本日最後の授業の終了を知らせるチャイムが鳴る。黒板にチョークで書き込んでいた数学教師が動きを止め、少し悩む素振りを見せてからチョークをケースに戻し、授業の終了を告げる。
生徒達がどこか安堵した様子が見られる。この教師は区切りの良いところで終わるまでは、チャイムが鳴ろうとお構いなしに授業を進める事で有名だ。今日もまだ説明の途中だったのだが、いつもと違いそこで授業を終わらせた。
(…そういや奥さんに浮気がバレたとか噂で聞いたな)
教室を出ていく教師の背中を眺めながら総司はふと、今日の昼休みに耳にした噂話を思い出した。
あの数学教師が年下女性と浮気し、それが奥さんにバレて離婚の危機だという噂である。初め聞いた時はどうでもいいと聞き流したのだが、あのおかしな様子からしてもしかしたら噂は本当なのかもしれない。
(さて、そんな事はどうでもいい。問題はこっちだ)
まあ今の総司にとってそんな話はどうでもいい。ゴキブリが辛いものを食べ続けると攻撃的になってムカデを食べるようになるという話くらいどうでもいい。
総司は机の中に隠しながらスマホを操作。メッセージアプリを呼び出し、ホーム画面にある文を見る。
『総司君、また勉強教えてくださいよー』
この一文の上には送り主である千花の名前が。その会話画面は開かず、総司はこのメッセージを受信した昼休みから疑似未読を貫いていた。
期末試験が来週に迫っている。前回の試験で落ち気味だった成績を持ち直し、再び中間辺りまで順位を戻した千花。
以前勉強を見ていた時にも思ったが、千花は地頭は悪くない。理解力はあるし、しっかり授業を聞いて帰ってから予習復習を行っていれば定期テストくらいは普通に熟せると総司は思っている。というか、以前にそう総司は千花に伝えたはずなのだが。
(…マジでピンチなのか、それとも──────)
勉強を見てほしいというのは口実か。いや、どちらにしてもここで断るのは不自然である。それに頼られる事に嫌な気はしない。
総司は了承の返信を送るべく千花とのやり取りのページを開こうとして…、画面にポップアップした通知を見て手を止めた。
『今日からテストの日まで勉強見て頂けませんか?』
白銀圭、送り主の登録名である。まさかのブッキングである。
「どうすんだ、これ」
担任教師が教室に入ってきたため、総司は今返信する事を諦めてスマホを鞄の中に入れる。
しかし、新たな問題が出てきてしまった。それもかなり厄介な問題である。
千花と圭。まさか選べというのか。今の総司にそれは酷というものである。
(いや、選ぶ必要なんてないだろ。二人いっぺんに見れば良いんだから)
そう、どちらかの誘いを断る必要なんてない。二人とも家に呼んで…、その場合だとまた早坂も加わるのだろうか?そうなるの三人になるが、まあ問題はないだろう。
「─────」
そこまで考えた時、総司は軽く絶句した。
無意識に、自然に、総司は四人で勉強しようと考えたのだ。男と女の比率が1:3の部屋で、しかもそれが自分の部屋だというのに。
いや違う、そういう風に変に意識するから疚しい事のように感じるのだ。早坂は言わずもがな、千花と圭だって友人なんだし、部屋に呼んで勉強会なんて何らおかしくないだろう。
それに、そうだ。こういう時こそかぐやを呼べば良いじゃないか。確か生徒会は試験が終わるまで白銀が休みにしたと言っていた。ならばかぐやは今日は真っ直ぐ家に帰るという事。それはらかぐやも加えて五人で勉強だ。
おお、何という名案。これは来た、勝てる。
「ごめんなさい。もう先約がいるんです」
そう、思ってたのに。
「それじゃあ総司、頑張ってください」
かぐやはそれはそれは美しい笑顔を浮かべながら裏切ってくれやがりました。
「…」
「…」
「…」
「…君達、これから勉強だよ?別に楽しくやろうなんて言わないけどさ、もう少し雰囲気良くならない?」
そして現在、総司の部屋である。
かぐやに裏切られどうしようもなくなった総司は、ホームルームが終わった後それぞれに千花も、圭も加わると付け加えて了承の返信を送った。
かぐやはまだ学校に残り、総司は迎えの車に千花と圭を乗せて家まで連れていく。
先に帰ってきていた早坂が出迎えに来た時は驚きのあまり声が出そうになったが。千花はともかく、圭はまだ四宮と早坂の関係について知らないというのに、隠す気ゼロである。
まあ白銀は知っていて圭は知らない、というのは仲間外れにしているみたいで心が痛むため別に咎めるつもりはないが。
それと同時に、自分に対して甘すぎる、と自嘲もしたが。
「…メイドさんだったんですね」
「はい。ここに住み込みで働かせてもらってます」
「…」
それにしても、空気が悪い。何で…とは思わない事もない。何故なら、千花と圭の雰囲気が悪くなるのはともかく、何故早坂まで一緒になっているのか。それがさっぱり解らない。
何か住み込みの所を強調して、珍しくムキになってる様子である。
「す、すみこみ…?」
「はい。総司様と一つ屋根の下で、暮らしています」
「…千花姉」
「私は知ってました」
あぁ、圭が泣きそうになってる。まずい、ここに二人を連れてきたのは失敗だったか。というかもう何もかもが失敗な気がしてくるのは何故だ。最早、四宮総司という人間が産まれてきた事自体が失敗だったのではないか。
(いやいや落ち着け、自暴自棄になるな)
とにかく勉強だ、勉強をさせるんだ。ここに彼女らが来た目的は表向きには勉強なのだ。
「おーい、そろそろ勉強始めるぞー。ち…かは門限あるんだから早くするぞ」
「…しょうがないですね」
「まあ、私は別に続けても良かったのですが」
「挑発すんな早坂」
火花が飛びすぎて怖い。何はともあれ、二人は矛を納めてそれぞれ参考書を取り出す。
…早坂はどこから取り出したのかさっぱり解らないのだが。いや、本当にどこから出した?そのメイド服の中から?え?
