⑳ 第3章「躍進、躍進 大東映 われらが東映」
第4節「大川博のM&A 広告業篇」
1956年、「日動映画株式会社」をM&Aして「東映動画株式会社」を設立した大川博は、1957年、「株式会社日本教育テレビ(NET)」(現・テレビ朝日)、1958年には「株式会社東映テレビ・プロダクション」、「株式会社朝日テレビニュース社」(現・テレビ朝日映像)と次々に会社を設立しました。これらの会社は、戦後新しく誕生したテレビ界に、優良な番組を供給する役割を果たし、テレビ産業の拡大とともに大きく発展、東映に長きにわたって貢献して行きます。
NET本放送が始まる前年の1959年9月1日、東映系映画館で「株式会社朝日テレビニュース社」製作の劇場用ニュース映画「東映ニュース」の上映が始まりました。
映画館では、テレビが生まれる前の戦前から、ニュース映画が上映されており、戦時中は国からの指示で、戦況の報告やプロパガンダニュースの上映が義務化されていました。
戦後もすぐにニュース映画の上映が開始され、テレビ放送が始まってからも上映は続き、ニュース映画製作会社6社で「ニュース六社会」を結成、東宝系、松竹系などと住み分けが行われていました。
後進の「東映ニュース」は、「ニュース六社会」に加入が認められず、政治とスポーツ面からは完全にシャットアウトされたため独自の道を歩まねばならず、「明るくて楽しいニュース」「面白くてためになるニュース」をモットーに、ルポや企画ものを中心に製作していくことになりました。
けれども、東映映画人気もあり、1か月後には全国映画館数の約13%にあたる1005館で上映され、開業1年目で1億9千万円の収入を計上しました。
「東映ニュース」は数々の制約を受けながらも、順調に製作をつづけ、なかでも『心の灯』シリーズは他社ニュースと一味違う傑作として好評を博しました。
1961年3月31日発行 東映社内報『とうえい』3月号より
その結果、上映館は日増しに大きく増加し、1961年1月には2044館に達し、発足わずか1年半で全国映画館数の27%を占めるまでに成長、4月1日には念願の「六社会」加入が認められ、そして、6月、フランスのビシーで開催された「ビシー国際ニュース映画祭」で金賞受賞の栄誉を得ました。
1961年6月30日発行 東映社内報『とうえい』6月号より
実は、「東映ニュース」が「六社会」に加入が認められなかった理由に上映料が無料だったことがあります。それが上映館拡大が進んだ理由でもありました。
これを可能にしたのは、大川のM&Aによって誕生した、広告代理店「東映商事株式会社」(現・株式会社東映エージエンシー)の働きがあったからです。
1957年3月13日、後に東映商事となる「株式会社旺映社」を設立した森竹政雄は、これまでになかった「劇場CM」、映写時間30秒から3分程度の劇場上映用の商品宣伝映画の活用を思いつき、広告宣伝代理業の看板を掲げました。
当時、テレビは、企業の宣伝用CMを放送することでお金をもらい、それを基に無料で番組を放送するビジネスモデルを確立していましたが、テレビより歴史が古く、有料興行を前提とする映画では、企業のCMを上映することには抵抗がありました。
そのため、森竹は、各映画会社を回って「劇場CM」のアイデアを提案しますが、戦後企業である東映以外の各社からは拒否されます。
新規事業を積極的に行い始めた大川は、このアイデアに賛意を示し、まずは劇場CM映画の製作を東映で受注することを前提に、拡大しつつある東映直営館で実験することを決め、森竹以下「旺映社」9名の従業員はその他都内の映画館個々に営業してCM上映網の拡大をめざすとともに大手企業スポンサーの確保に奔走しました。
1958年正月から数か月にわたって既存のテレビCMを少数の直営館などで実験的に上映を開始し、上映館に上映料を払いながら、スポンサーにその効果をPRするプロモーションを行った結果、徐々にスポンサーが名乗りを上げ始め、4月に日本天然色映画株式会社製作のバヤリースオレンジジュースの国内初カラーCMが東映専門館を中心とする2百数十館で配給上映されました。
