映画『バービー』は史上最高のアンチフェミ作品
というわけで見てきました映画「バービー」。公開前から原爆ミームを用いたハッシュタグが日本国内で大炎上したり、「強烈なフェミニズム映画」という否定的な感想を漏らした人気漫画家がこれまた大炎上したりと、映画の内容以外が謎の可燃性を見せている作品です。
正直観る気は欠片もなかったのですが、Twitterのフォロワーから「ぜひ観て感想を教えてくれ!」的なマシュマロが大量に投稿されておりまして、不本意ながらもようやく重い腰をあげて映画館まで足を運びました。
いやだって、観たくないじゃないですか。銃撃戦も怪獣もロボも宇宙もエイリアンも剣と魔法も出てこない映画なんて、誰が見るんだよという気持ちしかなかったんですよ。
世界の映画興行収入ランキングを見てください。アバター、アベンジャーズ、スターウォーズ、ジュラシックパーク、ワイルドスピード、トップガン、ハリー・ポッター…。みな「銃撃戦、怪獣、ロボ、宇宙、エイリアン、剣と魔法」の黄金律を有しています。例外はタイタニックくらいです。あれだって、クソデカい船が沈むという映像的な「引き」はありました。
それに比べて、「バービー」は一体なんなんでしょう。「お人形が人間になっちゃった!」的なファンタジーではあるんですが、自分はバービー人形になんの思い入れもないですし、予告編を見る限りは「アーパーな女どもが歌って笑ってのバカ騒ぎを繰り広げるお気楽コメディ」という感触しか伝わってきません。
というわけで本当に観たくなかったんですが、「観てくれ!」というメッセージがあまりにも来るので、嫌々時間を作って観に行きました。で、観た上で言うのですが、傑作と言ってよいアンチ・フェミニズム映画です。
バービー人形の歴史的立ち位置
まずは「バービー人形」というアイテムの歴史的立ち位置を軽くご紹介しておきましょう。バービー人形をひと言で表せば「おままごと」という遊びに一種のブレイクスルーを興した歴史的な少女用人形です。
映画内でも語られているように、1959年に「バービー」が登場するまでは少女用の「お人形」というのはほとんどが赤ちゃんでした。キューピー人形などを使い、少女自身がお母さんを演じるという遊び方しか当時は存在しなかったんですね。
ここら辺の事情は日本文化史の生きた教科書とも言うべき「こち亀」にも記述があります。日本でバービー人形のオマージュ商品である「リカちゃん人形」が発売され普及したのが1967年。それまではキューピー人形などの赤ちゃんフィギュアが女児の遊びにおける定番アイテムでした。
ここにバービーが登場したことにより全てが変わります。人形の赤ちゃんを用いて「お母さんごっこ」をするしか選択肢がなかった少女たちは、バービーを、つまり「着せ替え人形」(fashion doll)という新しい選択肢を手に入れたことで全く新しい遊び方を手に入れます。
それは「お母さん」以外のロールプレイです。少女たちはファッションモデルや、お姫様や、ダンサーや、医師や作家や弁護士としての人生をバービーを通じて夢想し始めます。時代は1950-60年代と、第二派フェミニズムがまさに始まりかけた時代です。
今となっては少々想像しにくいですが、「ファッション」というのは当時としては多分にフェミニズム的な意味を有する文化でした。「女性が肌を見せるなんてはしたない」「女性が派手な恰好をするなんてとんでもない」というのが20世紀前期までの価値観ですから、バービー的なファッショナブル・ガールというのはフェミニズムと強い関係を有しています。実際、バービーのような女性的な(つまりは胸の膨らみがありセクシーな)人形を発売することには、当初マテル社の中からも根強い反発があったそうです。しかし映画にも登場する「バービー」生みの親であるルース・ハンドラーは「セクシーな女性の人形だからこそ重要なのだ」としてバービーを今の形で世に生み出しました。
ここら辺の事情は、特に米国においては「一般常識」であるようです。日本で言うなら「ゴジラが放射能との強い関わりを有してる」的な話でしょう。大人であれ若者であれ、バービーの有する歴史的文脈というのは共有されており、だからこそ「バービー」の映画化からジェンダーをめぐる議論が活発化しているわけです。