そんな総司の戸惑いを他所に本格的な勉強会が始まった。先程までのギスギス感はどこへやら、解らない所があれば教えたり教えられたり、総司自身、ここにいなくても良いのではとすら思い始めた。
そうして日々は過ぎていく。授業が終わってから総司は千花、圭と合流して総司の部屋に行き、先に帰っている早坂が加わって勉強会へ。
前回と違うのは学校がない土曜日も勉強会が行われた事だ。試験前最後の授業が終わってからの勉強会で、千花が明日も勉強会がしたいと口にし、総司が了承した。
「だから、この問題文に条件が書いてあるだろ?xが負の数にならないとおかしいんだよ」
「むぅ~…」
「あとけ…いさんはもっと視野を広げて考えよう。二つの三角形の合同の証明をするために問題とは別の三角形の合同の証明をする事は普通にあるぞ」
「はい」
さて、そんな休日の勉強会も大詰め。窓の外は暗くなり始め、時計もあと十分で六時になろうとしていた。
「あああああああああ!解りません!総司君、ここはもう飛ばしましょう!」
「いやいや、テスト本番ならともかく勉強で諦めんなよ…」
「でもぉ~…」
千花がちらりと時計を見る。確かに時間はない。というより、そろそろ帰り支度しなければならないか。
「しょうがない、続きは明日やろう」
「…」
「でも帰ったら自分なりに解いてみろ。そんで明日、答え合わせしようか」
「…決めました」
「は?」
もうこれで勉強会はお開きにし、続きは明日という事にしようとしたのだが。総司の話は耳に届いていない様子の千花が突如声をあげる。
「私、今日はここにお泊まりします」
「はい?」
「なっ…」
「千花姉!?」
呆気にとられる総司。目を見開く早坂。驚愕の声をあげる圭。
「総司君にみっちり勉強教えてもらいます!ね?総司君!」
「いや、ね、と言われても」
「お、お泊まりなんて…!そ、それなら私だって!」
「ちょっ!?」
千花に続いて圭までもが錯乱してしまう。
「お、おい早坂!どうすればいい!これ!」
そして、この状況に総司も錯乱する。只でさえここ最近の総司は平静とは言えない精神状況だったのだ。その原因でもある二人が泊まるなんて、それも本気で言っていればこうもなる。
もう総司が頼れるのは早坂だけだった。
「お任せください、総司様」
「は、早坂…」
早坂は抑揚のない声で、しかし確かな口調で任せろと言った。その姿に総司は感動を覚える。
何という頼もしさか。早坂の背中はまるで戦場に赴く歴戦の戦士のよう。これが漢の背中だとむごんでかたっているようさえ見えた。
早坂は女だけど。
この時ほど早坂がメイドでいてくれて良かったと思った日はなかった。
それはそれでだいぶ早坂にとって失礼な話だけど。
「お二人とも、お泊まりしたいのならちゃんと親御さんに許可をとってください」
「あっ!そうでした!」
「私もお父さんに電話しとかなきゃ!」
「早坂あああああああああああああああ!!!?」
早坂はそれはそれは自然な流れで裏切ってくれやがりました。
「何で!?二人を説得してくれる流れじゃなかった!?」
「いえ。何か総司様が失礼な事を考えていた様な気がして」
「バレてた!?」
「やっぱりそうだったんですか」
「…あ」
「総司様はかぐや様をアホ呼ばわりしてますが、総司様も大概ですよね」
こうして、藤原千花、白銀圭の四宮別邸でのお泊まり会が決定したのである。
圭の説得はかなり時間が掛かっていたが…、というか白銀の大声が漏れていたが、とにもかくにも勉強会は延長戦へと突入するのである。
本当に勉強会になるのかは知らないが。
今回は導入、本番は次回です