⑲ 第3章「躍進、躍進 大東映 われらが東映」
第3節「映画各社と日本のアニメ 東映動画篇」
1921年、北山清太郎が創設した北山映画製作所で漫画映画の制作を学んだ山本早苗は、1925年に「山本漫画製作所」を設立、教育映画や宣伝映画、ニュース映画など様々な短編漫画映画を受注、少人数で堅実に制作を続けていました。
終戦直後の1945年、東宝航空資料製作所にいた山本は、GHQに交渉して支援を取り付け、9月末に松竹を退社した政岡憲三らとともに、10月、「新日本動画社」を立ち上げ、翌11月には村田安司らも参加、およそ100人のアニメーターが集まり、名称を「日本漫画映画株式会社」に変えます。
1947年8月、山本、政岡の二人は考え方の違いから日本漫画映画を脱退し、薮下泰司、森康二らとともに「日本動画株式会社」を設立、山本がかつて所属していた、当時の教育映画製作大手、元東宝航空資料製作所の東宝教育映画部と提携し政岡憲三演出『すて猫トラちゃん』など短編アニメーションを製作しました。
しかし、日本動画の経営は厳しく、給料も遅配するようになり、1949年4月、政岡憲三は退社して漫画家として再出発し、以後アニメ業界に戻ることはありませんでした。
一方、終戦間際の空襲で、松竹本社が爆撃を受け被災、松竹動画研究所は解散に至り、その後、大船撮影所の演出部に転属した瀬尾光世は、1948年1月、村田の日本漫画映画株式会社に入社し、翌1949年10月、多大な制作費をかけて『王様のしっぽ』を完成しますが、東宝から左翼的作品として公開をキャンセルされ、それが原因で日本漫画映画株式会社は倒産、瀬尾光世も動画制作から離れ、挿絵画家に転向してしまいます。
戦前、戦中の漫画映画界で活躍した、政岡憲三と瀬尾光世。戦後の厳しい製作環境の中、1949年、二人ともに漫画映画制作を断念したのでした。
また、1948年、第3次東宝争議の結果、東宝教育映画部は解散、分離独立して「東宝教育映画株式会社」が設立されます。その後この会社は「東宝図解映画社」と改称しましたが、1952年5月、業績悪化で倒産にいたりました。ここにおいて、戦時中に漫画映画製作に力を注いだ、大手映画会社、松竹、東宝、二社ともに、収益が見込めない漫画映画製作から撤退したのでした。
山本早苗の日本動画は倒産した東宝図解映画社を買い取り、「日動映画株式会社」と名前を変えましたが、厳しい経営状況は変わりませんでした。
1962年『東映十年史』より
戦後誕生した東映を率いる大川博は、1953年の欧米視察で、テレビ事業の可能性、そこにおける番組制作、CM制作の重要性を知り、また、視聴覚教育の必要性を感じていました。
大川は、映画事業に光明が見え、経営が安定し始めた1954年から積極的に今後に向けた事業展開に乗り出し、まずは今後拡大が見込める国や自治体の視聴覚教育予算獲得を目指し、教育映画製作に手を付けます。
そして、教育映画の一ジャンルとして見られていた漫画映画に出会い、1955年3月、漫画映画に対する需要の増加、テレビの普及に伴うテレビ漫画、コマーシャルフィルムの必要性を見越し、「漫画映画自主製作委員会」を立ち上げました。1956年1月本格的に漫画映画事業に参入するため「漫画映画製作研究委員会」とし、実務担当委員として当時、教育映画部企画製作課長の赤川孝一と営業部営業課長で今田智憲を任命しました。
後日、東映動画社長になる、劇映画営業担当の今田智憲は、委員会において、短編、中編漫画映画製作を進める教育映画部と異なり、映画劇場用総天然色長編漫画映画の製作を進め、東映は「東洋のディズニー」を目指すべきことや、ディズニーを始めとするアメリカの長編アニメ製作会社と提携し、その最先端技術を導入すること、関連商品販売、テーマパーク運営など幅広い事業展開を図っていくことを提案しました。
