日本に住んでいることの愉しみのひとつに、この国の土地に重層的に積み重なって足下から囁きかけてくるような「歴史」があります。
駿河台の「山の上ホテル」から三省堂本店へ裏道を抜ける途中には「錦華小学校」がある。漱石先生が出た小学校であって、わっしなどはこの小学校の脇を通り抜けるときには千円札のチョビ髭を生やした顔をした漱石先生がランドセルを背負って半ズボンをはいている姿を思い浮かべる。
青山をジョギングして通るときには、必ず、正津勉の
「午前十時
ち、ち、ぶっ、と開く秩父宮ラグビー場」 という詩を思い出します。
これを必ず思い出すせいで、具合が悪いこともある。
他に人がいない外苑をぶわっとデカイ外人のにーちゃんが真っ赤な顔をしてにやにや笑いながら走ってくるので、向こうから来た犬を連れた女のひとがわっしを大げさに避けて徐行したりする。
雨上がりに鎌倉の段葛を歩くと、地面の上に、きらきらと光る白い粉。
石英のようですが、あれは中世のお侍の骨のかけらである。
西湘バイパスでない国道一号線を通って箱根に行く途中、「ほえー腹減った」と考えて小田原で昼ご飯。定食とパスタを食べて、むふふ、食った食ったと思いながらくるまに向かうと、そこには北村透谷生誕の碑があります。
「革命に非ず、移動なり」とこのひとが言った木挽町を、わっしはいつも樽菊正宗で酔っぱらって良い気持になって、ふらふらと歩いておる。
バカガメめ、そんなことでいーのか、と思います。
ほぼどこにいても、あっ、ここは樋口一葉の家のそばではないか、とか、梶原景時が討たれたのは、あのへんであるのい、とか、日本という国には膨大な過去がある。
欧州に似ています。
わっしは軽井沢の家を出て、万平ホテルに抜ける道を歩いていった。
別に理由なんてありません。
わっしのやることの大半は理由がない。
へろへろと歩いて行ったら途中で靴紐が解けた。
道の脇によって靴紐を結びなおします。
ほんでもって何気なく横を見ると石の表札みたいなものが立っていて「若禮」 と書いてある。へ、ヘンな姓だな、ワカレ、と読むのであるか、と考えながら歩くわっし。
次の瞬間、わっしは立ちすくんでしもうた。違う。「ジャクレー」でしょう。
ひょっとして……。
家に戻って神保町で買ったまま、ほうっぽらかしてあったポール・ジャクレーの本を開くと、どひゃ、やはりあれはポール・ジャクレーの家なのでした。
ジャクレーが軽井沢に住んでいたのを知らなかったのは、わっしの迂闊であった。
アホじゃん。
わっしは真剣に驚いてしまった。
ポール・ジャクレー (Paul Jacoulet)
http://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Jacoulet
はフランス人の浮世絵師であって、一生の大半を日本で過ごした。戦争中も軽井沢に住んでいて、「きっと、これならジャクレーのことが出てるな」と思って買った朝吹登水子の自伝を読むと、日本人達は準敵性人であったジャクレーに話しかけることも挨拶することも禁じられていて、気の毒であった、と書いてあります。
ジャクレーの浮世絵は、ブーゲンビリアの香りがしてきそうな不思議な浮世絵であって、見ようによっては、ちょっと横尾忠則の初期作品に似ています。
わっしは、このひとの浮世絵の奇妙な「不釣り合いな感じ」「世界とうまく折り合いがつかない感じ」
が好きで、いくつか作品も持っている。
あの靴紐が解けた朝以来、長野県に出かけると、わっしはときどき「若禮」さんの前に行って、カポーティや三島由紀夫、あるいはオスカー・ワイルドとさえ共通した世界を覗き見してたに違いない、この風変わりなフランス人と対話をします。
あるいは、木洩れ日のなかを歩いていると、向こうから髪をぴったり七三に分けて整髪料で固めた「ジャクレーさん」がやってくるような気がする。
日本のように歴史が濃くたちこめた空気のある国では、きっとジャクレーさんのようなひとの魂がまだ大気のなかにとどまっていて、他の若い国の空気よりも測ってみると少し重いのではなかろうか、と思います。
(この記事は2008年6月5日に「ガメ・オベール日本語練習帳 ver.5」に掲載された記事の再掲載です)
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若禮さん、よく読めたなぁ

アタシならずーっと気付かないだろう
いいないいな、今ジャクレーめちゃ見たい。先月、神保町で太田美術館のジャクレー展のポスターを見て「そうそうこれミスった!」って(言った30分後に錦華小学校通ったよ)、九月に軽井沢町がジャクレーの展示を企画してるんだけど九月に軽井沢にはいけない。ジャクレーみたいなあーとチラシを見つめている今日この頃でした。美しい作品からは孤独を感じる。家が残っているんだね。