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④ 第1章 「風雲!東映誕生」

第2節「東映誕生を導く軍師 根岸寛一 後編」

 国策ニュース映画製作会社「社団法人日本映画社(日映)」専務理事で終戦を迎えた根岸は、従業員一同から日映の経営再建を託されました。

 そして戦争中は刑務所で過ごし、出所後根岸の力添えで満映の東京支社で働き、戦後、映画評論家として活躍する岩崎昶を補佐役に迎え、連合国総司令部民間情報教育局と粘り強く交渉を進め、ついに努力が実り「社団法人日本映画社」を解散、新たに「株式会社日本映画社」を創業し根岸は社長に就任します。

 しかし、戦時中に膨れ上がった組織を建て直すためには従業員の大幅な合理化が必要で、根岸は社長としてそれを断行、大澤善夫社長の東宝と提携し、後事を託し、1946年(昭和21年)9月24日、合理化の責任を取って岩崎ともども退社しました。根岸52才でした。

 日映時代、根岸は、米軍に接収された広島原爆投下二日後の悲惨な状況を撮影したフィルムをもとに、改めて原爆の記録映画を製作するべく、記録映画部加納竜一を責任者として、岩崎も協力し、動き出します。

 映像は途中から米軍の管理を受けることになりましたが無事完成し、日米講和条約締結後の1958年8月15日終戦記念日にその一部ですが「原爆特集」ニュース映画として発表することができました。

 これは根岸でなければできなかった歴史に残る大きな仕事でした。

 戦後、日本映画界は戦時中の非常事態体制である松竹東宝大映三社体制のまま続いていました。

 日映を辞し、自由が丘に蟄居した根岸は、これから拡大するであろう日本の映画産業を見据え、新たな第四の映画会社の必要性を痛感、満州で苦楽を共にしたかつての同僚たちのためにもそれに向かって密かに動き出します。

 東急電鉄重役の黒川渉三は根岸の「新聞連合」時代以来の飲み友達で、五島慶太の懐刀として活躍していました。根岸は黒川から「新聞連合」時代に五島を紹介され、五島からも注目を得ていました。

 1946年(昭和21年)2月、黒川は1938年(昭和13年)に五島が作った映画興行会社東横映画の社長に就任し、五島の指示のもと会社拡大を目指します。

 その際の指南役は映画業界に精通した根岸でした。

 五島黒川根岸は東横映画再生のために協議を重ね、        

1. 戦後の日本復興のために、娯楽に飢えている国民の心の糧として映画製作に乗り出すこと                    

2. 大陸より引き揚げて来る映画人を救済し、職を与えること

という東横映画の大方針を決めました。根岸が満州に残してきた映画人への思いが映画産業に乗り出そうと考えていた五島を動かし、東横映画の方針に結実したのです。

 そして、まずは映画製作に乗り出し、いずれ第四の配給系統を作るというプランを考え、11月東横映画定款に映画製作と配給を加えました。

 そして、黒川が大映永田雅一と話し合い、東急の持つ大映株を大映に売却することで大映と配給提携、大映京都第二撮影所(元新興キネマ太秦撮影所)を借りて映画製作に乗り出すこととなるのです。

 またこれによって株が安定した大映では、この功績もあり、永田が社長に就任、オーナーとして辣腕をふるい、戦後映画界に旋風を巻き起こします。

 1947年(昭和22年)7月20日、念願の東横映画京都撮影所が開所、前年まで松竹大船撮影所にいながら開所に向けて奔走していたマキノ満男が駆けつけ、撮影所長に就任、根岸の意を受け陣頭指揮に立ち、次々と満映や外地から引き上げてきた映画人を招き入れ、映画を撮影していきます。

 しかし、そこには肝心の根岸の姿はありませんでした。

 根岸はその時、満映理事として戦犯の指定を受け公職に就くことができず、さらに病気の悪化もあり、撮影所の誕生を陰から見守ることとなったのです。

 戦前、根岸寛一は牧野省三と手を取って、大手映画会社に対抗できる新たな映画会社成立を目指しましたが思いを遂げることはできませんでした。

 しかし、戦後、牧野省三の息子・マキノ満男と手を組み、ついにその夢をかなえたのです。

 東横映画は根岸寛一によってマキノ一族の思いを繋いだ会社でした。

東映京都_071

東横労組連合会(昭和23年10月) 吉田貞次氏より

 その後東横から東映へと導いた根岸は、右腕マキノ満男坪井與伊藤義そして岡田茂の知恵袋として東映を支えていきました。

 東映ばかりでなく日活アクション映画の生みの親となった左腕江守清樹郎、大谷竹次郎の養嗣子で松竹社長の大谷博なども「根岸詣」の一員であり、根岸は日本映画全盛期を陰で支えた功労者でもありました。

 岡田茂竹中労のインタビューに答え、              「私はまあ根岸学校の最下級生だったわけです。東京の撮影所長だったとき、話があるからこいという。いきなりいわれた、難しいところに来たな。ピンクを撮れと。エロで行け、…がむしゃらにやりたまえ、反対があっても押し切ってエロで行くんだ。」                       また、「昭和三七年です。幸いギャング路線が当たりました、鼻高々で根岸さんのところへ報告がてら見舞いに出かけた。…(根岸は)ウン少しわかって来たな、その調子で徹底してガラの悪いのをつくれ。…『ところで次は何だ!』ギャフン(笑)考えていない。教えてくださいと私は頭を下げた、次はヤクザ映画だよと、そういった。」

根岸は岡田茂の師匠でもありました。

 根岸寛一、東映の礎を築いた、忘れてはならない陰の功労者です

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多摩川堤を歩く晩年の根岸寛一

 


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