日本はバービー人形がそれほど市場シェアを獲得しなかった上に、オマージュ商品である「リカちゃん人形」が広まったのも1967年以降とやや時期がズレており、「第二派フェミニズムの旗手としてのバービー」というイメージを持ちにくいのだと思います。ここら辺は映画を見る前に知っておくと映画を観る上での補助線として機能してくれるかもしれません。
フェミニズム・ユートピアの憂鬱
ここからは映画のネタバレ全開で行くのでご了承ください。と言っても、ネタバレを観て面白さが減ずるタイプの映画ではないと思うので、本稿を読んだ上で観に行くというスタイルでも全然良いとは思います。
映画のバービー人形たちは、「バービーランド」なる異世界で生活しています。どこもかしこもピンクで、毎日がハッピーな出来事で一杯な世界。この世界では大統領も、道路工事の作業員も、医者も物理学者もノーベル賞受賞者もみんながみんなバービー、つまりは女性です。彼女らは毎日ビーチで遊んだり、「女の子だけのパジャマ・パーティー」を開催したりして幸福な暮らしを営んでいます。
バービーランドにも、男性が存在します。それは「バービーの恋人」として設定されているケンたちです。彼らはみな何の仕事もなく、ただバービーたちの気を惹くためだけに存在しています。それもそのはず、ケンとは「バービー人形のオマケ」だからです。ビーチで肉体美を見せびらかしてバービーの気を惹こうとするだけの存在、バービーにロマンスの予感を感じさせるためのアクセサリー、それがケンです。ケンは仕事がないどころか家すらなく、パーティーに出ても「女子だけのパジャマ・パーティー」が始まると追い出されてしまいます。
そうした状況にフラストレーションを貯めるケンは、ある日バービーの気を惹こうと危険なサーフィンに挑戦し、大失敗して病院に運ばれます。周りから軽く扱われ、バカにされ、バービーに肉体美を見せる以外に役割を持たないケン。そんなケンが病院に運ばれた夜、主人公バービーははじめて「死」を意識してしまいます。その結果バービーランドと現実世界が「割れ目」を通じて繋がってしまい、バービーにも様々な悪影響(肌荒れができるなど)が生じ始めます。この問題を解消するためにバービーとケンが現実世界を冒険する、というのが本作の基本ラインです。
フェミニズムに多少の知識がある読者であれば恐らくおわかりのことだと思いますが、バービーランドは一種の「フェミニズム・ユートピア」として描写されています。女性が活躍し、女性同士の絆(シスターフッド)が築かれ、全ての女性が自分らしく生きることができるユートピア、それがバービーランドです。
男性(ケン)もみな女性を尊重して、女性が嫌がるようなことは決して行いません。また太ったバービーや車椅子のバービーはバービーランドにも存在しますが、太ったケンや車椅子のケンは存在しません。セクシーでない男性や障碍者の男性(つまり非モテ男性)に煩わされることもないのです。まさにフェミニズムの理想郷が実現しています。
しかし、そんなフェミニズム・ユートピアにおいて、男性(ケン)はまったく幸せそうではありません。
それもそのはず。バービー世界における男性の立ち位置とは、フェミニズム以前の女性像をそのままミラーリングしたも同然のものだからです。なんの仕事も社会的役割もなく、ただ性的な肉体としてのみ欲望され、「女社会」にも参入することも許されない。フェミニズム・ユートピアにおいて、フェミニズム以前の女性差別的世界が形を変えてそのまま現出している。かなり辛辣なフェミニズム観が冒頭から提示されます。
アンチ・フェミニズムに目覚めるケン
バービーとケンは「裂け目」を埋めるために現実世界へと赴き、様々な場所を冒険します。主人公バービーは今や「バービー」が時代遅れなオモチャであまり愛されていないことや、バービーの製造元のマテル社の重役が男性ばかりであることにショックを受けます。
