「地の文」とは小説のセリフ以外の部分のことですね。その書き方の基本は「一人称」と「三人称」の2種類。そして「三人称」の書き方も、3種類あるとされています。つまり、合計4種類の「地の文」の書き方があるのです。この記事では、その4種類の地の文の特徴と、それぞれの注意点をまとめました。
4種類の地の文とは
一人称の地の文
主人公など、特定の人物の視点で「私は~」と書く地の文。
三人称の地の文
「彼は~」「山田は~」という三人称形の文法で書く地の文。
「彼はこう思った」など、内面を直接表現することもできますが、誰の内面を表現するか?(=誰の視点か?)によって、以下の3種類に分類されます。
- 客観視点:登場人物の内面を直接書くことはせず、客観的事実だけを書く。
- 一元視点:主人公など特定の人物の内面だけを表現する書き方。
- 全知視点:内面も客観も全て描写する。「神視点」とも呼ばれる。
3種類の分類の名前は、文献によって違いますが、内容は共通しています。
以上4種類の地の文について、以下、特徴や注意点をまとめています。
地の文その1「一人称」
特徴:主人公の視点
主人公など、特定の人物の視点で「私は~」等、一人称の文法で書く地の文。
以下のような注意点があります。
注意点:ストーリー全体が主人公の主観で表現される
一人称の地の文の場合、ストーリー全体が「主人公の主観」で語られます。
つまり、出来事全体が、主人公の意見や考え方のフィルターを通して語られるので、客観的な事実を語ることが難しくなります。
極端な話、書いてあることがすべて主人公の思い込み・勘違いかもしれないということです。
リサ・クロン著「脳が読みたくなるストーリーの書き方」には、この点が以下のように説明されています。
一人称の物語では、語り手が自分の物語を語っている以上、そこには語り手の主観的な意味づけが吹き込まれているはずだということになる。
リサ・クロン著『脳が読みたくなるストーリーの書き方』府川由美恵訳
この特徴を生かした作品を書くこともできますし、逆にこれが制約になることもあるでしょう。
長所でもあり、短所でもあるというわけです。
地の文その2「三人称客観視点」
特徴:映画的な視点
誰の視点でもない書き方。登場人物の内面を直接書くことはせず、客観的事実だけを書く地の文。
前述のリサ・クロン氏は、このタイプの地の文について以下のように説明しています。
三人称客観
物語は客観的な外部の視点から語られ、作者は読者を登場人物の心理に誘い込もうとせず、登場人物がどう感じているか、何を考えているかも説明しない。
登場人物の内面を直接表現できるというのは、小説の最大の武器とも言えますので、それをあえて封じるような書き方ですね。
そのため、映画的な地の文であるとも言われています。
三人称客観視点のメリットは、「誰も気が付いていないことも描ける」ということ。誰にせよ「登場人物の主観」で描く場合、「少なくとも登場人物の誰かが気づいていること」しか描けませんが、客観視点なら、登場人物の誰も気が付いていないような事実さえ書けるわけです。
注意点1:間接的に内面を表現するしかない
この描き方で登場人物の内面を表現しようとする場合、間接的に表現するしかありません。
主人公の演技や・客観的事実だけで、登場人物の内面を表現するわけです。そういう意味でも映画的ですね。
注意点2:主観を述べない
客観視点の地の文において、勝手な主観が入ることはタブーとされています。
注意しないと、「客観視点」なのに客観的ではない作者の勝手な主観が入る危険性があるわけです。
後述する「三人称全知視点」の場合も、同じ危険があります。主観が入ってしまった文章の具体例は、「三人称全知」の項目を参照してください。
地の文その3「三人称一元視点」
特徴:一人称とほぼ同じ視点
この書き方は、一人称の地の文の主語を「彼は~」「山田は~」等の三人称に入れ替えただけで、基本的な書き方は一人称の地の文と同じです。
三人称なのに、ときどき主人公の心の声などが一人称のような文体で登場します。よく見かける「一人称と三人称が混ざっているような地の文」は、このタイプです。
