結果的に、ジタンは帰って来ることが出来た。
だが、その人格は少年兵になる前の良心と正義感、少年兵の頃の過剰なまでの無機質さと冷酷さをも内包するようになっていた。表情が乏しくなり口数が減り、しばしばノイズに悩まされる様にもなった。魘される度に<ヒマワリ>の夢を見るのだ。夢の中で何者にも囚われていなかった頃の幼い自分、何も知らなかった自分と対峙する度に、ジタンは子供に返ったように泣いた。小さく背を丸めて眠る癖も戻ってしまった。
不安定で無様すぎる自分に絶望したジタンはチェキータから距離を取ろうと試みるも、これを拒んだのはほかならぬチェキータだった。彼女は不安定で今にも崩れそうになってもジタンのことを、否、そんなジタンだからこそ、それまで以上に強い愛情を彼に注ぐようになった。それは病的なまでに深刻でいて寛容だった。
チェキータはジタンに対してあるマインドセットを染み込ませた。
一つは自分の正義感や良心に対して素直に行動すること。人助けであれ、人殺しであれ、ジタンは規範に捉われないで済むようになる。
そして一つは女を抱くこと。もっと直截的な言い方をすれば、心を許した相手との、或いは何か優位性を有する相手…具体的には命の恩を売った相手とのセックスが、彼の中に蟠る絶望をリセットする為の
チェキータに対する不義理や不誠実にジタンは反発したが、彼女は止まらなかった。先ずは自分から、そして次…とチェキータはジタンに対して少しずつ、しかし確実に調教を施していった。
チェキータは紛れもなく愛情故にそれら一連の調教に勤しんだ。他者から見て狂気だとしても、チェキータにとっては狂喜だった。
回数を重ねて慣らしていくうちに、ベッドの上で過ごす二人の時間は母と子のものから、姉と弟のものに、初々しい男女のものから、燃え上がる情欲にめくるめく初夜の夫婦のものへと変遷して行った。
チェキータはジタンが初めて<ヒマワリ>の夢を見た日以来、初めて肌を重ねることに成功した時、泣きながらも自分を離すまいと必死にしがみついて腰を振るまでになった男の姿に、この上ない感動を覚えた。その想いは正に狂喜と呼んで差し支えなかった。
快楽に喘ぐ貌をうっとりと火が付くほど見つめる度に、彼女の中の女としての愛情と母性は同時に成就を果たした。この時に全身を駆け抜けた絶頂に勝る快楽と愉悦に比肩するものは、チェキータの全人生を振り返ったところで皆無であろう。
女の下で、或いは上で。一人の男が、この世に一人だけの男が自分の手で狂っていくのだ。
最早、その女が自分であろうが自分でなかろうが彼女には些末な事象に過ぎなかった。ジタンに自らを救済する為に必要な快楽と平穏の技法を、一から全て教え込んだのは自分なのだから。
ジタンが女を抱く時、彼は常にどこかで無意識にもチェキータのことを想うのだから。彼はチェキータに教えられた通りに、チェキータが彼にそうしてくれた様に、チェキータが喜んでくれて褒めてくれた通りに、チェキータ以外の全ての女をも愛するのだ。他の女は一生気づくことなど無いだろうが…だがそれで好かった。少なくともチェキータはジタンとの二人きりの世界で、その身が欲する幸福の全てを完結させたのだから。
ジタンは最早チェキータを殺せない。彼に自覚が無かろうと、チェキータにはそれが分かった。なぜならば自分も同じだから。そして、もう決して切れない繋がりが結ばれたと確信した所で、チェキータはジタンを調教から解放した。
重篤な依存などの後遺症もなく、きっぱりと次の戦地へと赴くジタン。彼との暫しの別れは寂しいだろう。だが、その寂しさが今以上に強い愛情を彼女の中で煮詰めるための時間になるのだからと、チェキータはジタンにより広い世界を視てくるようにその背中を押した。
チェキータから離れたジタンは、しかしチェキータの調教通りの生活を無意識下で実践することで精神の崩壊を防いでいた。
