㊸ 第3章「躍進、躍進 大東映 われらが東映」
第8節「雄飛 東映映画の海外展開 外国部」
1951年、大映・黒澤明監督『羅生門』の第12回ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞以来、日本映画界は映画祭などの国際映画市場に目が向くようになりました。
戦前の1932年から始まったヴェネツィア国際映画祭は、三大国際映画祭の中で1946年のカンヌ国際映画祭、1951年のベルリン国際映画祭に先立つ、最も歴史ある映画祭です。1938年には日活・田坂具隆監督『五人の斥候兵』がイタリア民衆文化大臣賞を受賞しています。
1952年には、新東宝・溝口健二監督『西鶴一代女』が国際賞、1953年大映・溝口監督『雨月物語』、1954年には大映・溝口監督『山椒大夫』、東宝・黒澤監督『七人の侍』がそれぞれ銀獅子賞を受賞しました。
国際映画祭受賞を目指し、永田雅一社長のもと芸術性の高い時代劇大作を次々と製作した大映は、1954年、衣笠貞之助監督『地獄門』で第7回カンヌ国際映画祭の最高賞パルム・ドールを獲得します。
1953年 営業部外国課設置
1953年4月、ようやく経営安定への兆しが見え、大川社長、多田常務(マキノ光雄)一行は、欧米映画市場視察に向かいます。
1953年5月1日発行 東映『社報』第13号より
大川は、帰国挨拶で、海外輸出の促進のために渉外課を作り、欧米に駐在員を置くことを述べます。
1953年6月16日発行 東映『社報』号外より
8月、営業部に外国課を新設し、今田智憲(後に東映動画社長)営業課長が課長を兼務、外貨獲得にむけて外国市場の開拓と映画祭への参加に踏み出しました。
1953年9月17日発行 東映『社報』第17号より
1954年 国際市場開拓へ
1954年年頭挨拶で、輸出の振興、その為の海外事務所の設置を本年第3の課題にあげます。
1953年1月15日発行 東映『社報』第20号より
7月、大川社長はスイスロカルノで開催される映画製作者協会国際連盟総会に、日本映画連合会代表として初めて出席するために羽田から出発します。総会では国際映画祭の運営について様々な問題が話し合われ、その後、フランス、イタリアと視察、インドではマキノ常務、今田課長も合流し、合作映画や輸出について現地の映画関係者と話し合いました。一行は、タイ、シンガポール、香港、フィリピン、台湾、そして沖縄を歴訪、市場の開拓に努めました。
1954年7月14日発行 東映『社報』号外より
11月にはインドのバテル・インディア社との合作映画『ベンガルの黒豹』製作の打ち合わせに坪井与企画本部長が渡印、ボンベイに向かいます。
1954年12月25日発行 東映『社報』第28号より
1955年5月、シンガポールで開催の第2回東南アジア映画祭に出席のため、大川社長は今田課長、女優の喜多川千鶴、田代百合子を連れて飛び立ちます。
1955年6月1日発行 東映『社報』第31号より
この年8月、教育映画部製作関川秀雄監督『トランペット少年』が第9回エディンバラ国際映画祭(1932年初開催・国際映画製作者連盟未加盟)の短編映画部門で最優秀映画賞を獲得しました。
1955年12月26日発行 東映『社報』号外より
1956年 ロスアンゼルス駐在所開設へ
1956年年頭挨拶で、輸出が思うように進んでいない事、輸出振興の為に東宝、松竹の海外事務所の実績を調査し、海外駐在所設置を検討している、と述べます。
1956年1月10日発行 東映『社報』号外より
1956年6月、第3回東南アジア映画祭に日本代表団団長として大川は今田課長、女優の星美智子、中原ひとみを帯同して香港に向かいます。
1956年7月10日発行 東映『社報』号外より
9月には海外輸出のより活発化をめざし、ロスアンゼルスに駐在所を開設するために、今田課長と課員の竹林英二が渡米。竹林は連絡員として駐在します。ここから東映初の海外駐在が始まりました。
1956年10月10日発行 東映『社報』第43号より
日本一になった東映 海外積極展開
1957年、年頭の挨拶において、大川は輸出の振興について述べ、ロスの駐在の意義、ニューヨーク映画見本市の開催について語りました。そして、マキノ、今田、女優の千原しのぶらと見本市出席のためニューヨークに向けて旅立ちました。
1957年1月25日発行 東映『社報』第46号より
4月には第10回カンヌ国際映画祭に映連代表団代表として山崎京都撮影所長、堀東京撮影所所長、女優の中村雅子など一行が参加します。今井正監督『米』のグランプリ受賞が期待されましたが惜しくも入賞できませんでした。
1957年5月20日発行 東映『社報』第49号より
5月、東京で第4回アジア映画祭が開催され、『鳳城の花嫁』が撮影賞など5部門で受賞しました。また、ベルリン国際映画祭など各映画祭に作品を出品、積極的に海外映画祭進出を図ります。
