64. 第4章「行け行け東映・積極経営推進」
第10節「東映100年に向けて 次なる事業への取り組み ①」
東映社長大川博はこれまで直営館事業、テレビ事業、動画事業、CM制作、広告代理業、現像事業とM&Aで新たな映像関連事業拡大に取り組んできました。
1960年の年頭挨拶にて「全社を挙げて積極策を展開し東映百年の基礎を開かん」と述べた大川は、その年、映像関連以外の新規事業にも手を広げ、まずは湯沢観光ホテルを買取り、ホテル事業に乗り出しました。
そして、次に北九州市小倉での大規模商業施設の開発に取り掛かります。
① 大規模商業施設:小倉東映会館
その1960年10月18日に地鎮祭が行われ、小倉随一の繁華街である魚町の交差点角という一等地に地下1階、地上6階建てで映画館を併設した大規模商業施設の翌年開館を目指し、東京銀座に株式会社小倉東映会館を創設しました。
東映創立十周年を迎える1961年の年頭あいさつで大川は、映画産業の陰りに備えた「多角経営の活発化」を語り、ホテル事業の積極展開に加え、北九州市小倉にてマンモス消費娯楽センター・小倉東映会館の建設に着工、10月にオープンすることを発表します。
そして、開館にむけて、事務方の管理職は東映本社や撮影所の人材を配置し、営業は東横百貨店や白木屋などから集め、新たに採用した社員のために東映本社や東横百貨店で半年間の研修を行いました。
準備も整い、1961年11月18日、綜合消費娯楽センター小倉東映会館がオープンします。
開館後は順調に売り上げを伸ばし、小倉東映会館は小倉の顔となります。
1964年には、初頭より大改装を行い、4月末に完成。小売部門を拡張し、娯楽センターからデパート的な色合いを強めました。
小倉東映会館は三愛や銀座ワシントン靴店など東京銀座の流行を小倉に届ける元祖ファッションビルとして、東映直営館ともども小倉の人々に愛されます。
3階にあった「アルク」という喫茶店のナポリタンスパゲッティは地元の名物メニューでした。
2003年4月、リバーウォーク北九州が誕生し、東映直営館はティジョイとしてそちらに移り、6月、小倉東映会館は閉館されます。翌年解体され、跡地には2007年にマンションなどが入るオリエントキャピタルタワーが竣工しました。
小倉東映会館解散にあたり、2002年に東映の子会社として設立された株式会社テス・サービスに酒販業務を移管、「ワールドセラー東映」として酒販事業を開始したテスは、その後プライベートブランド焼酎として、吉永小百合さんの「さゆりの泪」「さゆりの微笑」を発売します。
② プラスチック加工業:東映プラスチック工業
大川の進める事業の多角化、続いてはプラスチック加工業でした。
1961年9月4日、群馬県太田市近郊に東映プラスチック工業株式会社を設立します。
これは、東映化学工業(1959年小西六写真工業より買い取った日本色彩映画を改称した東映子会社)がM&Aを行い子会社として発足させた会社で、11月に将来性を鑑み東映の直接の子会社としました。
東映プラスチック工業は、三洋電機の製造する冷蔵庫内のプラスチック部品を下請け製造する事業を主にしており、1962年、冷蔵庫需要の拡大を見込み、大川は二棟目の工場を拡張します。
しかし、事業が停滞したことにより、下請けからの脱却をはかるべく体制の変革を検討しました。
1963年9月、資本を増額し、本社を群馬から京橋に移転。社長に新東宝の専務だった山梨稔が就任することで新たな営業体制の構築を図ります。
11月1日、資本金を1000万円から5000万円に増額、これまでの10万株に加え、新たに40万株の株式が発行されました。
そして大川は、1964年の年頭あいさつで東映プラスチックの足踏みから脱却する期待を述べました。
この年9月、東映プラスチック工業の経営を積水化学工業株式会社に任せ、社長の山梨は東映動画社長に就任しますが、引き続き大川ともども取締役として残ります。
1970年4月、東映プラスチック工業株式会社は東都積水化学工業株式会社と商号を改めました。
東都積水化学工業は東都積水株式会社と名前を変え、現在も積水化学グループの子会社として活躍しています。
③ タクシー事業:東京タワータクシー・東映タクシー
1960年、東映百年の基礎を作るべく新規事業の開発を進めた大川は、大株主として資本参加している日本電波塔株式会社(1957年創設)からタクシーの営業権を譲り受け、1960年9月9日、東京タワータクシーを設立、タクシー事業に乗り出します。
時間のない中、なんとか確認検査を終えた11月12日、ハイヤー、タクシー併せて15台で営業をスタートし、その後、順調に売り上げを拡大して行きました。
また、積極的な新規事業展開を図る大川は、1961年9月、京都に東映不動産株式会社を設立、翌年1月に西京極でガソリンスタンドの営業開始を目指すとともに、12月にはタクシー営業免許を取得し、西京極タクシー株式会社を創設しました。
そして、1962年の年頭あいさつでタクシー事業の拡充について語ります。
1月22日に西京極タクシーは東映タクシーと改称し、新社屋も完成した3月5日、盛大に開所式が行われ、タクシー15台で営業を開始しました。
1963年9月、東京タワータクシーの増車認可が下りて31台に増え、また、京都ではこれまで東映不動産が経営してきた京都のガソリンスタンドが施設人員ともども東映タクシーに移管されます。
こうして、東京、京都、両タクシー会社の売り上げは、観光需要の拡大と共に順調に拡大して行きました。
東京タワータクシーでは、1966年4月から自動車の修理整備請負にも乗り出します。
1966年7月、東京タワータクシーは優秀事業所に選ばれ、大川から表彰状と金一封が贈られました。
1968年10月、東京タワータクシーはイメージアップのため、商号を東京タワー交通株式会社に変更します。
12月には東京タワー交通に10台増車の認可が下り、保有台数も50台になり、増々の営業拡大を目指しました。
1970年11月、そして、より多くの売り上げを獲得するべく、板橋に120台まで収容可能な新事務所を建設し、移転します。
一方、京都の東映タクシーも11台の増車が認められ、車両数は59台に増えました。
東京、京都の両タクシー会社とも順調に売り上げは伸びてゆきますが、業界に多くの企業が参入したため、タクシー運転手不足と言う問題が生じます。
その結果、1972年5月31日をもって東京タワー交通は解散するに至りました。
一方、京都の東映タクシーは何とか人員を確保し踏ん張っていましたが、1980年6月10日、洛東タクシーに譲渡し、ここに東映のタクシー事業は終わりを告げました。
今回は大川博が始めた映像に関係しない新規事業のうち、大型商業施設・小倉東映会館、プラスチック加工・東映プラスチック工業、タクシー事業の東京タワータクシーと東映タクシーについてご紹介いたしました。
次回も大川が新たに挑戦した新規事業をご紹介いたします。