彼はその硬派な性格とは裏腹に、多くの出逢いに恵まれた。その良心に従い行動し、女子供だけはどんな大金を積まれようとも手に掛けず、また納得できない依頼に対しても迷いなく自身の意志を尊重し、死と生存を文字通りに司った。そして、誘蛾灯に誘われる蛾の様に、世界各地の戦地とアンダーグラウンドに赴くや、その実力を遺憾なく発揮した。21世紀早々に、彼は最早知らぬ者のいない恐怖と崇敬の代名詞として、大成したと言っていい存在となった。
行く先々で死線を潜り抜け、誘われるがままに死地に飛び込み死に触れそうなほど近づくたびに、奇跡のように弾道が逸れ、太刀筋が逸れ、破片が逸れ、ジタンは必ず生還した。世界でも指折りの危険な男となった彼は、その狂気に見合う凶暴性を秘めた異性を恒星の如く強烈に惹きつけて已まなかった。
もはや神に愛されているとしか考えられなかった。それほどにジタンは向かう先で死地に遭遇し、周囲を血と死臭のする戦場に作り替えたのだ。平穏な日本でさえ、ジタンに平穏を分け与えることはなかった。一方で、彼にチェキータとは異なる方法で希望を与えもしたが…。
もう一つの希望の話は別に語るとして、彼の伝説と浮名は世界を駆け巡り、広い様で狭いこの業界の片隅で暮らすチェキータの耳にも、その噂は届いていた。
彼女はジタンが自分の調教通りに、健気に生きる様を思い浮かべては、その度にレームにその悶々たる切なさを、仕事での愚痴とともに語って聞かせた。結婚したとはいえ、チェキータにとって結婚とは実務上の利益を追求した結果だった。共同生活で仕事上での相棒との信頼を醸成し、連携をより円滑に行うための手っ取り早い手段…以上のことは考えておらず、その実二人の結婚生活は実戦形式の連携を極めるためのブートキャンプが9割であった。
残りの一割で惚気と愚痴とを聴くうちに、気の好いレームに至っては一応妻であるチェキータよりも、彼女の語るジタンへ強い興味を抱く程だった。
チェキータはレームとの連携が必要な時以外は唐突に離婚を持ち出す癖があり、初めは面食らったものの、適応したレームはすぐにチェキータとジタンの再会が近いことを悟った。
野性的な勘なのか、女の勘なのか…離婚の直後にジタンと再会することはほぼ確実なことだった。レームは一応妻である女性をここまで狂わせるジタンと言う男に尊敬と恐怖を抱いたものだった。
そして9.11の直前、レームは珍しく取り乱したチェキータの姿を記憶していた。
この時、電話越しにチェキータが聞いたのはジタンがアメリカでCIAの工作員として勤める内に出会った女性との結婚を考えているという報告だった。
ジタンもまた、チェキータのように結婚というものをしてみたいと思っていたのだ。だが、そこにはやはり純粋な好奇心があり、言うなれば自分が慕う女性と同じことがしてみたいと言う彼の中の幼さが、チェキータにとっては最悪の形で表出した結果なのかもしれない。
チェキータはこの時強い怒りを顔も名も知らぬ女に向けて抱いた。
何故ならば、ジタンが明るい声で「結婚してみたい女性がいる」などと報告したのはこれが初めてのことだったからだ。
それは女としての嫉妬ではなかった、なぜなら二人にとって結婚とはそれほど重大な事象ではなかったからだ。だというのに彼女が怒りを他所の女に向けた理由は、これまでになかった兆候だったからだ。
自分の知らないジタンを引き出した女がいる事実、そしてそのことがこれまでギリギリで抑圧し制御してきたジタンの精神と肉体とにどんな影響を及ぼすのか…想像もつかなかった。故にそのことにチェキータは焦りと怒りを覚えていたのだ。
そして結果を言えばチェキータの不安は的中した。
ジタンは9.11の最中、再び<ヒマワリ>と出会ってしまった。英雄的所業を達成し、結婚を年内にでも控えている状況で、激しい頭痛と鼻血を合図に、明滅し始めた視界の中で、彼は生まれるかもしれない自分自身の子供と、我が子に待ち受けるであろう過酷な運命を見せつけられた。
子供。それはチェキータが抑え込んできた思考の一つだった。
子供を作ることを、ジタンに考えない様にさせて来た理由には、チェキータにとってジタンこそが我が子同然でもあったからという側面や、チェキータの想定とは関係なく彼が見出したもう一つの希望が各地で拾った、血の繋がらない子供達を養育することだったからという側面もあった。