1957年12月10日発行 東映『社報』第55号より
総天然色ワイド映画『鳳城の花嫁』は各国に輸出され好評を得ました。今年入社した東京外国語大学シャム科卒の福中脩は、大学で学んだタイ語を活かして早速タイに販売、大成功を納めます。部員一同、東南アジアにも時代劇を販売し、好成績をあげました。
1958年2月1日発行 東映社内報『とうえい』第2号より
1958年 外国部誕生
1958年5月1日、東映は組織を改編、営業部は配給部と名称を変え、営業部にあった外国課開発係と輸出係を新たに設けた外国部の下に外国課渉外係と輸出係として置きました。
部長には専務の小滝顕忠が就任します。それまで渋谷東映支配人だった新島博課長の下に、渉外係長代理として4月ロスより帰国した東映2期生竹林英二、4期生浅子信一、昨年入社6期生福中脩と新入社員7期生生稲裕、輸入係には3期生高橋義之と4期生笠原茂が配属されます。
同時にテレビ事業に向けて新しく開発部も設置し、これまで外国課長を兼務していた今田が外国課を離れ、配給部次長として開発部テレビ課長を兼務しました。
1958年5月15日発行 東映『社報』第58号より
ロス駐在経験を持つ竹林を筆頭に、東京外国語大卒など英語に堪能な若手社員が揃った外国部は、海外諸国に向けて積極的に営業活動を始めていきます。
ベルリン国際映画祭・銀熊賞獲得
そして、この年6月に開催された第8回ベルリン国際映画祭において、昨年公開の今井正監督『純愛物語』が銀熊賞(監督賞)を受賞しました。
1958年9月1日発行 東映社内報『とうえい』第9号より
この受賞によって『純愛物語』はヨーロッパだけではなく、東欧共産圏のチェコ、ポーランド、ハンガリーまで輸出されます。
ハワイ、沖縄での成功
東映の輸出の拡大には、ハワイと沖縄(当時米国領)市場での成功が大きく貢献しました。両地域には東映の作品が数多く輸出され、沖縄では他社を圧倒し、ハワイでは日系人が東映契約館に大勢詰めかけました。
10月に京都撮影所で行われた東映専門館制度確立記念パーティーには、ハワイからハワイ合同娯楽社のフレッド・ウィリアム社長、沖縄から琉球映画貿易社の大城鎌吉社長もはるばるお越しになりました。
1960年に東映系映画館を中心に全国で組織された東映友の会は、遠くハワイや沖縄でも結成されます。
ベルリン国際映画祭・青少年向け映画賞受賞
1959年6月、第9回ベルリン国際映画祭では、東宝・黒澤明監督『隠し砦の三悪人』が銀熊賞(監督賞)を獲得、東映が出品した家城巳代治監督『裸の太陽』は青少年向け映画賞を受賞しました。
1959年7月15日発行 東映社内報『とうえい』第19号より
1959年9月15日発行 東映社内報『とうえい』第21号より
第9回ベルリン国際映画祭青少年向け映画賞トロフィー
海外展開の拡大
1960年2月、外国部長に就任した今田の命を受け、ニューヨークに念願の駐在所を開設、8月、NETに出向していた7期生東大野球部出身の吉田治雄が外国部に籍を移し、駐在員として赴任しました。
1960年8月23日発行 東映社内報『とうえい』第32号より
この年、第12回ヴェネツィア国際児童映画祭において、東映動画『少年猿飛佐助』がグランプリを受賞します。
1960年10月20日発行 東映社内報『とうえい』第34号より
ニューヨークに次ぐ海外駐在所として、1961年2月にローマ駐在所を開設することを決定、以前イタリア政府映画実験センターの招きを受けローマにあるチネチッタへ派遣された京都撮影所美術助手山田正久を外国部に移籍して駐在員とします。
1960年12月23日発行 東映社内報『とうえい』第36号より
11月には、南北アメリカへの営業を強化するため、本社から生稲裕を吉田のいるニューヨークに追加駐在員として派遣します。
そして、日系人の多い南米ブラジルへの営業も積極的に行い、映画だけでなくテレビドラマもどんどん実績が拡大していきました。
1961年5月31日発行 東映社内報『とうえい』第41号より
1962年10月31日発行 東映社内報『とうえい』第57号より
1963年4月には新たにフランスパリ駐在所を開設、ローマと兼務の所長としてニューヨークの吉田が転進します。
ベルリン国際映画祭・金熊賞獲得!
そして、1963年6月。ついに今井正監督『武士道残酷物語』が第13回ベルリン国際映画祭にて念願の金熊賞を受賞しました!
1963年7月31日発行 東映社内報『とうえい』第66号より
金熊賞獲得の功労者として、パリ兼ローマ駐在所の吉田所長は社長表彰を受けます。
1963年東映『武士道残酷物語』今井正監督・中村錦之助主演
東映映画の国際映画祭での数々の受賞の陰には外国部員たちの営業努力による地道な人脈作りがあったのです。
1959年5月15日発行 東映社内報『とうえい』第17号より