55. 第4章「行け行け東映・積極経営推進」
第5節「東映娯楽時代劇黄金期の名監督③ 渡辺邦男」
渡辺邦男 マキノ雅弘と並ぶ早撮り名人 クニさん
映画製作会社にとって一番ありがたい映画監督は「安くて、早くて、儲かる映画」を撮れる人であると言われます。「早撮り東の横綱」マキノ雅弘に対して「西の横綱」と呼ばれたのが渡辺邦男でした。
早く撮影を終える手法は「中抜き」。台本の流れに関係なく、カメラや照明やセットの位置を動かさずに撮れるカットばかりをまとめて撮る手法です。渡辺はその場面に出演する俳優のすべての衣裳をそこに持ち込み、早変わりの要領で撮影をしていきました。
撮影が早く終わるということは、製作日数が少なく済み、大幅な経費の削減につながります。それで面白くてヒットすれば会社にとって最高の利益をもたらす最良の映画となるのです。
また、突然のトラブルで撮影日数がほとんどない作品を製作しなければならない場合、会社にとって早撮り監督は神様に思えます。
マキノ雅弘同様、渡辺は早撮りで東映をはじめとする数々の映画会社のピンチを救済しました。
渡辺は早稲田大学時代、左翼思想の影響を受け、後に社会党委員長浅沼稲次郎が結成した建設者同盟に入り、浅沼と共に演壇に立って演説するなどの活動を行います。
卒業後、朝日新聞に入社するも一日で退社。その後、新劇団を経て1924年10月、日活大将軍撮影所に入所しました。監督職を志望するも池永浩久所長の命で俳優からスタート。松之助のスタントなどを経験後、助監督としてオールスター映画の巨匠池田富保に付き演出術を学びます。
撮影所が太秦に移り、1928年4月、監督に昇進、11月公開『剣乱の森』でデビューしました。
そこから池永の指導で、伊藤大輔などの芸術映画とは違う、会社が求める「安く、早く、儲かる映画」作りのプロ監督を目指し、数多くの作品を手掛け腕を磨きます。
1934年、新設された日活多摩川撮影所に移り、8月公開の現代劇『前線部隊』を監督しました。
1935年5月公開、作詞家サトウ・ハチロー原作、作曲家古賀政男編曲・音楽監督による庶民派ミュージカル映画『うら街の交響曲』を監督し評判を呼びました。
1936年2月、二・二六事が勃発、高橋是清が暗殺されると、早速、11月公開の大作『高橋是清自伝 前後篇』を監督します。
1937年、渡辺は、岡譲二と共に日活を離れ、池永のいるJ.O.スタヂオ、P.C.L.映画製作所、そして8月にそれらが合併して誕生した東宝映画に移籍しました。
東宝でも渡辺は岡や榎本健一(エノケン)主演で「早く、安く、儲かる映画」を監督、なかでも、1939年11月公開長谷川一夫と満映李香蘭主演、満洲にロケ撮影した『白蘭の歌 前後篇』は国民的大ヒットします。
翌1940年には山田五十鈴と出征から帰って来た岡が主演する『新妻鏡 前後篇』を監督、5月に公開すると霧島昇歌う主題歌『新妻鏡』『目ン無い千鳥』ともども大ヒット。年末公開、華北電影と共同製作の長谷川一夫、李香蘭主演『熱砂の誓ひ 前後篇』も大ヒット、と東宝映画の基盤確立に貢献しました。
戦争中は、1943年3月公開、東宝オールスター映画『音楽大行進』や9月公開原節子主演『決戦の大空へ』など戦意高揚映画を監督し、大衆を鼓舞します。
戦後の東宝争議で、渡辺は共産党主導下の組合に反対。1946年11月、長谷川一夫、大河内傳次郎、黒川弥太郎、藤田進、原節子、高峰秀子、山田五十鈴、山根寿子、花井蘭子の「十人の旗の会」とともに組合を脱退しました。
そして、1947年1月、東宝第二撮影所に新東宝映画製作所の看板を掲げ、斎藤寅次郎、阿部豊、萩原遼、佐伯清、千葉泰樹など各監督たちと映画作りに乗り出します。
渡辺は、3月公開、長谷川一夫主演『さくら音頭 今日は踊って』を監督、続く8月公開、藤田進のすれ違いメロドラマ『誰か夢なき 前後篇』は新東宝初の大ヒットとなりました。
翌1948年3月に株式会社新東宝が設立されると、渡辺は退社してフリーの立場で、プロデューサーの滝村和男と組み、新東宝・エノケンプロ共同製作のエノケン映画シリーズを監督します。
1950年、経営に苦しむ東横映画に、早撮りの腕を見込まれた渡辺が三顧の礼で迎えられました。
灰田勝彦主演3月公開『かっぽれ音頭』は9日間、片岡千恵蔵主演4月公開『いれずみ判官 桜花乱舞の巻・落花対決の巻』は前後篇で20日間、千恵蔵主演7月公開『天保人気男 妻恋坂の決闘』は11日間という製作日数で完成し、しかも時間外がほとんどないという驚くべき早撮りで経営陣を喜ばせました。