一方でケンは、「現実世界」において男性が尊重されていることに衝撃を受けます。ケンは繰り返すように「バービー人形のオマケ」です。なんの役割もなく、仕事も家さえもなく、バービーに気に入られることだけが存在意義なのにあらゆるバービーたちから軽んじられています。バービーとケンが同じ行動をしてもケンだけが叱責される、という有り様です。
しかし現実世界は全く違う世界でした。男性が工事夫として働き、男性が警官として働き、男性が男同士の友情を築き、男性が証券セールスマンとして働いています。そして道行く人々はみな「男性」であるケンを尊重してくれるのです。道行く人に「いま何時かわかりますか?」と丁寧語で時間を尋ねられたケンは、幸福の絶頂を味わいます。「丁寧語で時間を尋ねられる」程度のことすらバービーランドでは起こらなかったのです。なぜ人間世界がこれほど変わっているのかを調べるためにケンは図書館に行き、そこで「patriarchy」(家父長制。字幕では「男社会」)について書かれている本を見つけ、これこそが原因だ!と考えます。そこでケンはバービーランドにpatriarchy(家父長制)を広げ始めるのです。
…言うまでもなく、このシーンにおけるケンは、1950-70年代に「バービー」に衝撃を受けた少女たちと全くの相似形を描いています。
「男だって工事夫になれる!男だって警察官になれる!男だって医師になれる!男だって丁重に扱われていい!男同士の友情だって大切だ!」というメッセージを、ケンは(異界である)リアル・ワールドから得たのです。これは「女性だって職業を持てる!何にでもなれる!」というメッセージをバービーランドから得た我々リアル・ワールドの人間と全く同じです。
そこから世界そのものを改革していったのも、「バービー」で遊んだ少女たちと全く同一でしょう。ケンはpatriarchy(と言っても、作中で描かれてるそれは女性抑圧的なものでは全くないのですが)をバービーランドに広げ、そしてバービーランドはしだいに「ケンドム」(Kendom=ケン王国)に変容していきます。
女性を洗脳するフェミニズム
自分が特に驚いたのがここからです。バービーランドにpatriarchyを広め始めたケンの影響によって、バービーランドは少しずつ変わっていきます。それまで大統領や作家や医師や物理学者をしていたバービー(女性)たちは、「こっちの方が楽しいわ!」と笑いながら専業主婦、メイド、ウェイターなどに姿を変えていきます。
ここは重要なポイントですが、ケンは特に何も強制していないのです。なんの暴力も振るっていません。バービーランドには一丁の銃すらありません。争いごとが起こっても終いには歌とダンスになってしまうのがバービーランドです。
そんなバービーランドの人物であるケンも、なんら暴力を振るいません。映画のシーンを素直に評すれば「大統領や作家や医師や物理学者であるより、女性らしい生き方の方が幸せ!」というテンションでバービーたちは次々と変わっていきます。そこにケンの強制はありません。彼は単に「リアルワールドでは男性も尊重されている」という事実を知らしめただけです。
「バービーランド」から「ケン王国」に変わっていく世界を観て、主人公バービーたちは「ケンによる洗脳だ!」と考えます。そして「洗脳を解く」ために個々のバービーを拉致して「女性がいかに差別されているか」という物語を吹き込んでいくのです。
これ、凄いですよね。信じられないかもしれませんが、マジでこういう映画なんですよ。「ケン王国」には洗脳などなく、みんながただ自分がやりたいことをやった結果として性役割分業が出来ていくのに、それをフェミニストたちは「家父長制による洗脳だ!」と騒いで自分たちこそが洗脳し始めるんです。
確かにフェミニズムに批判的な論者は、こうした世界観を有してます。「家父長制」なるものは基本的に存在しない虚構だし、「女性は差別されている」という陰謀論的世界観こそがフェミニズムの本質だという主張はアンチ・フェミニズム論壇ではしばしば語られる主張です。ですが、映画「バービー」で、フェミニズム・ムービーとして名高い本作でその主張を目の当たりにするとは流石に思いませんでした。
民主主義を踏みにじるフェミニズム
というわけで映画に戻りますと、主人公バービーらの活躍により、バービーたちは「洗脳が解かれ」始めます。そうして結託したバービーたちは、バービーランドを元の世界に戻すため一計を案じます。その手段というのがまた凄い。選挙妨害です。