また、これと前後して、森永乳業から「旺映社」が受注し、東映動画に製作発注した国内初の白黒ワイドアニメーション劇場CMが全国350館で上映され、徐々に劇場CMに対するスポンサーの認識も高まっていきます。
これら劇場CMは、東映系の映画館では予告編につないで配給され、その他の映画館では「旺映社」から直送、もしくは転送手配の形で行われました。
このころ、大川博が進めた大型映画「東映スコープ」が順調に軌道に乗り、全国の映画館に普及、これまでのスタンダードサイズの映画は上映されなくなり、映写機もワイド版対応に代わって行きます。
そのため、劇場CMとしてTVCMをそのまま上映することができなくなり、まだ、劇場CMの有効性認識が低いため、ワイドカラーCM映画を有するスポンサーも少なく、小規模の「旺映社」の劇場CM事業は暗礁に乗り上げてしまいました。
1959年正月の年頭あいさつにて、大川は、東映系統館に対するサービスの一環として、ニュース映画に劇場CMを付けることで映画館には料金負担をかけない方式のニュース映画配給構想を発表します。
1959年1月10日発行 東映社内報『とうえい』号外より
すぐさま、大川は資本金200万円の「旺映社」に、600万円を追加出資し、M&Aすることで傘下に収め、6月、「東映シーエムシネマ株式会社」に商号を変更し、更に8月、再度商号を「東映商事株式会社」と変え、大川自ら社長に就任、東映グループとして再出発しました。
そして、大川は、これまで東映のテレビ部テレビ課(動画部営業課吸収)が担当していたテレビCMの製作受注業務を、担当者ごと東映商事に移管し、テレビCMと劇場CMの連携のもと一貫した受注営業活動を推進、営業は東映商事、CM製作は東映動画、ニュース映画製作は朝日テレビニュース、劇場CM配給は東映が担当する体制を構築したのでした。
こうして9月、味の素とフジフィルムの劇場CMが付いた「東映ニュース」が全国の東映系列館で上映され、それとともに、企業にも劇場CMの有効性認識が広がり、東映商事はこの年9月から12月までの間に、劇場CM30本、テレビCMは130本、企業PR映画、2本製作受注し、業績は順調に向上していくのでした。
1959年7月15日発行 東映社内報『とうえい』7月号より
1960年代に入り、日本経済の好景気をうけて産業界も活性化し、商品PRばかりでなく、企業自体のPR映画が必要との機運が高まり、1960年には産業界全体で30億円に達する企業PR映画が製作され、東映商事もそのうちの4本受注し、更にその獲得に向けて12月、PR映画部を新設します。
1961年2月25日発行 東映社内報『とうえい』2月号より
PR映画の需要は増々高まっていく気配があり、大川は1961年の年頭あいさつで「PR映画の製作強化」の方針を掲げ、東映商事を受注窓口に、東西撮影所・教育映画部・動画スタジオ・テレビプロ、また朝日ニュース社など、企画内容によって、それぞれ分担して製作を受け持つ体制を組み、東映グループ一丸となって取り組むことを語り、早速2月に「PR映画製作委員会」が東映本社に設置され、大きな成果を上げて行きました。
1961年1月13日発行 東映社内報『とうえい』号外より
1962年3月15日発行 東映『東映十年史』東映商事より
また、1961年6月、フランスのカンヌで開催された「第8回国際CM映画祭」におきまして、東映商事出品の寿屋(現・サントリー)TVCMが佳作に選ばれました。
大川のM&Aで始まった東映商事は、数年の間に質、量とも充実し、今日に至るまでの基礎が築かれ、1969年には、総合広告代理店「株式会社東映エージェンシー」と商号変更しました。
「第8回カンヌ国際CM映画祭」佳作入賞「寿屋」CM(東映十年史より)