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⑰ 第3章「躍進、躍進 大東映 われらが東映」

第2節「大川博の基盤作り 東映テレビ事業編」

 1953年2月1日にNHKがテレビ放送を開始して以来、テレビの普及台数は順調に伸び、わずか5年後の1958年には100万台を超え、その後加速度的に増加、1960年夏には500万台を突破しました。

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1962年発行 『東映十年史』より

 アメリカ訪問以来、日本でもいずれテレビの時代が来ると確信していた大川博は、1956年7月の賞与授与式にて、「テレビと我が社の方針」として「テレビと映画との一元的経営、企画の一元化、殊に俳優、スタジオ運営の一元化」を試みたいと語ります。

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1956年7月10日発行 東映『社報』号外より
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1956年7月10日発行 東映『社報』号外より

 この方針のもと、1957年11月1日に、大川東映「国際テレビ」、旺文社「日本教育放送」、日本経済新聞社「日本短波放送」等の出資によって「日本教育テレビ」(NET)が1959年初めの開局をめざして設立されると、1958年5月1日、大川は、東映本社の組織を改編、企画調査室を廃して開発部を新設し、そこにテレビ番組の企画制作を行うためにテレビ課を設けました。

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1958年5月15日発行 東映『社報』第59号より
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1958年5月15日発行 東映『社報』第59号より

 そして7月1日には、「テレビと映画との一元的経営、企画の一元化、殊に俳優、スタジオ運営の一元化」を目的として、テレビ番組専門制作プロダクション「株式会社東映テレビ・プロダクション」と「東映児童演劇研修所」を設立します。

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1958年7月10日発行 東映『社報』第60号より

 テレビ・プロ創設に対応して、8月6日、本社開発部テレビ課を、テレビ企画立案とテレビプロでの製作を行うテレビ企画課、テレビ局への受注営業と社内調整を担当するテレビ営業課、と二つの課に分けました。

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1958年8月15日発行 東映『社報』第61号より

 東映テレビ・プロダクションは10月から製作活動に入り、京都撮影所にて、東映娯楽版で大人気だった『紅孔雀』のスピンアウト作品、東映テレビ第1作・目黒ユウキ主演『風小僧』シリーズ、東京撮影所にて、人気映画『にっぽんGメン』や『警視庁物語』の流れをくむ、東映刑事ドラマ第1作捜査本部』シリーズが作られ、まだこの時点ではNET誕生前のため、『風小僧』は12月2日に高松の西日本放送から、『捜査本部』は12月27日に名古屋の東海テレビから、先行放送され、いずれも好評を博し、ここから東映テレビ映画制作の歴史が始まるのでした。

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1958年『風小僧』 目黒ユウキ(左) 五味勝之介(龍太郎)(右)
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『風小僧』プレスシート
捜査本部
1958年『捜査本部』 石島房太郎(左)香山光子(中)波島進(右)
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『捜査本部』プレスシート
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1959年3月15日発行 東映『社報』68号より

 12月に東京撮影所で2棟のテレビ専用ステージを新設した大川博は、NETの本放送が2月から始まることを受けて、1959年の年頭あいさつで、「テレビとの協力体制の強化」、テレビドラマの制作本数増加を目指すことを発表します。

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1959年1月15日発行 東映社内報『とうえい』1月号 社長あいさつより

 そして大川は、1月31日、テレビ映画の制作本数増加に必要であるテレビ企画の強化を図り、本社開発部からテレビ企画課、テレビ営業課を独立させ、新たにテレビ部新設します。

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1959年2月23日発行 東映『社報』第67号より
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1959年2月23日発行 東映『社報』第67号より
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1959年2月23日発行 東映『社報』第67号より

 「テレビと映画との一元的経営、スタジオ運営の一元化」を目指すとともに東映の劇場配給網とは別の配給網設立を考えていた大川博は、その系統館を獲得するための準備工作として、テレビ映画の劇場公開を図りました。