バービーランドでは「バービーランドをケン王国にするか」を決める国民投票が予定されていました。もし投票がまともに行われてしまうと、バービーランドはケン王国になってしまうかもしれません。そのためにバービーたちはハニートラップを仕掛けてケンたちを仲違いさせるという行動に出ます。直前までは「あなたを愛してる」と言い寄ってケンたちを喜ばせ、投票日前日の深夜に他の男になびくことでケン同士の争いを勃発させたのです。
これも凄いですよね。「男同士の争いが起こるのは女が原因」というミソジニックな世界観を完全に内面化しています。まさかフェミニズム映画と名高い本作でここまで女性嫌悪的な描写な為されるとは想像もしていませんでした。
バービーたちの計略にまんまとハマったケンは投票日をすっぽかしてしまい、投票所はバービーに占拠されます。こうしてまんまと投票妨害に成功したバービーたちは、女性しかいない投票所で女性だけの投票を行い、ほとんど元通りのバービーランドを築き上げるのです。
女の子ってサイコー!だけど…
ここまで読んでくれた方は、世間評とのギャップに少々びっくりしたかもしれません。確かに本作は「フェミニズム映画」として各方面から賞賛されており、悪評は概ね「説教くさいフェミ映画」と言ったものばかりです。
確かに映画の表層だけを見ればフェミニズム的なのかもしれません。エンパワーメントされた華やかなバービーたち大活躍し、家父長制を掲げたケンの挑戦は間抜けな失敗に終わります。「善側」のキャストは全員が女性で、逆に言えば男性キャストはほぼ例外なく「悪役」として描かれています。これだけ見れば、確かにフェミニズム的です。
しかし映画を深層を除くと、そこは驚くほどに女性嫌悪的な世界観が伺えます。フェミニズムは男性社会の劣化コピーで、女性は本音では女性らしく生きたいと思っていて、フェミニズムは女性を抑圧し洗脳していて、女はズルばかりして民主主義を破壊する───そんな「裏テーマ」とでも言うべきメッセージが至る所に散見されるのです。
個人的に、この作品からは女性の女性に対するアンビバレンツな感情のようなものを強く感じます。作中の台詞に「男も女も、女のことが嫌いだよ!」というものがあるのですが、本稿で見てきたように本作には「女性の、女性に対するミソジニー」が確実に存在します。しかし一方でバービーたちの見ているだけで楽しくなってくるようなパーティーなど「女の子ってかわいくて楽しく最高!」というメッセージも確実に内包されているわけで、単純に女性を善とも悪とも描かない複雑性を有しています。
つまり、ガールズエンパワーメント的な文脈を持つ「フェミニズム映画」として本作を受容することも一面では間違ってはいないのです。「バービー」は米国内で「左派からも右派からも評価される作品」という独特の立ち位置を築き始めているのですが、それは本作の持つ多面的ゆえでしょう。史上最高のアンチフェミ映画であると同時に、史上最高のガールズエンパワーメント映画でもある。それが「バービー」という希代の怪作です。
「説教くさいフェミ映画」という前評判から本作を敬遠している方ほど、本作を観て新鮮な驚きを感じられるのではないかと思います。少なくとも2000円分の元は取れることは完全に請け負いましょう。おそらく映画史に残る本作を、劇場で見ておくのも夏の過ごし方として一興ではないでしょうか。
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以下では購読者向けに、本作の裏テーマの裏テーマである「信仰」のお話について触れていこうと思います。
本作は至る所に聖書的なモチーフが散りばめられており、特にアダムとイヴの楽園追放を下敷きにして物語そのものが組み立てられています。それがわからなくとも一応は楽しめるのですが、これを踏まえないと作品の核心的なメッセージは見えてきません。
例えばバービーは、
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