⑱ 第3章「躍進、躍進 大東映 われらが東映」
第3節「映画各社と日本のアニメ 戦前編」
世界中に猛威を振るうコロナ禍の中、東映のグループ会社東映アニメーションの海外映像部門は、2021年度、上期として売上の過去最高額を更新、まさに世界に羽ばたく日本アニメの旗頭であり、グループ全体を支える会社に成長しました。
今節は、大川博が作った東映動画株式会社、その誕生にいたるまでの日本のアニメ制作の流れと映画界のかかわりを振り返ります。
日本のアニメーションは1917年(大正6年)、三人の絵描きが別々に作った、当時線画映画とも呼ばれていた、漫画映画から始まります。
1910年(明治43年)に日本で公開された、フランスのエミール・コールが作った『凸坊新畫帖 』と名つけられた漫画映画シリーズは、その後爆発的な人気を集め、日本映画界でも漫画映画を作ろうという機運が高まってきました。
下川凹天(しもかわ おうてん)
天然色活動写真株式会社(天活)は、日本初漫画専門雑誌『東京パック』を創刊した風刺漫画家北澤楽天に相談、その門下生の下川凹天が制作することになり、撮影所で苦労を重ねてできた作品『凸坊新畫帖 芋助猪狩の巻(でこぼうしんがちょう いもすけいのししがりのまき)』、1917年1月に公開され、これが日本初のアニメ作品と言われています。下川はしばらく天活で漫画映画を作りますが、撮影時に目を傷めて元の漫画家に戻りました。
北山清太郎(きたやま せいたろう)
同じ頃、洋画を研究し、美術雑誌『現代の洋画』を発行していた水彩画家、北山清太郎は漫画映画に興味を持ち、1916年、日活向島撮影所に嘱託として入所、漫画映画制作にとりかかり、後で始めた下川に4か月ほど遅れる1917年5月に『猿と蟹』を公開、評判を呼び、続いて『桃太郎』『一寸法師』『雪達磨』などの作品を量産していきます。
これらの作品を見た逓信省貯金局は漫画映画を使って貯蓄増進を宣伝することを考え、北山に発注、『貯金の勧め』は日本初の宣伝用漫画映画になりました。
北山は日活で漫画映画を作るとともに、無声映画のタイトル字幕を制作しており、やがて各社からの受注が増え、1921年独立して日本初漫画映画製作プロダクション「北山映画製作所」を設立します。しかし、関東大震災で被災した北山は、大阪へ行き大毎キネマニュースに職を変え、以降、漫画映画の世界から離れてしまいます。
幸内純一(こううち じゅんいち)
太平洋洋画研究所で洋画を学び、北澤楽天の『東京パック』に入社した幸内純一は、天活を退職した小林喜三郎の小林商会に引き抜かれて漫画映画制作に取り組み、1917年6月『塙凹内名刀の巻(はなわへこないめいとうのまき)』(別名『なまくら刀』)を公開、評判を呼び、これに続いて幸内は2本の漫画映画を制作しますが、翌1918年、小林商店が倒産したため、毎夕新聞の漫画書きに戻りました。
1922年、当時東京市の市長だった後藤新平の伝記を漫画映画で制作する話が舞い込み、早速、自宅で制作に取り掛かった幸内は、翌1923年には「スミカズ映画創作社」を設立、この作品が完成し一般公開すると、話題となり、そこから、次々と好条件で政党PR用宣伝漫画映画の発注がきます。
1930年、レコードに合わせて作画する、レコードトーキー漫画映画『ちょん切れ蛇』を製作、一般公開しますが、幸内はその後、再び風刺漫画家に戻り、漫画映画界から離れてしまいました。
こうして、日本のアニメを始めて制作した三人の作家は漫画映画の世界から去っていきましたが、「スミカズ映画創作社」と「北山映画製作所」から、彼らに続いて日本のアニメ制作を担い、戦後につないでいくアニメーターが誕生します。
大藤信郎(おおふじ のぶろう)
「スミカズ映画創作社」で一通りの動画制作技術を学んだ大藤信郎は、1921年、自宅で「自由映画研究所」を立ち上げ、切り紙を使った動画制作に着手、試行錯誤の後、千代紙を使った作品作りを始めて、1926年7月『馬具田城の盗賊』、10月『孫悟空物語』を公開、独特の千代紙映画は大きな話題を呼びました。
