ちょっと前の中学の同窓会で、男の友人たちが、海外で女を買った話をしきりにするのです。また、私自身はやらないのですが、風俗で遊ぶ話はその気になれば、私のまわりでいくらでも見つかるし。そこで出した結論は、この原作の半井美子にリアリティなし、です。
何かしらいいなと思える人間像が描かれていれば、想像上の売春婦でもかまわないのです。そこはアニメーションですから。しかし、掃除をさぼる他のお母さんたちを汚い言葉で罵り脅す美子が私は嫌いです。
言ってることが正論という意味では、畑飼に似てますが、このような、暴力的な態度が説得力を持つという幻想を持つのはもうやめておいた方がいいです。この美子がどのような売春婦なのか分かりませんが、立場の弱いはずの彼女が、このような態度をとればおしまいです。私の前の世代には未だに多いですが、たとえば私の父も、時々心を熱くして声を大きくすることがありました。また宮崎駿なども、そういうことがしょっちゅうあることで知られていますが、そうした言動が通用する人たちというのは、逆にある程度の地位にある人たちばかりだと私は思うのです。この原作のアプローチは、差別を受ける弱い立場の人たちが、自分の存在の正当性をどうやって証明するかという問いの役には立たない。こうした人たちは、現実の社会の中ではもっとあざとく、したたかに生きている筈だというのが、私の考えです。
前回、自分が原作の一部が嫌いと認めてしまった流れで、潔く、何を嫌悪したか書いているわけですが、このナカマ篇に関しては、
「鬼頭さんの敷いた設定は変えない。まわりの大人たちや、主人公の子供たちを取り巻く社会の描き方を変える」
という、パターンにぴったりはまっています。親が売春婦であるという悩みを抱えているナカマは変えない。そのかわり、そのナカマがどうやって自分自身に対する自信を取り戻すかについて、私の解釈で描いてます。それは結局、頭でばかり考えず、直接目で見る、聞く、触れることで心が開ける、ということなのですが、これには賛否があるでしょうね。批判は甘んじて受けます。
ひとつ自己批判します。「結局、女性が体を売る職業を否定してしまいましたね」というのが、永井プロデューサーの指摘です。美子は、「かつて売春もやったことがあるが、今はやめている」という設定に変えたので、「人の職業に優劣はない」「人に迷惑をかけなければ何をやってもいい」という、私自身も信じている人生観を描けていません。そこが、今回の私の限界だったということですね。
さきの中学の同級生たちの前で、私は女を買うという行為を否定も肯定もしません。男たちの性の悩みというものを私は知ってるので、それを慰めてくれる女性の存在というものを、社会の良心とバランスをとってうまく肯定できたらいいなと、思っていましたが。そうした仕事は、結局は女性の弱い立場につけ込んで生まれているものであることは明らかですから、この美子さんのような、知性もあり美しくもある日本人女性が、売春をやる必要はないという結論が出てしまうというわけです。
07/06/13 01:46