ジタンが第三の人生を開始した日から丁度13年目のある日のこと。
彼は真っ暗闇の中で目を覚ました。周囲には背の高い樹木が生い茂り、地面はしっとりと濡れていて、地面に投げ出されていた手の平には水気を含んだ土の感触を感じた。体が重い。思うように動かず、目だけを動かす。虫の声も聞こえないほど静かだったのが、余計に不気味であった。人工の光など無い。晴れた空に星が良く映えた。
ここでやっと、自分が誰なのかが思い出されて来た。自分の名前は…そうだ、ジタン、ジタン・コッポラだった。それで、ええと…なんだっけ?
鼻腔に届いた夜の森の匂い。澄んだ空気、なんてものじゃない。とても重くて噛めそうなくらいだ。自分の呼気か、はたまた山の植物に呑まれるような、大木や長い蛇の様な蔦や蔓が瘴気でも吐き出しているのか、とにかく鬱屈とした感じだ。正真正銘の山奥とは大変に息苦しささえ感じるのだと思い出した。
「ジタン、ジタン・コッポラ…俺は、ジタンで、それで、そうだ、チェキータもいたな、それとレーム、フロイドに、キャスパー、ココと……。」
浅い息をしながら、自分の名前や知ってる人間の名前を繰り返し呟いた。今は少しでも早く頭を再起動させなければ。
脳震盪を起こしているのか、記憶は混濁していた。顎を摩ると擦り剝けて血が出ていた。直前の記憶は…何だったか。確かヘリに乗っていた筈である。
「あぁ、お、思い出して、来たぞぉ…そうだ、俺が、腹ぁ下した、せいで遅れて、キャスパー達とは、別れて乗って、それで、俺のヘリだけ防空網に、引っかかって…あぁ、クソッ!…空ぁ飛ぶと、いっつも、コレだッ!」
「そんで、ぇえと、無線だ、無線が来て、パラシュート降下して、まっすぐ進めば、先方の、基地に着くからって、そこで合流、するって、キャスパーが…言ってて、それで…」
「それで、ほッ…ぅうっ…つつ、他の、連中と一緒に、飛んだ、はずなんっ…だがねぇ…。」
「あぁ…ヘリが、30mmに撃ち上げられ、て…堕ちたん、だ…。」
頭を押さえてうんうん唸る。悩んだ末に、彼はひりひり疼く背中に手を伸ばした。そこには少し膨らんだバックパックがある。そう、何の変哲もないバックパックが…。
「あぁ…ガッデメッ!!何がッ!どうしたら…俺のだけ、りゅ、リュックなん、だよッ!」
「…ぐぅぅッ!?ほッんとにッ!運が、ねぇなあ…ッつう…い…。」
そう独り言ちた男は立ち上がろうとして、できなかった。激しい熱が左足に奔り抜けて、力なく倒れ伏してしまったのだ。余りの痛みに転倒した男は何とか仰向けになり、自分の全く力の入らない左足に目を向けた。
「…こいつは、酷いな…ははは、骨の髄がむき出しだぁ…。」
彼の左足は、膝から綺麗に逆方向に曲がっていた。更には膝から下の、何処の骨なのかはともかく、太い骨の断面が剥き出しだ。一目でわかる開放骨折だった。左脚以外はほとんど無傷だったが、逆に左脚は全く再起不能の状態だった。太腿に力を込めて諦めた。身じろぎ一つで断面が軋んだ音を立て、か細い流血が放物線を描きながら噴き出し、濃い緑の茂みを黒々と染めた。
「グッ…ゥゥゥううぅッ!か、片足一本で、済んだと、お、思う、べき、かぁ?」
気絶している間に夜になっていたということは、既にアドレナリンの鎮痛効果は皆無に等しい。剝き出しの痛みが男の全身に走り、瞬く間に全身汗みずくになった。頭のてっぺんから血と汗が止めどなく垂れて来る。眼に入ると痛い。俯いた顔の、頬を伝って更に下へと、鼻の頭に辿り着いた端からぼだぼだと粘っこい汗が滴り落ちた。口の端から喘鳴が漏れ、血混じりの唾液がつうっと顎を伝い、汗と一緒に水溜まりを作った。充血した眼を回しながら、自分の顔を気付けで二度三度張り、腰のベルトに手を遣る。眠っていた時間に失われた血液もあることだ、今は、今は一刻も早く止血をしなければ…。
ベルトを使い、傷口を膝より上の部分で鬱血するくらい締め上げる。痛いくらいに締め着けるのが重要だが、怪我が痛すぎて他の痛みが分からなかった。
ぜいぜい荒い息遣いでなんとか太腿より下を見放す覚悟でベルトを巻いた男は、救難の連絡をするために懐に手を伸ばした。忙しなくジャケットの中を探るも、電話らしきものはない。
「おいおい…冗談はよしてくれよ…。」
懐を続けて探り、体を起こして脱いだジャケットを逆さまにしても、それでも虎の子のイリジウム衛星携帯電話は見つからない。代わりにころりと落ちて来たのは銀色の小さな塊。
「なんだ?あ、これ、レームのあれか?」
拾い上げるとそれは、何時ぞやレームから預けられて以来、何かと便利に使っているライターだった。ライター本来の使い方ではこれまで一度として活用した記憶がないものの、困った時のライター頼みである。不思議なことに、このライターを擦ると意識がなくなるのだ。そして目が覚めると車の中だったり…とにかく気づくと厄介ごとが終わっているのである。無論、抜群に怪しいので滅多に使ったりはしないのだが…自分で使わなくても意識がなくなる時があるのは何故だ?と彼は首を傾げた。
兎も角、彼の持ち物は今や中身の期待できないバックパックと手の平に乗っかるライターだけであった。
絶望のあまり顔が青くなる。本当に何の物音もしない山中で一人切りなのだ。気が狂いそうになり、堪らず叫んだ。
「ど、どッ…何処じゃァァァア!?ここはぁああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
だが当然助けが来ることも、彼の問いに答える者も現われはしなかった。
現在、ジタン・コッポラは西アジア某国の鬱蒼とした山中にて、絶賛遭難中である。