1927年、大藤は会社名を「千代紙映画社」と変え、新たに影絵映画に取り組み、年末に『鯨』を発表して話題を集め、1929年、日本初のレコードトーキー『黒ニャゴ』『こがねの花』を製作します。
1929年 千代紙映画社『こがねの花』大藤信郎
大藤信郎は、切り紙、千代紙、影絵、セル画、色セロファンなど色々な素材を使って様々な技法にチャレンジし、一貫して個人で制作した動画は、国内外の高い評価を得て、戦前戦後を通じ、日本アニメ界を代表する芸術作家として活躍しました。
山本早苗(やまもと さなえ・戸田早苗・山本善次郎)
山本早苗は1917年、日活向島撮影所で漫画映画制作を始めた北山清太郎に誘われ師事、1921年には北山が独立創設した「北山映画製作所」に参加、1924年1月公開『教育お伽漫画 兎と亀』の作画・演出を担当し、翌1925年「山本漫画映画製作所」(東京漫画倶楽部)を設立、第1回作品『教育線画 姥捨山』を公開、その後も官公庁からの教育映画の委託製作などをコンスタントに受注し、堅実に漫画映画の制作を続けて行きます。
1924年 ナカジマ活動写真部『教育お伽漫画 兎と亀』山本早苗
1925年 山本映画製作所『教育線画 姥捨山』山本早苗
村田安司(むらた やすじ)
山本早苗と幼友達の村田安司は、震災を機にそれまで働いていた松竹から、1926年、アメリカ帰りの佐伯永輔が1923年に創業した、まだ小さな横浜シネマ商会に移り、タイトル書きを担当しながら、そこで作られていた漫画映画に興味を持ち、山本から、背景を書いた紙の上に、切り抜いた動かす絵を置いて撮影していく切り抜きアニメ手法を学び、試行錯誤を重ねて、1927年、初作品『猿蟹合戦』、続いて『蛸の骨』『文福茶釜』『動物オリムピック』『月の宮の王女様』など次々と制作し、切り抜きアニメの技を磨いていきます。
1927年 横浜シネマ商会『蛸の骨』村田安司作画
1937年、村田は、横浜シネマを退社、「村田映画製作所」を設立して漫画映画から一般映画の世界に移りましたが、1941年、会社が戦時統合により「日本映画社」に吸収され、美術課長として終戦を迎えました。
政岡憲三(まさおか けんぞう)
後に「日本アニメーションの父」と呼ばれる政岡憲三は、京都市立美術工芸学校絵画科卒業後、東京の黒田清輝の下などで洋画を学び、1925年マキノ・プロダクションに入社して美術周りや俳優の仕事を行っていましたが、1929年、日活太秦撮影所に移籍し、日活の出資を得て、漫画映画の製作に乗り出し、1930年、第1作『難船ス物語 大壱篇 猿ヶ嶋』を日活で公開します。
1930年 日活太秦漫画映画部『難船ス物語 大壱篇 猿ヶ嶋』政岡憲三
1932年に「政岡映画製作所」を設立、松竹・城戸四郎の支援を取り付け、翌1933年、松竹開発の土橋式トーキーによる漫画映画『力と女の世の中』を公開、年末には下鴨に新スタジオを建設し「政岡映画美術研究所」と改称しました。
政岡はそこで、高価なセル画を大量に使用して美しくなめらかな動きを作り出すことができましたが、それによって赤字が膨らみ、1935年、研究所は倒産してスタジオを離れますが、しばらくしてJ.O.スタヂオ『かぐや姫』田中喜次監督・円谷英二撮影の中で人形アニメーションに取り組みます。
1935年 J.O.スタヂオ『かぐや姫』田中喜次監督・円谷英二撮影
1939年、戦時色が強まる中、政岡は松竹の協力で「日本動画研究所」を設立し、翌年「日本映画科学研究所」(後に電通映画社に吸収)に改称、1941年にはそこを離れて、松竹が作った松竹動画研究所に製作課長として入社し、1943年日本初フルセルアニメ『くもとちゅうりっぷ』を製作公開しました。
1943年 松竹動画研究所『くもとちゅうりっぷ』政岡憲三監督
瀬尾光世(せお みつよ)
政岡映画製作所に入所してきた瀬尾光世はそこでアニメーターとして手伝いながらセル画制作などの技術を学び、翌1933年独立、東京で「日本漫画フィルム研究所」と専属提携して「瀬尾発声漫画映画研究所」を創立、第1回作品『お猿三吉 防空戦の巻』を公開しました。
