見出し画像

⑯ 第3章「躍進、躍進 大東映 われらが東映」

第2節「大川博の基盤作り テレビ局編」

 1953年、大川博は新年のあいさつの中で、2月NHK8月日本テレビテレビ放送開始することをふまえて、今年度の経営方針発表の最後に、「テレビジョンの開始による製作会社との提携問題の研究」という項目を掲げました。

画像2

 1953年1月30日発行 東映「社報」第11号より

 そして、その年4月にマキノ満男を伴い研究のために2か月ほどかけて欧米映画業界の現状視察を行いました。

 米国で大川が一番驚いたのは、テレビが普及し映画界が大きな打撃を受けていたという事実で、いずれ日本にもテレビ時代が来ることを確信した大川は、帰国後、テレビについて諸検討をはじめます。

 1956年2月、駐留軍が使用していたテレビ・チャンネルが返還される見通しがつき、郵政省から、東京地区に新たにNHK教育テレビと2つの民間テレビ局、一つは総合番組局、もう一つは教育専門局が開設されることが発表されました。

 これを受けて、これまでテレビ事業について検討を重ねていた大川は、いち早く具体的計画を整え、東急グループ総帥五島慶太の支援をバックに、1956年6月7日、「国際テレビ放送株式会社」の名称で郵政大臣に対して教育専門テレビ局開設の免許申請を行います。 

画像1

 1956年8月15日発行 東映「社報」第42号より

 教育専門とする第10チャンネルには、6月7日の東映をはじめとして、6月30日、新聞、ラジオ、テレビの一体となった総合ジャーナリズムを目指す日本経済新聞社が1954年開局の「日本短波放送(ラジオたんぱ)」を窓口に申請、9月28日、出版界をバックにした旺文社赤尾好夫が「日本教育放送」、翌1957年、日活「日活国際テレビ放送」、新東宝「富士テレビ放送」他、計9社が許可申請を提出しました。

 そして度重なる話し合いの結果を経て、ようやく7月4日に「東京教育テレビ」のもとに申請を統合、翌日、無線局免許申請書を郵政省に提出し、8日に予備免許を獲得します。 

 その出資額は、「国際テレビ放送」系1億8千万(東映1億4千万・日活・新東宝・洋画輸入会社を主とする極東テレビ・洋画配給会社を主とする太平洋テレビ・各1千万)、「日本短波放送」系1億8千万(日本短波放送1億3千万・東京テレビ5千万)、「日本教育放送」系1億8千万(旺文社1億8千万)、「国民テレビ」6千万、合計6億円でした。

画像3

画像4

画像5

1957年8月10日発行 東映『社報』第51号より

 1957年10月10日、発起人総会が開かれ、商号を「株式会社日本教育テレビ」(NET)と改称、引き続いての取締役会で代表取締役会長大川博代表取締役社長赤尾好夫が就任し、11月1日に設立登記が完了します。

画像6

 1957年11月1日発行 東映「社報」第54号より

 その後、本放送開始を目指し、本社社屋の建設やテレビスタッフの育成など様々な準備を行い、1959年1月9日、本免許状が交付、2月1日から本放送開始されました。

 もう一つの新総合番組局である第8チャンネルは、民放ラジオ局としての経営実績を基礎に早くからテレビ放送免許獲得運動を積極的に展開していた文化放送ニッポン放送の連携を軸に、東宝大映松竹などの映画資本が加わる形で申請を統一、「株式会社富士テレビジョン」として予備免許が交付され、1959年3月1日開局しました。

 また、新局開設にあたり、既存のテレビ局もあわせて、電波送信所としてパリのエッフェル塔を超える都市のシンボルとなる新テレビ塔を建設することが決まります。

 1957年5月、日本電波塔株式会社(前田久吉社長)が設立され、翌1958年12月に東京タワーが竣工すると、1959年1月10日・NHK教育テレビジョン、2月1日・日本教育テレビ、3月1日・フジテレビジョンが次々と放送を開始しました。

 この東京タワーにも大川博は深く関与し、出資会社として東映日本電波塔株式会社(現・株式会社TOKYO TOWER)の設立に参加します。

画像9
 「楽しい教育番組、ためになる娯楽番組」をキャッチフレーズに放送を開始した日本教育テレビはその前提が足かせとなり、視聴率も振るわず、スポンサーも付きにくかったため、経営がピンチを迎えます。

 そこで東映の業績改善に成功した大川博1960年11月30日日本教育テレビ代表取締役社長就任し、同時に局の呼称を「NETテレビ」と改めました。

 大川はこれまで東急電鉄や東映などの事業で培ってきた経営ノウハウを放送事業に活用し、まずは「教育」という堅いイメージの名前から親しみやすい名前に呼び方を変えることから手を付けたのでした。

 そして東映で行ったように全社を挙げて3か月にわたる業績向上運動に取り組み、テレビ受像機の爆発的な普及、岩戸景気と呼ばれる好景気もあり、NETテレビの業績は急拡大して行くのです。

 1964年11月、大川はNET社長を退任し、その後、1965年3月末にメインバンク住友銀行OBの山内直元が社長に就任すると、東映所有NET株のうち半分を譲り受けていた朝日新聞社が経営に参入します。

 朝日新聞社東映と1958年11月13日、日本教育テレビの報道ニュースや東映系映画館で上映する東映ニュースを制作する目的で、半分ずつ出資して大川博社長を務める「株式会社朝日テレビニュース社」を設立していました。

 日本教育テレビ現・テレビ朝日)の設立時点では、東映の他、旺文社日本短波放送日本経済新聞社)などが大株主で朝日新聞社は資本参加していませんでしたが、朝日新聞社はこの会社を通じてニュースを提供することでNETと関係を持っていたのでした。

画像9

 1958年12月10日発行 東映社内報「とうえい」12月号より

 その後、努力を重ね、NETは1973年11月に教育専門局から念願の総合番組局へと変わり、1974年5月、朝日新聞社は所有の東京12チャンネル株と日本経済新聞社が持つNET株との交換で持株を増やし、NETの筆頭株主となります。

 これによって、その前に行われていた株式交換により成立した「読売新聞社・日本テレビ」、「毎日新聞社・TBS」、「産経新聞社・フジテレビ」に、「朝日新聞社・NET」、「日本経済新聞社・東京12チャンネル」が加わり、有力全国紙5社と在京テレビ局の資本関係が明確になりました。

 1977年4月、NETは名称を「全国朝日放送株式会社(ANB)」と変更、愛称をテレビ朝日するとともに、朝日テレビニュース社もテレビ朝日映像株式会社と名前を変え、1978年8月1日にはこれまで続けてきたニュース報道部門がテレビ朝日報道局に一本化されました。

 大川博がいち早く取り組んだテレビ事業は、東映の躍進に大きく貢献し、経営を支える基盤となったのです。

画像10

テレビ出演時、東映の俳優陣に拍手で迎えられる大川博 

 

 

 

 



 

映画から始まり、時代の荒波にもまれながらも「何でもあり」の精神で突き進んだ東映娯楽事業の系譜を、創立70周年の節目に振り返ります
⑯ 第3章「躍進、躍進 大東映 われらが東映」|創立70周年特別寄稿『東映行進曲』