょっちゅうだった。また、今と違い当時は喘息に使う気管拡張スプレー剤がなかったので、胸と背中全体に湿布を貼られ、病院では副作用の強い注射を毎回打たれた。小さな体に50ccの注射はそれだけでも相当な負担であったが、とにかく猛烈な吐き気のする薬で、注射している最中にすでに嘔吐を繰り返す程だった。ただでさえ喘息で苦しいのに、嘔吐まで加わる辛さは今思い出しても忌まわしくてたまらない。無論、それを見なければならなかった家族はさぞかし辛い思いをしていたことだろう。また、父親譲りなせいか、勉強のほうはかなり出来たのでそういった意味でも「せめて普通に健康であってくれれば…」の思いは当然あったろう。

私自身、劣等感の塊でもあった。小学校の頃といえば、たいてい人気者は運動の出来る子供で、背の高い子供だったと思うのは私だけではないだろう。私は今でこそ175cmを超える身長に恵まれたが、小学校ではいつも先頭か2番目、体育の成績もごくたまに3を取る位で殆ど1か2だった。見た目もいつも女の子に間違われるほど貧弱で、休みがちでそのくせ勉強だけは出来る。これで人気が出るわけがなかった。

父はたまに顔を出しはしたが、酒好きだったのでいつも酔っていた。酔えば優しくしているつもりでも乱暴に見えるものだ。実際無意味に暴力を振るわれた事も少なくなく、私は父を恨むようになっていた。母は昼は甘えられても夜一緒に寝ることはなく、すぐ隣とはいえ必ず去っていく。祖父母は優しくしてくれたが、私は淋しかった。学校でもどちらかといえばいじめられっこで、親友と呼べる友達などいはしない。

私は、孤独だった。ただ、結果的に大人受けだけは良かった。女の子らしく見えるということは大人から見れば可愛らしく受け取られ、利発で病弱ともなれば粗末に扱われないことは今になれば分かる気もする。しかし、当時の私は常に人から見捨てられるのが怖かった。この優しくしてくれる大人たちに、いつか見捨てられるのではないかと常に恐れていた。

だから私は、お祭りなどで家に大人達が集まったときには必ず目立とうとしていた。笑わせようと努力した。可愛いと言われるよう努めた。賢いと言われるよう大人ぶって見せた。いつしか私は、常に人の注目を浴びたいと願う子供へとなっていった。これこそが、やがてジャニーズを目指す原点となる。

小学校6年生の時、3年B組金八先生がスタートした。私はあの番組が好きだった。そして、そこから生まれた「たのきんトリオ」というスター達に大いに憧れた。自分もあんな人間だったらいいのに!その思いは膨らむばかりだった。中学校に入っても、「明星」や「平凡」といったアイドル雑誌を買いまくり、たのきんトリオばかり記事を追いかけた。

一方、中学入学時点で140cmしかなかった身長を伸ばそうと、牛乳を飲みまくったり足が長くなるように親に毎日のように足を引っ張ってもらったりと、変な努力をしていた。「エースをねらえ!」が好きで、テニス部にも入りたかったが、その学校は全国レベルの学校で入部試験であっさりと落とされた。そういったこともあり、思春期を迎えた私のエネルギーは一層たのきんトリオに向かっていった。そうして初めて「ジャニーズ事務所」の存在を知ることになったのであった。

中学校に入ると少しづつ身長が伸び始め、1年後には150cmになっていた。そして、抑えられなくなった憧れは、自分などでは不可能とは思いつつも、ジャニーズへの応募へと自らを動かしていった。ファンクラブへも何度も電話し、応募方法などを確かめて、ついに履歴書を送ったのだ。中学1年の終わりの話である。

しかし、現実は厳しかった。事務所からは「3ヶ月経っても返事がなければ諦めてください」と言われていた。が、半年経っても何の音沙汰もなかった。「やはりダメか…」そう思った。でもどうしても諦め切れなかった。最初の写真は学生証の写真を送ったのだが、きっとそれが良くなかったんだ、と考え、親に頼んで精一杯カッコつけた写真を取りまくり、その中でもこれだ!と思える写真を確か3枚ほど同封したと思う。これでダメなら諦めよう、そう覚悟して再び応募した。