だが、何よりもジタン自身がその思考を拒んでいたのだ。
そこには彼自身が親を失ったからということもあるが、それ以上に自分は普通に生きていけないということを、子供と同じ世界で生きることは出来ないということを、誰よりも彼自身が思い込み、信じ込み、諦観の回った心身の奥ですっかり理解していたから、わかり切っていたことだからだ。
本来なら、どれだけ強い狂気的な刺激を以てしても、彼を変えることは出来なかったはずだった。
だがここに来て、彼の子供を拒む意志を司る人格が弱まり、無邪気な子供だった頃の、愛すると結ばれて共に子を産み育てる<普通>になんら戸惑いの無い、人格が強まったのだ。
理由は言うまでも無く、婚約者の女性の存在だった。彼女は軍を退役した一般市民だったが、軍事へ精通していることを除けば、それまでジタンが出逢って、心身を通わせた女性の中では飛び抜けて<普通>の女性だったのである。
凶悪な威力を用いても破壊できない砦を崩したのは、ほんの細やかな温度だった。それは、言うなればチェキータがそうだったように、デジャブのようにジタンの記憶と心身の門を開ける為に差し込まれた鍵となったのだ。
彼女はジタンへ猛アタックの末に交際に持ち込んだが、<普通>の口説き文句に、<普通>の交際、<普通>の待ち合わせ、<普通>のデート…その何もかもが<普通>を知らないジタンには劇薬だった。
そしてその<普通>が、皮肉にも結果的にジタンと婚約者の女性…後に名を捨て
テロリストを殺し尽くし、また一つ世界の火種を踏み消し、或いは数万人もの無辜の生命を救った直後に起きた出来事だった。血塗れの手を見下ろし、立ち尽くす彼を覆ったのは結局自分は何処も変わっていなかった、戦場からは逃れられないのだ、という事実だった。
ジタンの記憶にはどれだけの血に塗れていない潔白な記憶があるだろうか。そこにどれだけの赦され得る余地が残されていただろうか。彼の記憶は自分が殺した人間の死相でいっぱいだった。その頂で小さく輝くものがあったとして、自分が内に秘めるこの全てを何に昇華できるのだろう。<普通に暮らしたい>という強い意志は、いつの間にか宝くじの一等の様な、決して手に入ることのない夢に風化していた。
もしも誰かと結ばれたとして、彼女達は<普通>の自分を愛してはくれないかもしれない。「どれだけ人を殺したと思っている。お前にそんな資格はない」と、軽蔑され、見捨てられるのではないか。見捨てられなかったとして、自分の子供を腕に抱いた時、自分は何を考えるのか。それはきっとこの子が、自分のように親を、自分や自分の大切なものを殺すかもしれないという不安とビジョンで塗りつぶされているに違いない。
チェキータとも、HEXとも…自分の愛する誰とも、子供を産み育てることが許されない現実は、自分を自分で赦すことが出来ない現実は、遂に生と死の均衡を崩した。絶望がジタンの生命を刈り取ろうとした。頭痛と眩暈、止めどなく流れる鼻血と共に、彼はバランスを崩した。
一線を越えてしまったジタンは、糸の切れた人形のように、未だ高度の下がり切っていない飛行機の、こじ開けられた搭乗口から身を投げた。意識が喪失する直前の、じゅわっと広がる暗闇の中でジタンは手を伸ばした。
何か、救いを。
その一心で手を伸ばし、海面へ真っ逆さまに落ちる中、手に収まったのがライターだった。
テロリストか、或いは乗客の落とし物か…ジタンは朦朧とする中で意味もなく、祈るような気持ちでライターを擦った。
幻で好いから「普通に暮らしたい」…と。
<<カシュンッ!>>
キラキラ光る涙の滴が頬を伝って空を遡り行く。海の青黒い顔が画面一杯に広がる。
ライターに火が付くと共に、ジタンの脳裏で満開の<ヒマワリ>が
ヒマワリ…花。不思議な黄色い花。所有者はジタン・コッポラ。彼の深層心理に深く根を張っている。花の意志の有無や詳細は不明。ジタンの心身を通じて、自分自身や他者に作用することもある。