㉒ 第3章「躍進、躍進 大東映 われらが東映」
第4節「大川博のM&A ラボラトリー後篇」
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。 前回は戦前のトーキー映画と日本の映画現像所の始まりについて述べました。今回は色彩にあふれた世界の姿をそのまま映画に表現するカラー映画の歴史とその技術を支えたフィルム会社と日本映画界の取り組み、そして東映化学工業誕生の経緯についてお話いたします。
私が物心ついたころ、映画はカラーが当たり前になっていましたが、テレビはまだ白黒で、家にカラーテレビが来て、初めてカラーアニメ『ジャングル大帝』を見た時の驚きと感動は今でもありありと思いだされます。映画の世界でも、初めてカラー作品に接した人々は驚きと感動を持ってそれを観たことでしょう。
世界で初めてカラー映画が実用化されたのは、イギリスのジョージ・アルバート・スミスが発明したキネマカラーという方式で、1909年2月にロンドンで初公開されました。
日本では福宝堂がこの権利を購入し、1913年10月、福宝堂と提携した山川吉太郎が設立した東洋商会がアーバン社製作のキネマカラー作品の上映を開始します。1914年には東洋商会と日活に合流しなかった元福宝堂の人々で、キネマカラー中心の映画会社である天然色活動写真株式会社(天活)を設立し、劇映画としては日本初のカラー作品『義経千本桜』(吉野二郎監督)を製作しました。
しかし、撮影時と上映時に赤と緑の2色の回転するフィルターを用いるこの方式は、不完全なカラーであり、上映するには特製映写機が必要なこと、濃いフィルターを通して映写するために映像が暗くなるという欠陥や、色ズレ、目の疲れ、高いフィルムを大量に使い撮影経費が莫大にかかることなどから数年で消えて行きます。
アメリカで1916年に開発されたテクニカラー方式は被写体の像をプリズムで分解し、赤緑それぞれのフィルターを通した映像を1本のモノクロフィルムに交互に記録するという方式でしたが、この方式を2本のフィルムに記録する形に変え、『十誡』(1923年)、『オペラ座の怪人』(1925年)、『ベン・ハー』(1925年)などのパートカラーとして使用されます。
その後、テクニカラーは、3つに分解して赤青緑各のフィルターを通した画像を別々に3本のモノクロフィルムへ同時に記録し、映写用にその3本を1本に転写してフィルムを作成する方式に改良し、1932年、ウォルト・ディズニー・プロダクション製作のアニメ短編映画『花と木』で初めて使われ、映画も大ヒットしました。
1935年に初の全編テクニカラー長編劇映画『虚栄の市』(ルーベン・マムーリアン監督)が公開され、1937年12月公開のディズニー製作、世界初総天然色長編アニメーション映画『白雪姫』は、全世界で驚異的なヒットを飛ばしました。その後も、『ロビン・フッドの冒険』(1938年)、『オズの魔法使い』(1939年)、『風と共に去りぬ』(1939年)、『ファンタジア』(1940年)、そして数多くのミュージカル映画などハリウッドの名作がテクニカラーで次々と作られ、戦後はじめまでアメリカ、イギリスでは他のカラーシステムを圧倒します。
一方、日本映画界では、日活が設立した大日本天然色映画にて三枝監督短編映画1932年『奇跡の生還』、1937年『千人針』という作品が「上海カラー」と呼ばれていた2色式マルチカラー・プロセスで製作されました。両方ともフィルムは現存しないと言われていましたが、『千人針』は2003年にNHKの番組制作を通じてロシアにその一部のフィルムが残っていることがわかり、2015年国立映画アーカイブによってデジタル復元されます。
映画界では光学的なカラーシステム、テクニカラーの独走態勢が続く中、化学的にフィルム面でカラー画像を作り出す、カラーフィルムと現像技術の革新が起こります。
アメリカのフィルム大手、イーストマン・コダックは1935年、1本のフィルムによる1回の撮影でカラー映画が撮れる世界初の多層外式反転ポジフィルム「コダクローム」そして1942年に内式ネガフィルム「コダカラー」を発売しました。
ヨーロッパでは、1867年にドイツ・ベルリンで作曲家メンデルスゾーンの息子、パウル・メンデルスゾーン・バルトルディとカール・アレクサンダー・フォン・マルティウスの2人が創業した化学薬品メーカーであるアグフアは、1925年にフィルム式カメラの製造販売に乗り出し、コダクローム発売の翌年1936年、現像に複雑な作業を必要としない世界初多層発色内式反転ポジフィルム「アグフアカラー・ノイ」を発売、1939年には内式ネガフィルム「アグファカラーネガフィルム」を販売します。
そして、1940年、「コダクローム」を徹底的に研究した日本の㈱小西六は、コダックの特許を回避する選択露光式現像法を開発し、世界で3番目に外式反転ポジフィルム「さくら天然色フィルム」を発表します。
