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㉑ 第3章「躍進、躍進 大東映 われらが東映」

第4節「大川博のM&A ラボラトリー前篇」

 「日本映画の父」牧野省三に「1スジ、2ヌケ、3ドウサ」という言葉があります。「スジ」は脚本、「ドウサ」は演技、2の「ヌケ」は現像焼付のことで、「よう写ってな誰も見てくれへん。役者や監督はどんなことしてても、画さえ写っとればちゃんとみてくれる。ということをしょっちゅういってたね。」と長男のマキノ雅弘は語っています。

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「1スジ、2ヌケ、3ドウサ」牧野省三

 映画は、カメラの中のフィルムに塗布された感光乳剤の化学反応を利用して画像を次々と記録するもので、撮影、現像、焼付がうまくできていなかったらせっかくのスジも、ドウサも意味がなくなります。近代科学技術を応用して誕生した映画が、そもそも成り立つかどうかはフィルムの現像、焼付にかかっていたのです。

 当時の現像焼付処理は撮影所内か近場で行われ、カメラマンの責任のもと、画面のヌケの良さがやかましくいわれていました。また、この頃の映画フィルムはすべて輸入に頼っており、国産映画フィルムはまだ誕生していませんでした。また、1889年にコダックが開発したニトロセルロイドベースのナイトレート・フィルムは可燃性で、温度が上がると自然発火するため、撮影所ではよくボヤが起こり、人々の運命を変えて行きました。

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マキノ・プロダクション御室撮影所平面図

 この手作業の現像焼付システムが大きく変わったのは、1930年代に入り、トーキー映画が日本で作られ始めたことに起因します。

 トーキー映画の実用化はアメリカから始まりました。1926年、AT&T傘下のウェスタン・エレクトリック社と映画会社ワーナー・ブラザースが「ヴァイタフォン」社を設立、ディスク録音システム(サウンド・オン・ディスク)の録音再生技術「ヴァイタフォン」を発表します。

 ヴァイタフォンは、フィルムカメラの撮影に連動させた装置でワックス製のディスクへ音声を収録、ここからビニール盤レコードを作成して、それを映画館のフィルム上映に同期再生するシステムでした。

 翌1927年にこのシステムを使った、アル・ジョンソン主演『ジャズ・シンガー』(アラン・クロスランド監督)が大ヒット、これ以降、それまでハリウッド大手から相手にされなかったトーキー映画が一気に広がり、これに続くトーキー映画の成功で、中堅だったワーナーはハリウッド大手に仲間入りすることができたのでした。

 しかし、ウエスタン・エレクトリック社のライバル、ゼネラル・エレクトリック社と傘下のRCAが、フィルム自体に映像と音を同時に記録する可変面積方式フィルム録音システム(サウンド・オン・フィルム)の「RCAフォトフォン」 を開発すると、トーキー映画は映像と音の同期に優れたこの方式に集約されて行きました。

 サウンド・オン・フィルム方式では、音声を電灯の光の強さに変換しその光を使ってフィルムに信号を記録するシステムで、信号記録に2種類の方式があり、可変密度方式はフィルム上の帯の明暗で、可変面積方式では、帯の幅で音声の変化を表すものでした。 

 四大トーキーシステムと呼ばれる、ワーナーの「ヴァイタフォン」はディスク録音システム、フィルム録音システムでは、リー・ド・フォレストが開発した「フォノフィルム」とFox・ケース社の「ムービートーン」は可変密度方式、RCAの「RCAフォトフォン」は可変面積方式、で最終的にRCA可変面積方式フィルム録音システムに軍配が上がりました。

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ハリウッドトーキーシステム史

 アメリカを席巻したトーキー映画が日本に持ち込まれると、幕末の黒船のごとく、日本の映画産業システムに大きな変革の波が訪れたのです。

 これまでの無声映画時代とは違い、セリフや音楽などの音を光の信号に変換してフィルムに記録、それを劇場でクリアに再現するために、より精度の高い現像技術とそのための機材が必要になり、トーキー専門スタジオ映画フィルム専門現像会社が次々と登場してきます。

 1928年大沢商会大澤善夫は、欧米視察から帰国後、ドイツのアグファフィルムを直輸入して販売を始めるとともに、京都太秦天神川傍に現像所建設1933年3月には周りの土地を購入し、トーキー用貸スタジオとして「J・Oスタジオ」を竣工しました。