 1月9日、「株式会社東映テレビ・プロダクション」は撮影所に東京製作所・京都製作所を置き、14日には職制及び業務分掌を制定します。

 2月5日に商号を「東映テレビ映画株式会社」に変えると、14日には業務分掌にテレビ映画の劇場配給業務を加え営業部新設各支社にテレビ映画配給のための営業所を設けました。

 その上で、東映テレビ映画は、好評のテレビ放送2話分を編集しなおして1時間程度の作品に改め、これを「東映特別娯楽版」と名づけ、『風小僧』は、テレビ放送後3か月経た4月28日、『捜査本部』は7月21日に劇場公開します。

 5月8日には再度商号を変更、「第二東映株式会社」とすると、翌1960年から本格的に劇場用映画製作配給に乗り出していくのでした。

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1959年2月23日発行 東映『社報』第67号より
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1959年2月23日発行 東映『社報』第67号より
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1959年2月23日発行 東映『社報』第67号より

 「第二東映株式会社」を本格的に劇映画製作配給会社にシフトさせようと考えた大川は、1959年11月、新たに以前と同一社名の「株式会社東映テレビ・プロダクション」を創設し、「第二東映」からテレビ映画製作業務を移管、また、これを機会に、テレビ企画業務を本社テレビ部からテレビプロに移すとともに時代劇を含むテレビ映画製作東京に集中させることを決定します。

 その結果、京都撮影所で製作中だった『日本歴史シリーズ』『幕末物語 勝海舟』編は12月16日から東京撮影所に移りました。

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1959年11月16日発行 東映『社報」第76号より
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1959年11月16日発行 東映『社報」第76号より
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1959年11月20日発行 東映社内報『とうえい』11月号より

 テレビ制作が集中する東京撮影所は、これまでテレビ専用だったNO.1・2を劇場映画用に、12月30日竣工のNO.11・12を新たにテレビ専用ステージとするとともに、向かい側の土地に時代劇撮影を行うためのオープンセットを作ります。

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1960年2月15日発行 東映社内報『とうえい』2月号より

 時代劇に必要な殺陣を学ぶために、京都から移籍の三島良二を中心に「剣の会」も結成され、1月6日、新ステージにて、『日本歴史シリーズ 幕末物語 勝海舟』の撮影が始まりました。

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1960年1月20日発行 東映社内報『とうえい』1月号より

 また、1961年6月に、2つの新ステージ(NO.15・16)が建設され、これまでの2ステージ(NO.11・12)と合わせて4つのステージを使ってテレビ映画撮影が行われるようになります。 

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東映テレビ関連出来事まとめ

 東映の作るテレビ作品は、NETが教育専門局ということもあり、主に子供を対象として企画され、劇映画と同じように「ご家族そろって楽しめる」カラーが打ち出されました。

 京撮では、NETが開局したことで増々人気が高まった『風小僧』に引き続き、1960年正月から放送開始の『白馬童子』で、山城新伍が子供たちのヒーローとなります。

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『白馬童子』山城新伍
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1960年6月20日発行 東映社内報『とうえい』6月号より

 東撮では、先にKRテレビで大ヒットした宣弘社『月光仮面』の原作者川内康範に原作脚本をお願いし、波島進主演で『七色仮面』を作り、NETで放送するとヒットしました。

 引き続き製作した『新七色仮面』、同じく川内原作『アラーの使者』も子供たちの人気を集め、主演の千葉真一による、これまでにない華麗なアクションはちびっこを魅了し、その後大スターになる千葉は、仮面ライダーや戦隊シリーズなどの特撮出身スターのパイオニアと言えるでしょう。

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『アラーの使者』千葉真一

 こうして、大川博の方針で、東映は劇場用映画だけでなくテレビ映画製作にも本格的に取り組み、テレビの発展とともにテレビ事業の売り上げはどんどん拡大し、東映の主要事業になっていくのでした。






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