『のらくろ二等兵』『のらくろ上一等兵』と制作の後、1938年、日本漫画フィルム研究所との専属提携を解消し、これを機会に「瀬尾プロダクション」を設立、記録映画プロダクションの芸術映画社と契約、『のらくろ虎退治』『テク助物語 日の丸旗之助 山賊退治』を制作します。
1940年、芸術映画社に吸収され、1943年、そこで海軍省から日本初の中編漫画映画『桃太郎の海鷲』を受注し、公開されると海軍省から高い評価を得て、多くの観客を集めました。
1943年3月公開 芸術映画社『桃太郎の海鷲』瀬尾光世監督
同年、芸術映画社が戦時統合によって朝日映画社に吸収され、瀬尾は政岡が製作課長の松竹動画研究所に入所、まもなく松竹は海軍省から大作の発注を受け、瀬尾は『桃太郎・海の神兵』の制作に入り、終戦間近の1945年3月、公開され、この本格的長編漫画映画は戦後アニメ界を支えることになるクリエーターたちに大いなる影響を与えるのです。
1945年4月公開 松竹動画研究所『桃太郎・海の神兵』瀬尾光世監督
田中喜次(たなか よしつぐ)
帝国キネマ技術部を退職した田中喜次は1929年、同志社大学の学生を中心としたアマチュアの映画グループ「童映社」や京都影絵座に参加し、1930年、日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)京都支部の協力を得て、影絵動画『煙突屋ペロー』を製作しました。
田中は1933年、大澤善夫が京都で新設したJ.O.スタヂオに大澤を説得してトーキー漫画部を作らせ入社し、そこで本格的トーキー漫画映画オモチャ箱シリーズ第1話『特急艦隊』第2話『黒猫万歳』などを次々と作画、1935年、政岡憲三が人形アニメのパートに参加した『かぐや姫』を演出した後の1936年、J.O.スタヂオ漫画部が閉鎖されると実写映画の監督に転向、主に記録映画で活躍し、戦後は電通映画社映画部の部長を務めました。
1934年1月公開 J.O.トーキー漫画部『黒猫萬歳』田中喜次作画
大石郁夫(おおいし いくお)
1918年、黒田清輝の画塾で学んだ16才の大石郁雄は、森永製菓ミルクチョコレート宣伝用漫画映画の注文を受け、『兎と亀』を制作、蒲田の自宅アトリエに「大石光彩映画」(後、大石郁プロダクションに改称)を設立します。
そこで、近所にある松竹蒲田撮影所のタイトル字幕や線画制作を受注していましたが、1929年、大石郁名義で『ふたつの太陽』を作ると、そこから本格的に漫画動画の制作に取り組み、1930年、松竹から離れ、「大石線画研究所」(2年後、大石光彩社に改名)を創設します。
1933年、P.C.L.映画製作所設立、専務に迎えられた松竹蒲田の技師長・増谷麟は「大石光彩社」をスタッフごと吸収して漫画映画製作に乗り出し、本格的オールトーキー漫画映画『動絵狐狸達引』(うごきえこりのたてひき)を公開しました。
1933年12月公開 P.C.L漫画部『動絵狐狸達引』大石郁夫作画
1937年、東宝映画ができると大石は、「漫画映画係」係長に就任、大石のスタジオも東宝映画東京撮影所の一部となり、数々の統制を受け、少しでも娯楽映画を供給するためにも、軍事協力の文化映画を重視した東宝は漫画映画よりも図解や線画に集中し、大石も脚本家、演出家として各省庁や軍部の教材映画に精力を傾けます。
この年大石が応召で中国戦線に赴任中、円谷英二が東京撮影所の「特殊技術課」課長に迎えられ、、不在中の大石の係も担当、1939年、大石の復員後、二人はお互いを良きライバルとして切磋琢磨、しのぎを削りますが、1944年、大石は教材映画取材で南方戦線を視察の帰路に爆撃を受けて戦死、享年42才の早すぎる死を迎えました。
日本の漫画映画は、これまで、個人の集まりによる家内手工業的に作られていましたが、戦争が激しくなっていくとともに、官公庁や軍部からの需要が高まり、松竹、東宝、大手映画会社が本格的に取り組んでいったことで、動画制作技術の革新と集団的制作体制が進んでいったのでした。