そして大川は、教育映画部提案の短編・中編漫画映画製作とともに日本初総天然色長編漫画映画をつくることを決め、今田が山本早苗の日動映画株式会社と話を進める中で、日動をM&A、新会社および新スタジオ設立、東映の漫画映画事業への本格参入の話が進んでいきます。
漫画映画製作に乗り出すことを決めた東映は、1956年8月1日、日動映画を傘下に吸収し、東洋のディズニーを目指す、大川博を初代社長とし「東映動画株式会社」の創設に至ります。
1956年8月15日発行 東映「社報」第42号より
1957年1月9日、東京練馬の東映東京撮影所に隣接して東映動画スタジオを竣工、ディズニー方式の本格的マルチプレーンカメラなど最新技術機材が導入され、早速、映画製作が開始されました。
1957年1月25日発行 東映「社報」第46号より
新築のスタジオ玄関前に立つ初代東映動画社長大川博
そして、この新しいスタジオで、山本早苗が企画を担当し、第1作・薮下泰司演出・森康二原画『こねこのらくがき』、第2作・児童漫画家花野原芳明演出『かっぱのぱあ太郎』、第3作・挿絵画家蕗谷虹児演出『夢見童子』と短編漫画映画を次々と製作、併せて、設立当初から取り組んでいた日本初総天然色長編漫画映画「白蛇伝」の完成に向けて、スタジオの総力を傾け邁進しました。
1958年4月公開 東映教育映画『夢見童子』 蕗谷虹児・構成・原画
1958年10月21日、ついに日本最初の総天然色長編漫画映画『白蛇伝』が公開されます。56年4月2日から製作に取り掛かり、完成したのが58年9月3日、製作におよそ2年と5か月かけて作画枚数21万4154枚という、これまで日本の漫画映画史上類を見ない作品であり、声の出演は森繁久彌と宮城まり子の二人だけで、それぞれが何役も務めました。
『白蛇伝』公開後、大きな反響を呼び、世界各地に輸出され、「ヴェネチア国際児童映画祭」特別賞を始め、国内外で数々の賞を受賞します。この作品で漫画映画界での東映動画の評価が高まり、1959年『少年猿飛佐助』、1960年『西遊記』と、東洋の物語を主題に総天然色長編漫画映画の製作を続けることで、「東洋のディズニー」を目指して歩み始めるのでした。
1958年10月公開 薮下泰司演出『白蛇伝』声・森繁久彌、宮城まり子
『少年猿飛佐助』は、前年にストーリーは違いましたが、東映京都撮影所にて河野寿一監督・中村賀津雄主演で製作されており、今回のアニメ版では真田幸村の声を中村が務めました。
1959年12月公開 薮下泰司演出『少年猿飛佐助』声・宮崎照男
1960年8月公開の『西遊記』は、手塚治虫『ぼくのそんごくう』が原作で、漫画映画に興味があった手塚が、嘱託として参加、構成を担当、手塚の弟子の月岡貞夫がキャラクターデザインに参加し、石ノ森章太郎も企画段階で手塚に協力しました。
この映画に参加し、漫画動画の制作を経験した手塚は後に、「虫プロダクション」を設立、テレビ漫画『鉄腕アトム』を作り、日本のテレビ漫画製作の草分けとなります。
1960年8月公開 手塚治虫原作・薮下泰司演出『西遊記』声・小宮山清
大川博が東映動画を作るにあたり、もう一つの収益の柱として考えていたテレビCMの製作は設立1年目の1957年219本、58年246本、59年331本と順調に推移し、東映動画の経営を支えて行きました。
大川博は、資本を投下して、ベテランスタッフがそろった日動映画をM&Aし、さらに最新設備を整え、施設も拡大して行くことで、設立当初35人だった社員数も57年109人、59年270人と順調に増加、これまで家内制手工業だった漫画映画産業を工場制手工業に変えました。
『白蛇伝』オープニング映像にて思いを語る初代東映動画社長大川博