特に、『いれずみ判官』は大ヒット、この後、遠山の金さんは千恵蔵の当り役として何度も東映で映画化されます。
1950年、渡辺は争議も終わり経営が安定してきた東宝の製作顧問に就任、再び東宝でも監督をはじめます。
東宝、新東宝、東横映画で早撮り&ヒットの実績を積み重ねた渡辺に、今度は大映から声がかかり、1951年7月公開灰田勝彦主演『歌う野球小僧』を東京撮影所にて監督。灰田の歌う主題歌が映画ともども大ヒットしました。
1951年4月に誕生した東映は、翌年から全プログラムを自主製作配給することを目指し、ステージ数の少ないところを早撮りで回転数を上げてカバーするべく、渡辺を再招聘します。
渡辺は、12月公開宮城千賀子主演『快傑鉄假面』の後、市川右太衛門主演で1962年2月公開『水戸黄門漫遊記 第一部 地獄谷の豪族』、3月公開『第二部 伏魔殿の妖賊』、千恵蔵主演6月公開『はだか大名 前後篇』、7月公開右太衛門主演『決戦高田の馬場』など次々と両御大主演作品を監督して行きます。早撮りで各社から引く手数多の渡辺は、東映でも最高の待遇で迎えられ、やがて渡辺天皇と呼ばれるようになりました。
その後も、11月公開千恵蔵主演『飛びっちょ判官』、12月公開右太衛門主演『花吹雪男祭り』、1953年4月公開右太衛門主演『女難街道』と千恵蔵主演『大菩薩峠 』、6月公開『大菩薩峠 第二部』『大菩薩峠 第三部』、8月公開右太衛門主演『神変あばれ笠 前篇 後篇』、そして11月には両御大が出演する東映初総天然色大作『日輪』、12月公開右太衛門主演『べらんめえ獅子』と、次々に御大主演作を監督して行きます。
『飛びっちょ判官』では、多忙のため撮影所入りが遅れ、スタッフ一同ヤキモキする中、台本を7時間で書き上げ、撮影も10日間ほどで終了、余裕をもって完成させました。興行成績もまずまずで、渡辺天皇と呼ばれる由縁を見せつけます。
1954年度も両御大作の監督は続き、1月公開千恵蔵主演『南国太平記』、2月公開『続南国太平記 薩南の嵐』、3月公開右太衛門主演『巷説荒木又右衛門 暁の三十八番斬り』、5月公開右太衛門主演『鳴門秘帖 前後篇』、8月公開千恵蔵主演『犬神家の謎 悪魔は踊る』、9月公開千恵蔵主演『お坊主天狗 前篇』、10月公開『お坊主天狗 後篇』、12月公開右太衛門主演『旗本退屈男 謎の怪人屋敷』と、他社も含めおよそ月1本のハイペースで監督しました。
1955年2月、渡辺は新東宝の専務取締役兼製作本部長に就任。森繁久彌を主役に置いたシリーズなどを監督しますが成績が振るわず、12月、社長に大蔵貢が就任すると専務を辞任、一介の監督に戻ります。
1956年は新東宝で嵐寛寿郎主演映画や喜劇映画などを監督、年末には美空ひばり主演で『鬼姫競艶録』を撮りました。
翌1957年、新東宝で嵐寛寿郎主演『明治天皇と日露大戦争』を監督、4月に公開すると、この作品がこれまでの日本の映画興行記録を塗り替える大ヒットを飛ばし、11月公開美空主演『ひばりの三役 競艶雪之丞変化 前後篇』も大ヒット、早撮りのヒットメーカー・クニさんの名声が一段と高まります。
1958年、大映からのオファーを受け、経営が悪化した新東宝から離れた渡辺は、4月公開の長谷川一夫主演大映時代劇オールスター映画『忠臣蔵』を演出すると年間配収第1位の大ヒットを記録しました。
松竹からも声がかかり、5月公開の高田浩吉主演鶴田浩二や近衛十四郎が共演する『天保水滸伝』を監督しました。続けて松竹で6月公開の美空ひばり主演『女ざむらい只今参上』を撮影の後、東映東京撮影所にて、7月公開、同じく美空ひばり主演『おこんの初恋 花嫁七変化』を担当しました。
そして、大映で監督した10月公開の大作、長谷川一夫主演『日蓮と蒙古大襲来』も年間配収第8位と、渡辺は日本映画の全盛、とりわけ時代劇の全盛に貢献します。
渡辺は、1958年から1961年前半まで、京都の松竹、大映で数多くの時代劇を監督しました。
1960年代に入りテレビの普及で映画界が斜陽を迎え、特に時代劇が苦境に陥ると、渡辺は京都を離れて東映東京撮影所で美空ひばり『ひばり民謡の旅』シリーズなどに取り組みます。
1963年6月、『ひばり民謡の旅 秋田おばこ』を最後に東映を離れ、テレビ界に行き、これまでの早撮り技術を活かし200本を超える作品に携わりました。
娯楽映画の巨匠渡辺邦男は、東横映画から東映の揺籃期、早撮りのテクニックを活かして苦しい東映の映画作りを支え、渡辺天皇とまで呼ばれた東映の救世主でした。