大滝詠一、井上陽水、松本隆、筒美京平らのブレーンを務めるかたわら、「平井夏美」名義で『少年時代』(井上陽水と共作)、『瑠璃色の地球』(松田聖子)などを作曲。中森明菜の音源制作にも関わってきた川原伸司さんに、いまこの時代に聴きたい音楽についてうかがう連載。Vol.4は大滝詠一さんについての後編。ロンバケのヒット後に大滝さんや川原さんが作曲した作品について、歌謡曲好きライターの水原空気がインタビューします。
大滝詠一が松田聖子・森進一・小林旭に書いた名曲の秘話とは?
いま再び聴きたい音楽の旅Vol.4 大滝詠一 後編
水原 (前編からの続き) 川原さんが平井夏美として初めて作曲した曲が、松田聖子さんの『Romance』だったわけですが。オファーの電話が大滝詠一さんから16時に来て、締切は翌朝9時30分。急でしたね。
川原伸司さん(以下敬称略) 普通は短くても1週間。だから慌てて帰って、車の中でも必死に考えました。もう40年以上前だから言いますけど、多分他の曲がクライアントの意向でボツになり、急に回ってきたお話だったと思います。なぜなら翌朝、駅前で大滝さんのマネージャーさんに曲を渡したら、夕方には船山基紀さん編曲のバックトラックが完成していて。翌日には松本さんの詞が届き、さらに夕方には仮歌が入ってました(笑)。聖子さんもすごい人気で、CMのスケジュールが先に全部決まっていたんじゃないかな。
水原 1981年春に松本さんと大滝さんが数年ぶりに仕事をし、そのすぐ後に松本さんが聖子さんに初めて詞を提供。さらに秋に向けて松本さんが大滝さんを聖子さんのプロジェクトに誘い、ロンバケのヒットから、どんどん新しい流れが出来て行ったんですね。
川原 よく聖子さんのプロデューサーの若松宗雄さんが「シュワーっとした感じで」と表現していましたが。maj7(メジャー・セブンス)という、例えばドミソならシを足すことで洗練された明るさと透明感の出るコードを、松田聖子さんは初めて多用したアイドルなんです。元々、歌謡曲は原色のようなはっきりした色合いの曲調が多かったのが、聖子さんは、ニューミュージックのアーティストたちが提供するおしゃれで洗練された曲を次々にヒットさせた。まさにJ-POPの礎が作られていった瞬間だったと思います。
水原 松本さんが大滝さんの起用を若松さんに提案したとき、若松さんは思わず「大滝さん、やってくださいますかね!?」と答えたそうです。それくらいロンバケが大ヒットしていて、音楽的にも深い作品だったからですよね。聖子さんの印象はいかがでしたか?
川原 連載Vol.2で、聖子さんが子供の頃に由紀さおりさんの『生きがい』を繰り返し聴いていた話がありましたが、聖子さんは音楽のセンスも非常にある方で。ああいったバカラック調の新しい歌謡曲や、由紀さんの透明感溢れる声に惹かれていたのもその証拠でしょう。『Romance』も完全に自分のモノにして歌っていましたから。
水原 『Romance』はペトゥラ・クラークへのオマージュだったんですよね?
川原 1965年の『マイ・ラヴ』という曲で、イントロにインスパイアされて。
水原 そして若松さんは、大滝さんのマネージャーさんから、平井夏美さんが何者かはしばらく教えてもらえなかったという(笑)。
川原 ビクターの社員がソニーの歌手に曲を提供するわけにはいきませんからね。その後「夜のヒットスタジオ」に立ち会ったとき、聖子さんも偶然出演されていて。目の前で『Romance』を歌うのを聴きながら、私もビクターの上司の飯田久彦さんに打ち明けました。「川原、やったね!!」と非常に喜んでくれたことを覚えています。
異色の組み合わせが
国民的大ヒットを生み出した!!
水原 そして1982年11月にはビクターから大滝さんと松本さんによる、森進一さんの『冬のリヴィエラ』が発売されます。大滝さんと演歌の大スターとのコラボは非常に新鮮でした。
川原 あの頃、森さんが事務所から独立した直後で、一時的に仕事が減っていたんですね。するとCMディレクターの川崎徹さんが、こういうときこそ新しいことをやるべきチャンスだと松本隆×大瀧詠一×森進一でサントリーのCMソングを作る話をくださり。
水原 曲はどんな風に?
