血の命令
「誰だッ」
アドは振り返る。
黒い影はすばやく移動し、アドの脇をすり抜けた。影の外套の下から白い足が垣間見え、アドの視線が思わずそれに向けられた瞬間に、アドはその黒い影に背後を取られて両手と口を
「んんっ!?」
そいつは耳元で
「ご無礼をお許しください、アド様。私はルキです」
アドは目だけで横を向く。黒い髪が雨に濡れた姿は、こんな暗がりだとフードをすっぽりかぶった黒マントに見えなくもない。つまり、彼女はルキだった。
ルキはアドを解放し、申し訳なさそうに目を伏せる。
「罰は受けます。ただ、いきなり大声を出すものですから……」
「ああ、ちょっと手荒すぎたかもしれないな」
彼女に犬の耳が付いていたら、ぺたりと後ろに倒していただろう。眉がハの字になっていた。
アドはそんな姿を見て、笑みを浮かべた。
「冗談だよ。来てくれて助かった」
「もう。アド様っ」
努めて小さな声で
「ははは。で、状況はどれくらい把握してる?」
アドもまた小さな声で笑った。すぐに改まってルキの口元に耳を寄せる。
「黒いマントで正体不明の者が数名。また、計画的な犯行かと。組織だった動きも見られます。使用された暗器を見るに構成員に東側の者がいるかもしれません。ただ、なぜか敵対的で攻撃的です。アド様、何か彼らに狙われるようなことを?」
流れるように説明する。
アドはルキから耳を離し、胸を張った。
「俺がアキレス家のアドだと言った」
ルキは「バ」とつぶやき、口をもごもごさせ、最後にしかめっ面をした。
「……しょうがないですね」
言いたいことを飲み込んだらしい。次にルキはアドの背中を手で支えるように押して、天幕のそばへ寄った。テントの布を
アドは身をかがめて中に入った。木箱に囲まれ、黒マントたちの死角になっているようだ。雨音がテント内で反響し、不快な振動がみぞおちのあたりに伝わる。反響しているのは雨音だけじゃないらしい。かすかだが、男の怯えた悲鳴が聞こえてきた。商人が脅されているようだ。きっと助けを呼んだと思われたのだろう、アドがやってきたせいで。
「商人も間が悪い男だ」
「間が悪いのはアド様ですよ」
引き裂いた天幕を手で押さえながらルキがもの言いたげな目をした。ちょうどその時、天幕の外を誰かが通った気配がしたが、すぐに去っていく。
「何を言う。俺は正しい。むしろ強盗が入る日にロザリオを売った君が……」
言い返す途中でアドは目を細め、ルキを見た。
「ん? そういえばどうしてロザリオを売ったりなんかしたんだ?」
「お金がないからです。アド様が王立学院を追い出されて旦那様からの援助を切られているのに、毎日遊び歩いて社交界に顔を出したことは1度もありません」
「おいおい。金は入れてるし、生活は出来てる。あと、俺は追い出されたんじゃない」最後は強調するように「やめてやったんだ」
「アド様が社交界を嫌うのは勝手です。でも、他の貴族があなたを何とお呼びかご存知ないのですか?」
アドは顎に手を当てて思案し、
「……アキレス家を騙る不届き者?」
昼間、借金取りに言われたことを思い出した。
「
ある家名を騙る者というのは、言い換えれば非国民や売国奴に近い蔑称だ。とはいえ、放蕩貴族もなかなかの蔑称に間違いない。
しかし、アドは鼻で笑った。
「やつらが言いそうなこった。はっ、放蕩貴族、結構結構! 昼間は賭場に入り浸り、夜は酒場でばか騒ぎ。おまけにこんな美人を侍らせてんだ。妬まれてもおかしくないわなぁ」
侮蔑にすら開き直ってしまうこの男は、権謀術数が渦巻く社交界でやっていけなくて当たり前だろう。時が戦乱なら活路はあったかもしれない。
「分かってるんですか。私、アド様の女だと思われてるんですよ?
二人が乳兄弟なのはルキの書類上の親が乳母になっているからだ。そして乳兄弟は結婚を禁じられているため、冠婚葬祭を仕切る寺院からすれば、乳兄弟で男女の関係を持つ者を許しはしないのである。
「それで引っ越すための金が必要というわけか。魔石は高く売れる。だけどロザリオは売れない。それで闇社会で捌ける天幕商人に売りきたと」
魔石は
「はい」
二人は目を合わせる。互いに正しいと思っているので目をそらなさい。先に目をそらした方が負けなのだ。正しさを主張する背景は理性ではなく感情だから、二人とも同じタイミングで目をそらす。長い付き合いだ。
「オーケー。わかったよ、ルキ。俺が悪かった。具体的にどうすればいいかまでは決めてないけど、とにかく不自由な暮らしはさせないと約束する」
アドはお手上げのジェスチャーをした。
「私こそ、差し出がましい物言い申し訳ありません」
ルキは片膝立ちになり、頭を垂れた。
うつむいたルキの眼の前にぽつりと血が滴る。
「アド様、お怪我をされてるのですか!?」
目を見開いてまるで緊急事態のような振る舞いだ。
だが、アドの怪我というのは人差し指の腹をちょっと深めに切った程度のもので、普通なら血相を変えるようなものではない。
「大したことないからだいじょ、……って、ちょっ、ル、ルキ?」
ルキはアドの人差し指を、ぱくり、と小さな口で咥え込んだ。ひんやりした唾液にくるんで、指先を前後にこする。熱を帯びはじめた舌の先で、爪の付け根から関節あたりまで伸びる傷口を執拗にねぶった。泡がぬるりと唇に垂れる。それをはしたないと思ったのか、チラリと上目遣いがアドに向けられた。
アドは唐突に指をしゃぶられた割に落ち着いている。これが奇行だと思っていないからにほかならない。
「この程度の出血はルキの使命に入らないと思うぞ」
ルキは口をすぼめ、唾液をすすりながらアドの指を引き抜いた。彼女の頬が上気しているということはなく、単に仕事として遂行しただけという感じだ。その証拠に淡々とハンカチでアドの指の唾液を拭き取った。
「血の命令は絶対です。付き人としてアド様に血を一滴たりとも流させるな、とだんな様から命令を受けています」
ハンカチで自分の口元を拭きながら答えた。
彼女の忠誠心の高さは一級だ。しかしながら融通がきかない側面もある。
「それは喩えで、俺の命を守れってことだ。この程度の傷で俺は死なないよ」
「いいえ。アド様に傷ついて欲しくないだけです」
アドは言葉に詰まって冗談めかす。
「愛されてるなぁ、俺」
「ええ。ですがそれはアド様も同じだと思います。ロザリオを売ったと話したら、いくらで売れたかも確かめずに飛び出すのですから」
たしかにそうだった。
雨が降っているのもおかまいなしに飛び出した。
「それは君の大切なものを取り返したかっただけで……」
「ええ、アド様は物の価値より私の気持ちを一番に動いてくれました」
そう言われるまでアドは自分がなぜ飛び出したのかを考えていなかったらしく、ルキに何も言い返せないまま「うーむ」と唸るばかりだ。
見かねたルキはふっと笑って、
「愛されてるなぁ、私」
先ほどのアドの台詞を真似して言った。ちょっぴりドヤ顔。
アドは後頭部を掻く。
二人は対等で、主従で、兄妹で、幼馴染だった。
その時、テント内のどこかで耳を劈くような高い声が響いた。
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