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J・Oスタヂオ

 1929年、写真乳剤とトーキーの光学録音の機材の研究のため、丸ビルの地下に研究所を設けた、オリエンタル写真工業嘱託植村泰二ら6人は、翌1930年匿名組合写真科学研究所を設立します。1931年には、日本無線の技師・門岡速雄が開発した録音装置の完成に協力、出資組合国産トーキー社を設立し、1932年6月東京株式会社写真科学研究所(P・C・L)創立、両社を吸収してそこに撮影所と現像所を設けました。

 1937年、J・OとP・C・Lは合併し、東宝映画株式会社を設立、それぞれ京都撮影所、東京撮影所となります。

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P・C・Lスタジオ

 1932年7月、イーストマン・コダックのフィルムを輸入販売していた株式会社長瀬商店(現・長瀬産業株式会社)は、京都太秦宇多川沿いに極東フィルム研究所を開設、コダックの指導を受け、映画用フィルムの現像・プリント事業を開始しました。

 1935年2月、極東フィルム研究所は長瀬商店から独立、(株)極東現像所としてスタート。日活太秦撮影所、千恵プロ、入江たか子プロ、第一映画などの現像を受注し、1942年に株式会社東洋現像所に社名変更、戦後太秦時代劇の隆盛と共に成長を遂げ、1986年1月、株式会社IMAGICAに改称、現在はIMAGICA GROUPを形成しています。

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東洋現像所

 1934年1月、写真フィルムのフィルムベースからの一貫生産を目指していた大日本セルロイド株式会社(現・ダイセル化学工業株式会社)は、写真フィルムの国産化が極めて重要と考えた商工省から多額の製造奨励金を受け、写真フィルム事業を独立させ、神奈川県南足柄村に富士写真フィルム株式会社設立しました。

 1934年4月、国産初のフィルムベースから製造した映画用生フィルム富士ポジティブフィルム#150」を発売10月豊島園にあった富士フィルムがレンタル経営する富士スタジオで撮影された、入江プロダクション初のトーキー映画、鈴木重吉監督『雁来紅(かりそめのくちべに)』入江たか子主演(11月22日公開)で使われました。

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1934年11月22日公開 入江ぷろ『雁来紅』鈴木重吉監督・入江たか子主演

 1936年4月には初の映画用「富士ネガティブフィルム#100」を発売し、3月に富士スタジオでクランクインした高田プロダクション製作、村上潤監督『暁の爆音』高田稔主演(4月29日公開)で使用されます。

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1936年4月29日公開 高田プロダクション『暁の爆音』村上潤監督高田稔主演

 1873年、 杉浦六三郎が写真関係商品、石版印刷材料の販売を目的に、東京麹町で立ち上げた小西屋六兵衛店は、1885年、東京市内に工場を設置、写真機、台紙、石版器材の製造を開始しました。1902年には、東京・新宿西口の淀橋(現在その地に「写真工業発祥の地」の記念碑建立)に工場「六桜社」を建設、翌1903年に国産初の印画紙の製造をはじめます。そして、1934年4月、不燃性ダイアセテートのフィルムベースを輸入して「さくら16㎜シネフィルム」を発売、1936年12月に株式会社小西六本店を設立しました。

 その後、戦争中の1942年、小西六、翌1943年、富士フィルムと、国産カラーフィルム開発に向けての研究を始め、戦後、カラーフィルムをめぐって、巨大企業コダックを追いかけながら、しのぎを削っていきます。

 映画会社も、松竹、東宝、戦時中に誕生した大映、戦後復活する日活、そして戦後誕生する東映、各社がまずはカラー映画を主戦場に、先行する洋画に負けじと映画の技術革新に取り組んで行ったのでした。

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 今年7月から始めました東映創立70周年記念「東映行進曲」。お忙しい中、ご覧いただきありがとうございます。日本映画史の中で東映はどのように生まれ育ってきたか、東映をめぐる今まで自分が知らなかった事実を見つけることを喜びとして、毎回楽しみながら書かせていただいております。つきましては次回第4節「大川博のM&A ラボラトリー後編」ですが、お正月1月4日はお休みして、1月11日にアップします。来年もよろしくお願い申し上げます。

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今年もお世話になりました!良いお年をお迎えください。 

 

 

   

映画から始まり、時代の荒波にもまれながらも「何でもあり」の精神で突き進んだ東映娯楽事業の系譜を、創立70周年の節目に振り返ります
㉑ 第3章「躍進、躍進 大東映 われらが東映」|創立70周年特別寄稿『東映行進曲』