注意点:ストーリー全体が主人公の主観で表現される
一人称と同じようにすべてが主人公の主観で表現されるので、客観的な事実を直接書けません。
つまり、三人称なのに主人公の知らないことは書けない。それを書くと、「主人公の視点」と「客観視点」の、二つの視点になってしまうからです。
客観的な視点でも描きたい場合は、次の「全知視点」にする必要があります。
地の文その4「三人称全知」
最後に、最近の作品ではあまり見られない方式の「全知視点」についてです。「神視点」あるいは「作者の視点」とも呼ばれます。
特徴:全ての人物の内面を書ける
「三人称全知」とは、登場人物の誰かというわけではなく、物語の世界に関する全てを知っている何者かによって語られる形式です。
客観視点との違いは、全ての登場人物の「内面を描ける」ということです。そして、同時に客観視点でも描写できるので、誰も気が付いていないことも書けます。まさしく「神の視点」ですね。
とにかく「全知」であり、物語の過去から未来まですべてを知っている者の視点ですから、「このあとどうなるのか」を予告したり、「実は過去にこんなことがあった」と説明することさえ可能です。
注意点:主観を述べない
「三人称全知」は、ほとんど何でも語っていい視点ですが、「三人称客観視点」と同じように、全知の語り手本人の「主観」を述べることはNGです。
前述のリサ・クロン氏は、悪い例を以下のように説明しています。
全知の語り手が次のような文章を書くのは賢明とは言えない。
「あなたとは結婚できないと思うわ、サム」。エミリーは、自分は男が思う以上にいい女だと言いたげな、偉ぶった性悪女の口ぶりでそう言った。
例文の「自分は男が思う以上にいい女だと言いたげな、偉ぶった性悪女の口ぶり」というのは客観的事実ではなく、誰かが勝手にそう感じたという主観的な話ですね。
登場人物の誰かがそう感じたというならOKですが、この例文だと「語り手はそう感じた」という文章になっていますね。
全知の語り手の主観、つまり「神の主観・意見」が出てしまっていて、いわば謎の神が作品に登場しちゃっているようなもの。作品内に登場しないように隠れながらも、全てを語るのが「三人称全知」ということです。
途中で視点を変えてもいい?
場面ごとに視点を変えるのは一般的
一つの作品内で、視点を変えるのはよくある話ですね。エピソードごとに視点を変えたり、あるいはもっと細かく場面ごとに替えたりということがあります。
「一人称」の視点を変えるのは良くないという意見もありますが、そういう作品の例がないわけでもありません。例えば、シャーロックホームズの「緋色の研究」などがそうですね。
「全知視点」から他の視点に変わる作品の例は思い浮かびませんが、不自然ではないように表現できれば、「絶対ダメ」とは言い切れないでしょう。小説は基本的に、絶対的なルールは作れませんからね。
視点を変えながら書く手法を「多元視点」と呼ぶこともあります。場面ごとに視点を変えるとしても、各場面で使う視点そのものは、ここで紹介した4種類のどれかに該当するはずです。「三人称一元視点」で統一しつつ、視点にする人物を変えていくという手法がよく使われます。
1場面に1視点が基本
同じ場面で視点をコロコロ変えてしまうと、かなり読みにくくなるので、「1場面に1人の視点」が基本とされています。
視点を変えるなら、場面の途中ではなく、章が変わるところなど、「キリの良い所」だけにするのが普通。決まりがあるわけではありませんが、「読者の混乱を招かないように視点を変える」のが基本でしょう。
まとめ
4つの地の文の特徴
- 一人称:一人の視点で「私は~」等と書く
- 三人称客観視点:客観的に書く。誰も知らないことも描ける
- 三人称一元視点:一人の視点で「彼は~」「山田は~」等と書く
- 三人称全知視点:すべてを描写する
4つの地の文の注意点
- 一人称:ストーリー全体が主人公の勝手な主観で表現される
- 三人称客観視点:間接的に内面を表現するしかない。主観を述べない
- 三人称一元視点:ストーリー全体が主人公の勝手な主観で表現される
- 三人称全知視点:主観を述べない。