しかし、時は無常にも過ぎていった。また半年が経っていた。私は、やっぱりダメだよな、とすっかり諦めていた。そして、忘れもしない1月17日、ある1通の手紙が私宛に送られてきた。そこには「ジャニーズ事務所」の文字が!私は急いで封を切った。中に入っていたのは、オーディションの開催通知だった。「やった!」私は歓喜した。誰彼ともなく見せびらかした。一気に私の目の前が明るくなった気がした。

そして当日。私は会場に赴いた。浮かれていられたのは、その会場内に入った時までだった。「かっこいい奴が多すぎる…」その時真っ先に思った心境だ。中にはバック転の練習をしている人もいた。人数は70人もいた。

「こりゃ受かるわけないや」正直そう思った。それでいいと思った。ここまで来れたのだから、せいぜい良い思い出にして帰ろう、そう考えていた。そして、オーディションが始まった。最初にジャニーさんから全員に言葉があった。「合格者は2週間以内に(このあたりの期間ははっきりと覚えていない)連絡します。諸君はここにこれただけでもたいしたものなので、不合格となっても決して落胆しないでほしい」というような内容の話だったと記憶している。それから元ジャPAニーズのボビーさんが模擬レッスンをし、何人かごとに踊らされた。その後、別室で台本読みの試験があった。私の時は「グッドラックLOVE」の台本で、相手はなんと野村義男さんだった。あの時は試験より彼を間近で見られた嬉しさのほうが大きかったのを覚えている。

最後に、ジャニーさんと1対1で面接があった。そのとき、ジャニーさんはいきなり「君の学校は芸能活動できないんじゃないの?」と聞いてきた。私は「はい、確かにそうですが入れるものならいつでも辞めます」そう答えた。そうしたら「まあそうもいかないだろうから、とりあえず中学の間はレッスンだけにして高校に行く時に仕事のことを考えればいいんじゃない?本当は今度やる「貫八先生」に出す子を今回選びたかったんだけど…出れないもんねぇ」

私はどうも話が良く分からなかった。ドラマに出る子供を捜していいるのは分かる。でもそれでは私はその時点で失格のはずだ。学校が禁止しているのだから。でもレッスンには来ていいとはどういう意味なんだろう…?

「あのう、レッスンには来ていいんですか?」
「まあ仕方ないからね」
「え、でも合格発表は2週間後なんですよね…?それは僕は受かったって云う事なんですか?」
「う~ん、まあそう取ってもらってもいいんだけど…まあとにかく来週からきなよ」
なんとも煮え切らない問答だった。結局私は良く分からないまま会場を後にした。

そして次の週、一応言われた通りの場所へと向かった。中には30人ほどの同世代の子供達がいた。「先週の人たちなのかな…?」しかし、よく見るとテレビで見たことのある人がいる(後の少年隊)。そして程なくボビーさんが現れ、いきなりレッスンが始まった。私はとりあえず一番後ろの列に並んでレッスンを受けた。今度は模擬レッスンではないのでものすごい厳しさだった。「えー、今日初めてなんだけど同じことやるのかなあ?」そう思いながらヒイヒイいってレッスンを受けた。「なんだお前そのだらしなさは!」いきなり怒られた。そんなこといわれても…これも試験の続きなのかな、そんな風に思い始めた。それが第一歩だった。

一ヶ月ほど経った頃、同い年で私より少し早くジュニアになっていた内海に「俺って合格したのかなあ?」と恐る恐る聞いてみた。すると、「え?知らなかったの?あん時のオーディションで受かったのはお前入れて3人だけだよ」

衝撃だった。信じられなかった。しかし、それが天が私に与えた運命だった。そうして、その日から心からジュニアの一員としての生活が始まっていくのだった。

長くなってすみません!!
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