小西六は、1942年から独自のカラー映画システム「コニカラー・システム」を研究し始め、1944年には満州映画協会にカラーフィルムの研究者を3名派遣し、戦時中にその技術を高めて行きました。
戦後の1950年、輸入カラー映画に圧倒される国内映画産業を救うため、国産のカラー映画技術を確立する「国産天然色映画振興助成法」が国会で可決され、小西六写真工業、富士写真フィルムの両社に各1千万の助成金が交付されます。
これを受け、翌1951年2月、松竹は、富士写真フィルム開発のポジ・ポジ方式のカラーシステムを使って製作した国内初総天然色映画『カルメン故郷に帰る』木下恵介監督・高峰秀子主演を公開しました。
一方の小西六写真工業は天然色フィルムの現像とコニカラー・システムによる映画フィルム現像に対応できる新会社を設立することを決定し、各撮影所に近い調布に翌1951年3月17日「日本色彩映画株式会社」を創立、9月に新社屋と工場を竣工します。
創立当時の日本色彩映画社屋 東映十年史より
そして、1953年11月、東映が小西六のさくら天然色フィルムで撮影した東映初総天然色映画『日輪』を公開します。この作品はオリジナルポジから三色分解ネガを起こし、再度重ね焼き発色現像方式でポジフィルムを量産していく、ポジ・ネガ・ポジ方式で、日本色彩映画にて現像されました。
しかし、この1953年10月、内式ネガ・ポジ方式のイーストマンカラーで撮影され東洋現像所で現像された大映初総天然色映画衣笠貞之助監督『地獄門』は、その色彩が世界的に評価され、翌年のカンヌ国際映画祭のグランプリに輝き、これ以降、国内映画会社はこの方式を次々と採用し、東洋現像所も大きく発展していくのでした。
『日輪』の後、日本色彩映画は、コニカラー撮影機による三色分解ネガからポジをプリントする、テクニカラー・システム類似のコニカラー・システムを完成させましたが、採用したのは、1954年に再び映画製作に復活した日活のみに終わります。
こうして、イーストマンカラーが日本映画界を席巻していく中、1959年、日本色彩映画はコニカラー・システムを断念し、ネガ・ポジ方式を採用することを決めますが、この時点ではまだ小西六のカラーネガの製品化は未だ完成しておらず、自社のフィルムでは対応できないため、他社対応を行うか、白黒のみに限定され、極めて困難な局面を迎えました。
その折、1956年から映画配給収入日本一を続け、映画製作本数の拡大をめざすとともに映像事業の多角化を進め動画映画やテレビ映画を立ち上げた、東映は、同時にテレビの台頭に対応するための経営合理化策として、製作・現像・プリント・配給の一貫体制を確立するべく現像プリント施設を立ち上げる計画を立てていました。
そこで『日輪』で協力しあった、小西六と東映の話し合いが行われ、1959年3月17日、日本色彩映画の小西六への負債を全額東映が肩代わりして、全株式を購入、東映の子会社とする話がまとまり、日本色彩映画の5月28日の株主総会で新経営陣が就任、東映グループ企業として新たなスタートが切られます。
1959年6月15日発行 東映社内報『とうえい』6月号より
東映グループ入りした日本色彩映画は、従来の取引先である、日活・新東宝に加えて、東映の劇映画・テレビ映画・動画・教育映画などの作品の現像プリントによって経常的に受注量が大幅に増え、年度末には創業以来の最高益を上げ、繰越損失を一掃しました。
1960年には第二東映が立ち上がり、劇映画の製作本数は大幅に増加、建物も増築し、新機材も導入、5月末の総会で「東映化学工業株式会社」と改称して、9月末の決算では年1割5分の株主配当も実施するまでに至り、大川博によるラボラトリーのM&Aは大成功し、1961年10月、東証二部に上場(2007年上場廃止)、その後の東映グループを支える企業になりました。
1960年5月20日発行 東映社内報『とうえい』5月号より
その後、一般写真市場にて、小西六は1957年、富士写真フィルムは1958年にネガフィルムを発売すると、お互いライバルとして技術を高めていきます。両社は、経済発展と共に大きく広がった国内の写真需要に対応して規模を拡大、さくらカラーとフジカラーのブランド名で、やがてコダックを圧倒、しのぎを削っていきました。
映画界では、撮影用ネガはイーストマン・コダックが圧倒しますが、やがて、映画用フィルム製造から始まった富士写真フィルムの、改良を重ねたポジがプリント用に使われるようになり、1960年代には映画プリントでは富士の製品が国内市場の大半を占めるようになります。そして、1958年に映画用ネガも完成させた富士は、更なる技術革新によって、1970年代にはネガフィルムでもコダックに対抗する存在として、国内映画会社のみならず海外でも広く使われるようになっていくのでした。