エンカウント
あまりに高い音だが、それが声に聞こえたのは高音と低音が混ざりあったものだったからだ。
次に鼓膜を震わせたのはガラスが割れる音。液体が飛び散る音もした。
「アド様、下がって」
ルキがアドをかばうように身を乗り出す。
今度はしゃがれた男の声が聞こえた。怯えて震え、詳しく聞き取れない。
二人はその声に耳を傾ける。
男の悲鳴/金属がこすれる音/女の金切り声/風雨/足音/
交差・反響する雑音の中、聞き取ったキーワードにアドはルキと目を合わせる。
「今、モンスターと言ってなかったか?」
ルキは首を横にふる。
聞き間違いだと考えたのだろう。
「ですが、混乱に乗じて脱出できるかもしれません」
ルキはこれを好機とし、天幕を抜け出そうと試みるが、アドに肩を掴まれ止められる。振り向いた先、アドの横顔は妙に確信めいた鋭さがあった。
「どうしましたか?」
「なあ。本当にモンスターがいたとしたら、ここはどうなる?」
木箱の向こうを透かすように見ながら尋ねた。
ルキは即答する。
「天幕が崩れ、周辺の人はモンスターに襲われます」
「なるほどね」
心なしかアドはリラックスしているように見えた。肩肘に張った力が抜け、ゆっくり落ち着いた呼吸をしているせいか、はたまた自信にみなぎった笑みを浮かべているせいか。そういえば彼は遊び人だ。何かの流れを感じているのかもしれない。
「急ぎますよ。今は逃げるチャンスなんですから」
今度はルキがアドの肩を掴んだ。
しかし、アドの山のような体は微動だにしない。
「何を言う。今こそ汚名返上のチャンスさ」
「はい?」
「『
謝るような言い方で肩を掴んだルキの手に手を重ねる。
ルキは唸り、
「……しょうがないですね、とは言いませんよ。ダメです。命を落とす危険があるのを付き人の私が黙って見過ごすわけがないでしょう?」
その眼光をアドにぶつけた。
アドと目が合う。先に目をそらした方が負け。しかし、目をそらしたのは向こうだった。彼は正しさを主張しなかった。なのにアドの瞳は揺るぎない。
間違いない。アドは自分でも正しくないと分かっていながら、それをやろうとしている。アドの視線はすでに奇声が聞こえた木箱の先へ向いていた。
ルキは短いため息をつく。
「しょうがないですね。状況を把握したら然るべき機関に委ねましょう」
王都には軍や自警団、貴族の私兵たちが常駐しているし、スラム街から下層は暴力団が仕切っている。アドの出る幕はない。
ルキが木箱を重たげにどかし、先行する。アドもそれに続いた。木箱は高く積み上がっていたが、アドの肩がぶつかってもびくともしない。アドの靴底が、じゃり、と何か細かくて硬いものを踏んづけた。
「その辺り、ガラス片があるので注意してください」
「……そういうのはもっと早く言ってくれ」
アドは片足立ちで靴底を覗き、刺さったガラスをつまんで捨てた。そのあと、つまんだ指を合わせて首をかしげる。アドの指先には透明な液体が付いていた。匂いを嗅いだアドはふたたび首を斜めにかたむけ、「うーん」と唸る。
先行したルキがアドを呼ぶように手で合図を送った。指示に従う。木箱の陰から天幕の中央部を覗き込むと、天幕の中心を支える柱が見え、根本に瓶が転がっているのが確認できた。あらそった跡があり、鉄製の柱は傷ついて塗装が剥がれている。どうやら剣で切りつけたのだろう。そばに剣が落ちており、視線をその延長へ向けると、黒マントの男が倒れていた。広場全体に他の人影はない。
「倒れた男の仲間はすでに逃げたようですね」
ルキは広場に出る。充分に警戒した状態を保ちつつ、倒れた男に駆け寄る。フードを上げるが、反応はなかった。歳は40代半ばくらいだろうか。日焼けをした肌にいくつも傷のある中年だ。だが、彼に呼吸はない。ルキは男の胸に手をやる。
「……! 生きてる。気を失っているだけのようです!」
ルキはアドの返事を待つことなく男を仰向けに寝かせる。アドが急いで駆け寄って、男の胸の中央に両手を当てて体重を掛けながら2度ほどリズミカルに押す。すると、男は口からぬめりのある液体を吐き出した。苦しそうにむせた後、静かに呼吸を始める。意識はまだ戻らないようだ。
「溺れていたようだな。……だが、何に?」
天幕の外はひどい雨だ。それでも雨に溺れるとは考えづらい。周囲を観察するが、濡れた痕跡はない。なのに男の衣服はびっしょり濡れ、それに触れたアドの手のひらも湿っていた。
人差し指と親指を合わせ、離す。泡を含んで糸を引く、ぬめりのある液体。
「これは一体なんだ?」
その時、鼓膜を突き破るような奇声が天幕にこだました。
二人は硬直する。この世のものとは思えない響きに自然と体がこわばった。アドは油をさしていないバルブのように、段階的に首をひねって周囲を
視界の縁で何かがうごめく。
「ルキ」
静かなトーンで少女を呼んだ。
「見ています。あれは……、おっきなゼリーでしょうか?」
「ゼリーか、あれが」
ルキの微妙な
全体が半透明でぷるぷるとしたゲル状だし、潤いがあってつるりとした表面を考えると、たしかに大きなゼリーに見えないこともない。しかし、その大きさは尋常ではなく、大柄なアドの身長とほぼ同じくらいあった。
その安堵も長くは続かない。怪しいゼリーはぷるるんと動き出した。
「っ!?」
二人に緊張が走る。
ずるずると底を地面にこすりつけながら、着実にアドの方へ向かってきた。
「冗談だろ。動くゼリーなんて聞いたことがない」
「はい。食べたらおなかを壊しそうですね」
二人の声色は極めて冷静に聞こえるが、言ってる内容はトボけていた。おそらく理解が追いつかないのだ。自分の定規に当てはめて見なければ、目の前の奇っ怪なものが現実なんだと実感できないのかもしれない。
ふと、ルキが「あっ」と声を漏らす。
「どうした?」
ルキはすこし言いよどみ、
「アド様は覚えていますか? 子守唄代わりにしてもらった読み聞かせ」
二人が一緒の部屋で眠っていたほど幼い頃の話を持ち出した。
「ああ。いつも勇者の伝説ばかり聞かされていた」
「それですよ」
食い気味にルキが答えた。そして物語風に続ける。
「『魔王は魔法の源・魔力を吸い取るモンスターを造り、人々を襲わせました』」
ルキの話なんておかまいなしに、ゼリー状のそれが二人へにじり寄る。人間四人分ほどの幅がある球体だ。目と鼻の先に現れると圧迫感がある。
「『最初に現れたモンスターはスライムでした』」
この液状球体がスライムというモンスターなのだとルキは言った。
「『勇者は魔法でスライムを倒しました』とさ」
ルキは優しげな口調で話すのをやめた。
「アド様! モンスターがいたのなら、勇者もいたってことですよね!?」
今まで見せたことないほど興奮した顔でルキが尋ねた。両手は胸のあたりでグーに握られている。夢が夢じゃなくなった。現実に抑えられた感情が爆発した。
急に大声を上げたルキに向かって、スライムが突進する。
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