川原 ふとウチの母親に森さんのイメージを聞いたら、「アラン・ドロンに通じる哀愁がある」と。それを松本隆さんに伝えると、イメージがどんどん膨らんでいって。
水原 お母様、グッジョブです。
川原 この曲は、大滝さんの最初のデモテープだと「♪あいつーにー」と一拍目から始まるんですが、「♪__あいつに〜、__よろしく〜」と一拍目を溜めたほうが森さんらしいと思って自分が仮歌で歌ったら、「いいねー、それいただきー!」と大滝さんが。
水原 そういうところから名曲が生まれるんですね。そして1985年には小林旭さんの『熱き心に』も発売されます。小林さんは1950年代から活躍する映画俳優・歌手で、大滝さんも子供の頃から憧れていた大スター。またまた異色の組み合わせが話題に。
川原 この曲はAGFマキシムのCMソングとして、CMプランナーの大森昭男さんが阿久悠×大瀧詠一×小林旭で提案してくださり。ある日大滝さんから「曲が出来たからデモデープ作り、手伝ってくれ」と連絡が来て、急いで大滝さんの家までキーボードとシーケンサー(音を記録・再生する機器)を持って行くと。いつも大滝さんのデモテープはラフで、カセットにピアノと鼻歌くらいなんだけど、大先輩の作詞家・阿久悠さんのお仕事だし、ちゃんとしないといけないと思ったんでしょう。明け方4時まで一緒に作って。すると後日、阿久さんからタイトルが書かれた表紙付の歌詞が届き、しかもそこには阿久さんの座右の銘「熱き心に」が。大滝さんにもすぐ「これは傑作だよ」と伝えたんですが。大滝さん実はそれまで「やっぱり松本に頼んだ方がいいんじゃないかな」と迷っていて。
水原 大滝さんも小林旭さんの大ファンで、かなり思い入れがあったんでしょうね。
川原 結果的に大ヒットしたわけですが。後日、阿久さんにお礼を伝えたら、「デモテープがちゃんとしてたから、すぐに書けたよ」とおっしゃって。
水原 (笑)いいお話です。小林旭さんも当初は大滝さんと初仕事で不安があったけれど、ジョン・ウェインの西部劇に通じる世界だと気づいて、大丈夫だと思ったそうです。
川原 森進一さんも実は録音ブースから出てきた直後は、あまりピンと来てる顔じゃなかった。でも今までにない新しいものを創るときは、たいてい違和感があるんです。むしろ、そういうときこそ大ヒットする。歌はご本人にとってもリスナーにとっても「心地よい裏切り」が大切だから。大滝さんも、実は『恋するカレン』の詞について「30歳過ぎの俺が歌うのは、おかしいんじゃないかな」と迷っていたけど、「いや、これがいいんだよ!!」と説き伏せました(笑)。
水原 大滝さんの声とあの詞の組み合わせは唯一無二ですよね。『冬のリヴィエラ』や『熱き心に』も、森進一さんや小林旭さんの声と非常にマッチしています。『熱き心に』は、フジテレビの『俺たちひょうきん族』で片岡鶴太郎さんがモノマネしてたのも印象的でした。
川原 あれこそ今だから言えるけど、実は番組プロデューサーの方に「『ひょうきんベストテン』で小林旭さんのモノマネで鶴太郎さんに歌ってほしい」と頼みに行ったんですよ。大滝さんも自分もクレイジー・キャッツの大ファンでお笑い好き。大滝さんも当初から大賛成で、「ひょうきんベストテン」に入れたいとね。鶴ちゃんの歌も、あそこまで行ったらモノマネじゃなくて立派なカバー(笑)。子どもたちも鶴ちゃんの歌だと思って歌ってくれていたし。その後、島倉千代子さんの『人生いろいろ』も大ヒットしたけど、あの曲も原曲の良さはもちろんだけど、山田邦ちゃんのモノマネ効果も大きかった。
水原 そう言えばこの春、岩崎宏美さんの『シンデレラ・ハネムーン』をダンス集団のアバンギャルディが『AGT(アメリカズ・ゴット・タレント)』で踊っていて、YouTubeで大人気です。それもコロッケさん直伝の変顔で!
川原 『シンデレラ・ハネムーン』も米国の方に新鮮だったでしょう。荻野目洋子さんの『ダンジング・ヒーロー』も再ブレイクしましたが、いま70年代や80年代の歌が国境や世代を超えてウケている。それだけ普遍性があるということだし、面白さから音楽が広がっていく原点は「ひょうきんベストテン」にあるのかも(笑)。
水原 アバンギャルディは『少年時代』のダンスも必見です。最後に大滝さんを一言で言うなら?
川原 理性的かつ情熱的。革新的でありつつもかなり保守的。中森明菜さんのアルバム・タイトルじゃないけれど、まさに「アンバランス・バランス」。その振れ幅が誰よりも大きくて、相当に複雑だけど魅力的な人でした。だからこそロンバケは、みんなで一つになって大プッシュした。全員が協力して、今考えてもすごくいいチームが組めていたんじゃないかと思います。
*参考文献『文藝別冊 大瀧詠一』(河出書房新社)、『大滝詠一Talks About Niagara』(レコードコレクターズ2014年4月増刊号)
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川原伸司
音楽プロデューサー、作曲家。日大芸術学部を卒業後ビクター入社、後にソニー・ミュージックエンタテインメントへ。ピンク・レディー、杉真理、松本伊代、The Good-Byeらの制作現場を経験しつつ、井上陽水、筒美京平、大滝詠一、松本隆らと交流。大滝詠一、中森明菜、TOKIO、ダウンタウン等をプロデュースし、松田聖子や森進一の楽曲制作も。『ジョージ・マーティンになりたくて〜プロデューサー川原伸司、素顔の仕事録〜』(シンコーミュージック)が絶賛発売中!
Photo(record)&Text: Kuuki Mizuhara