⑤ 第1章 「風雲!東映誕生」
第3節「電鉄と映画撮影所 小林一三と五島慶太 前編」
1908年4月目黒行人坂に吉沢商店によって日本で初めて映画撮影所が誕生して以来、これまで数多くの映画撮影所が誕生しました。
1918年兵庫県西宮市の甲陽地区に、実業家本庄京三郎によって、「東洋一の大公園」と称し、遊園地、温泉、宿泊施設を有した「甲陽園」というレジャー施設が誕生、ここに滝田南陽が経営する「甲陽キネマ」映画撮影所も併設されました。
これが日本で初めて遊園地に誕生した撮影所で、1923年大阪の八千代生命を母体とする東亜キネマが買収、翌1924年阪神急行電鉄(現阪急電鉄)が甲陽線を開業しますが、撮影所は経営難により1927年に閉鎖されます。
近代技術である電車と映画はともに電気を必要とするもので、その黎明期は電力会社による電力供給のエリアと電力量の拡大とともに急速に成長していきました。
今から日本の電鉄と映画撮影所のかかわりについてお話してまいります。
1895年(明治28年)2月、「京都電気鉄道」が、琵琶湖疎水に作られた水力発電を活用する「京都電燈」の協力のもと、現在の京都駅近くから伏見の京橋間6.4㎞、日本で初めて事業用電車を走らせて以来、日本各地に多くの電鉄が生まれ、それぞれの地域で統廃合を繰り広げながら現在に至っております。
電車は人々の足として生活に欠かせないものになり、沿線には数多くの住宅地が開発され、人口が集中、そこに住む人々の需要と乗客数の増加を見込み、電鉄は主要駅に百貨店、レジャーのために郊外の沿線に遊園地を開発していきました。
その電鉄業のビジネスモデルをつくったのが、阪急東宝グループの創始者「小林一三」です。
小林は慶應義塾を卒業後、三井銀行に勤務、証券会社の立ち上げのために1907年に大阪に来ますが、株式バブル崩壊で株価が暴落、その話は立ち消え、国営化される阪鶴鉄道監査役を経て、開業が危ぶまれていた「箕面有馬電気軌道株式会社(箕面電鉄)」の専務に就任、この事業の将来性を確信する小林は、会社が成立しなかった場合の一切の責任を取る形の契約書を交わし関係者を説得、そして開業にこぎつけ、そこから事業家人生の第一歩を踏みだします。
小林は予定路線沿線の土地を購入、サラリーマン向け宅地造成開発に着手、1910年に開業すると、分譲販売を行い成功を収めるとともに、その沿線住民のための娯楽施設として、同年、終点駅箕面に動物園、翌年、終点駅宝塚に「宝塚新温泉」として大理石のモダンな大浴場を開き、通勤需要に加えて日帰りレジャー客も獲得、鉄道乗客数を大きく伸ばすことにも成功しました。
そしてこれまで男性向けだった沿線の催しを女性や子供向けに方向転換し、1914年4月宝塚新温泉にて婚礼博覧会というイベントを開催、その余興として宝塚少女音楽団を作り、1912年に作った娯楽場「パラダイス」のプールを改造した舞台で無料公演を開始、ここに後の宝塚歌劇団が誕生します。
1918年には大阪、神戸の二大都市を結ぶ路線を目指し社名を「阪神急行電鉄(略称阪急)」と改め、1920年神戸線開業、1929年ターミナル梅田駅に「阪急百貨店」を創業するなど鉄道を中心とした関連事業を次々と成功させ、後に続く電鉄事業モデルを確立していきました。
小林一三の映画製作事業とのつながりは1930年に始まります。
その年、当時電力会社東京電燈の副社長も兼ねていた小林に、大同電力社長増田次郎を介してアメリカで人気の早川雪洲のスタジオを沿線にという話がもちこまれ、1925年に宝塚南口駅前に地元の実業家平塚嘉右衛門と共同出資し翌年開業した「宝塚ホテル」が中心となり、1930年、スタジオ建設を目指して「宝塚映画株式会社」を作りました。
しかし、この話は頓挫し、そのために用意した資金の一部は、牧野省三が離脱した京都等持院の東亜キネマに融資され、この際、宝塚映画へ動いたのが牧野省三の長女富栄の内縁の夫、当時東亜等持院撮影所長高村正次です。
高村は元ユナイテッドアーティスツ社日本代理店支社長で、マキノに出入りし、マキノ等持院と帝国キネマの合併を図るも失敗、その後は市川右太衛門のマキノプロからの独立を図るも笹川良一に横取られ失敗します。
その後、高村は1929年八千代生命が撤退した東亜キネマに撮影所長として乗り込み、翌1930年、スタジオ計画がとん挫した宝塚映画からお金を引き出し映画製作資金に投入、その映画がヒットし、東亜も少し持ち直しますが、これも焼け石に水で、1931年8月、東亜キネマ代行会社として製作部門を受け持つ東活映画社が作られ、配給部門を宝塚映画が担当することになりました。
この時、高村は撮影所長の席を追われますが、転んでもただでは起きない高村は、東亜のドル箱スター嵐寛寿郎と一緒に東亜キネマを脱退、松竹子会社「新興キネマ」と提携、作家として有名になった直木三十五や久米正雄の支援で尾上菊太郎と等持院の東活映画撮影所を使用し「大衆文芸映画社」を立ち上げ、嵐は同じく新興の支援で再度「嵐寛寿郎プロダクション」を設立します。
1932年2月、尾上菊太郎脱退の後、高村は京都御室の解散したマキノ・プロダクション撮影所に移り、新興キネマ専務立花良介と牧野省三未亡人と組んで「正映マキノキネマ」を創設も、不審火によって撮影所が焼失、バラックを建ててマキノ正博で映画を製作しますが3月末に早々と解散しました。
一方、高村が去った東活映画社も奮闘及ばず、1932年5月末、阪急、宝塚ホテル出身の南喜三郎社長退任、九州の資産家中山貞雄が東活の新社長に就任するも10月末に解散し、マキノが作った等持院撮影所もここに命運が尽きるのでした。
1932年11月、南喜三郎は高村正次と組んで御室撮影所で宝塚キネマ興行株式会社を立ち上げますが、この会社も1934年1月、苦労の末解散に至ります。
南喜三郎の後ろには常に小林一三がおり、高村正次という映画事業家を介し、日本の映画業界の実態を体験学習した後、満を持して1937年、写真科学研究所、P.C.L.映画製作所、J.O.スタヂオと東宝映画配給の4社を合併して「東宝映画株式会社」、今日の東宝グループの基となる会社を作ったのでした。
その他電鉄が関係する撮影所
東活映画社解散後、社長中山貞雄は京王電気軌道(現京王電鉄)と提携、東京調布多摩川駅前の6500坪の土地を提供され、1933年1月「日本映画株式会社」を設立、多摩川撮影所を立ち上げますが、資金不足で3月早くも撤退、その後「朝日映画連盟」を経て、1934年日活に譲渡され、日活多摩川撮影所、今の角川大映スタジオになります。