日没のスケッチ

(この記事は2008年8月に「ガメ・オベールの日本語練習帳 ver.5」に掲載された記事の再掲載です)

 

今日はガメちゃん来るっていうから、いいハモいれといたんやで、とおっちゃんはいう。

わっしは魚があんまり好きでなくて梅干しに至ってははっきり嫌いだが、梅肉で食べるハモはどーゆーわけか好きである。

自分でも分析的理由はわからん。

ただ好きなんです。

「ありゃ、ハモの骨切るときって包丁押して使うの?」

「うん。皮残して骨切らなきゃいけないから引くと難しいんっすよね」と若い職人さんがいう。隣りの同僚を見て「なっ?」なんちゃっているところが、はなはだしく日本人っぽくて良い。

おっちゃんは、やりとりをにやにやしながら眺めています。

 

モニさんは野菜の天ぷらを食べておる。

食べながら、ゆであがったハモがあっというまに、素晴らしいプレゼンテーションの皿にかわってゆくのを興味津々で眺めてます。

 

「日本の料理って盛りつけが美しいな。一個づつが芸術作品のようだ」とモニがいうのを職人さんたちに訳すわっし。

職人さんたち嬉しそうです。

 

わっしは冷やの八海山を6合くらい飲んだのでだいぶん良い気持ちである。

モニさんも白ワインをビンの半分くらい飲んで上気しておる。

どうしてもいいたいから書くが、上気すると、ちょっと見ても「ぎゃあ」と思うくらい凄まじい美人である。

美人と結婚する、というのは、ほんまにヘンなことであると思う。

日本の食べ物やさんは、行くたびにいろいろなことを教えてくれるので楽しい。

わしの好きな鮨屋さんでこのあいだは「シンコ」を食べた。

やわらかくて口の中で身も台の飯も、ほろっと壊れます。

カッチョイイ。

この鮨屋さんのお陰でわっしは魚嫌いがだいぶん解消されたわけです。

ネギトロというのは、ネギとトロを使うので「ネギトロ」っちゅうんじゃないというのも、ここのお鮨屋さんで教わった。

肉を「ねぎる」からだそうで、きっと名前の誤解に基づいてネギをいれるようになったんだろう、という。

もともと「かわそば」という皮の下の部分の別名なんだそうです。

知らなかった。

有楽町のガード下の焼き鳥屋さんで焼き鳥を食べます。

地下のコース一万円の焼き鳥よりやっぱりこっちのほうがうめっす。

ビールを日本人のマネをしていっぺんにどばっと飲むと、不思議や日本の味がする。

 

日本の夏は殺人的に暑い。

無茶苦茶やん。

windwalker くん、君が悪い、反省したまえ、と思います。

歩いて移動するのは1ブロックが限界である。

でも、結構いいな。

明日はタクシーに乗って小川町の「エチオピア」に行くのはどうだろうか、とか、

その前に二キロくらいは泳ぐべな、とか考えていると、楽しくて「夏休み」ちゅう日本語を思い出す。

伊東屋に行って色鉛筆を買うというのはどうだろう。

 

日本のひとの自己イメージとはだいぶん違ってだいたいの外国人の日本に対するイメージは、「なんだか途方もなくメチャクチャな国」ですが、その「メチャクチャ」という言葉には悪意よりもおかしみのこもった好意のほうがずっと多い。

ヘンなことばかりやっている変わったひとたち。

でもオモシロイんちゃう、といろいろなひとが思ってます。

もうこのブログにも何度も書いたがグウェン・ステファニが世界中を伝道して歩いた「ハラジュクガールズ」はもうすぐ哲学事典に載るであろう。

涼宮ハルヒのユーウツは、世界中の誰もが共有するところとなるであろう。

 

自分たちが生き残ることばかり考えている退屈なやつばかりのこの世界で、自分たちの国が破滅の奈落にむかってズルズルズルと滑っていっているのに、そんなことには眼もくれず、ただ「おもしろいこと」を求めて、ふざけちらしているような趣のあるいまの日本に、世界中のガキどもは「おもしれー」と思う。

いかれてる、というのは、どの時代の言葉でもカッチョイイという意味の隠語だもんね。

自分では日本人みたいに世の中を投げないで「趣味」にとどめておくところがセイヨーガキは卑怯である。

しっかり人生も国の未来も投げて正しいヲタクにならんかい。

レーサイ投資家としてのわっしは「どーやら、この国は行くところまでほんとうにいっちゃうな。やべーよな」と思いますが、モニとふたりで日本で「カンコー」しているほうのわっしは、いまの、将来をなげちっって現実を見ないことに決めた日本という社会が大好きである。

 

遊びをせんとやうまれけむ。

紅旗征戎吾が事に非ず、とも言うな。

日本という国はときどき「絶望」という概念を国を挙げて表現しているゲージツカ集団に見えることがあります。

 

やる気をなくして、なぜ日本という国は最下位でも優勝しているか、ちゅうような、へりくつの大家になった若い日本人たちや、阿Qなみの常勝理論をみなでうなづきあいながら掲示板に書き込む日本人というひとたちを、わっしはオモロイと思って書きとめる。

 

そういう国でなければ岡崎京子や四谷三千雄のような天才は生まれない。

国滅びてゲージツあり、ちゅうのは、結構かっこいいのい、と思うのです。



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