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㉓ 第3章「躍進、躍進 大東映 われらが東映」

第4節「大川博のM&A 直営館拡大篇」

 1984年4月1日、私は東映に入社、その際に「東映手帳」が配布され、そこには東映直営劇場や全国5か所ある支社の子会社が経営する劇場が記載されていました。

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 北は北海道・旭川から南は九州・鹿児島まで広がるその数、直営館51ヶ所・92劇場、準直営館(支社管轄の劇場)25ヶ所・29劇場。

 これらの映画館の多くは、大川博社長時代に、小林一三の東宝や芝居の老舗松竹に追いつけ追い越せと、既存の映画館を地元の興行会社から買収したり、土地を買い取って新築したものでした。

 1951年に莫大な負債をかかえて誕生した大川博率いる東映は、経営合理化で徐々に光が見えてきた1953年から、既存劇場のM&Aや土地の購入によって直営館を徐々に増やしていき、1954年から始まる娯楽版の大成功で軌道に乗ってからは、一気に直営館拡大路線に邁進しました。

 土地価格は、上昇しつつあるとはいえ、まだ終戦から日が余りたっておらず、低い段階だったこともあり、収益を土地購入や会社買収にあて、そこで事業を成功させることで、また新たな購入を進めていく好循環システムに乗って、東映は、この時期に一気に直営館や新規事業が拡大します。

 大川は、1955年、3月大阪道頓堀に大阪東映(後に道頓堀東映と改称)と地下劇場、7月福岡東映と地下劇場、名古屋東映と地下劇場、12月札幌東映と地下劇場、福岡みなみ東映と四大都市に新たに建設、賃借の堺東映と合わせて繁華街の一等地に直営館10劇場をオープンさせました。

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2016年3月発行 東映60年史『東映の軌跡』より

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1955年8月25日発行 東映『社報』8月号外 

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1956年1月20日発行 東映『社報』第36号より

 1956年、日本経済は上昇機運にあり、カラー時代を迎える映画界も好景気に沸き、観客動員数は10億人をうかがうところまで伸びていました。

 1956年は、4月の富山東映新築オープンからはじまり、8月上野東映を買い取った伊賀上野東映として経営、9月には盛岡東映、仙台東映仙台東映パラス広島東映、広島東映地下、10月浅草東映、浅草東映パラス、京都四条大宮の大宮東映、12月新潟東映、新潟東映パラス、小田原東映と次々と新築、横浜東映を買い取り、合計10ヶ所14劇場が新たに増えました。

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1956年6月11日発行 東映『社報』第40号より

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1956年10月10日発行 東映『社報』第43号より

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1956年11月10日発行 東映『社報』第44号より

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1956年12月20日発行 東映『社報』第45号より

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1957年1月25日発行 東映『社報』第46号より

 1957年は、シネマスコープ方式「東映スコープ」が立ち上がり、劇場もそれに対応できる設備に改造されていきます。

 2月佐賀東映を新築、5月に福島東映、7月札幌琴似東映、8月松江東映を買い取り、9月に旭川東映新築、10月松山東映、鹿児島東映、12月静岡東映・静岡東映パラスを賃借してオープン、年末に函館東映新築、青森東映を買い取り営業開始、1957年10ヶ所11劇場を新たに開業しました。

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1957年3月13日発行 東映『社報』第47号より

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1957年5月20日発行 東映『社報』第49号より

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1957年8月1日発行 東映『社報』第51号より

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1957年9月1日発行 東映『社報』第52号より

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1957年11月1日発行 東映『社報』第54号より

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1957年12月1日発行 東映『社報』第55号より

 1958年は、2月秋田東映を賃借、3月新宿東映新宿東映地下建替え、4月広島的場東映賃借、8月長野東映新築、弘前東映、青森東映建替え、10月江東東映賃借、11月小樽東映、12月神戸東映・神戸東映地下新築、沼津東映・沼津東映パラス買取、と合計10ヶ所13劇場をオープンします。

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1958年2月1日発行 東映社内報『とうえい』2月号より

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1958年3月1日発行 東映社内報『とうえい』3月号より

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1958年4月20日発行 東映社内報『とうえい』4月号より

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1959年6月15日発行 東映社内報『とうえい』6月号より

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1958年9月20日発行 東映社内報『とうえい』9月号より

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1958年12月20日発行 東映社内報『とうえい』12月号より

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1959年1月15日発行 東映社内報『とうえい』1月号より

1959年は、3月大阪東映会館が開館し、梅田東映・梅田東映パラス・梅田東映ホール、6月飯塚東映賃借、9月津東映、10月釧路東映、金沢東映、12月八幡東映、名古屋第二東映、和歌山東映と、次々に新築、7ヶ所10劇場が新たに加わりました。

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1959年8月15発行 東映社内報『とうえい』8月号より

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1959年10月15日発行 東映社内報『とうえい』10月号より

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1959年11月20日発行 東映社内報『とうえい』11月号より

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1960年1月20日発行 東映社内報『とうえい』1月号より

 1960年3月から新配給網第二東映がはじまり、東映の劇場網はますます拡大します。新宿ヒカリ座は新宿第二東映、渋谷東映地下は渋谷第二東映、元横浜東映は横浜第二東映と改称、前年末増築した名古屋第二東映、札幌地下劇場、大阪東映地下、福島駅前東映、福岡東映地下、広島東映地下などの直営館が第二東映専門館になりました。

 1960年の新直営館として、5月高知東映賃借、6月新潟東映ライオン劇場、新潟セキヤ劇場買取、京都の西陣東映賃借、福島東映買取(従来の福島東映は福島駅前東映に改称)、9月帯広東映新築、そしてついに東京銀座に東映会館を竣工、会館内に丸の内東映、丸の内東映パラスを開設します。12月に水戸東映を新築(それまでの水戸東映返却)し、1960年8ヶ所9劇場新設、それによって直営館は70館にのぼりました。

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1960年5月20日発行 東映社内報『とうえい』5月号より

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1960年7月25日発行 東映社内報『とうえい』7月号より

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1960年10月20日発行 東映社内報『とうえい』10月号より

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1960年12月20日発行 東映社内報『とうえい』12月号より

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1955年~60年東映新設直営館66館リスト

 大川社長が創業から10年間で購入した映画館の土地は全国にわたり、市街地のなかでも一等地にあり、その後の事業展開の基盤となります。


映画から始まり、時代の荒波にもまれながらも「何でもあり」の精神で突き進んだ東映娯楽事業の系譜を、創立70周年の節目に振り返ります
㉓ 第3章「躍進、躍進 大東映 われらが東映」|創立70周年特別寄稿『東映行進曲』