今回の記事は、医療過誤事件が実際の裁判において、どのような判断枠組みによって裁かれるのか、その基本構造に関する概説を取り上げます。
わが国においては、医療過誤に関する民事・刑事の特別法が設けられていないため、医療過誤に関する民事事件は、医療側に民法上の不法行為(民法第709条)または債務不履行に基づく損害賠償責任(民法第415条)が認められるか、といった形で争われるのが一般的であり、医療過誤に関する刑事事件は、医療従事者に業務上過失致死傷罪(刑法第211条)が成立するか、といった形で問題になるのが一般的です。
なお、医療過誤事件について国家賠償法の適用が問題になるケースもありますが、国公立病院における医師等の診療行為は、公権力の行使では無く純粋な私経済作用であるため、国公立病院における民事の医療過誤事件も、国家賠償法の適用は無く民法の規律に委ねられることになる一方、精神保健及び精神障害者福祉に関する法律に基づく精神科病院における処遇、心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律に基づく指定入院医療機関・指定通院医療機関における処遇など、その内容が「公権力の行使」に該当する行為については、たとえ民間病院の管理者が行なったものであっても、国家賠償法が適用されることになります。
1 不法行為責任と債務不履行責任
医療機関の医療過誤によって患者が損害を受けた場合、患者(患者が死亡した場合にはその遺族)が医療側の民事責任を追及する手段については、前述のとおり不法行為と債務不履行の2種類があり、どちらの責任を追及するかは患者側の選択に委ねられています。
古い学説には、不法行為責任を追及する場合には、医療機関側の具体的な過失を患者側が主張立証しなければならない一方、債務不履行責任を追及する場合には、患者側は債務不履行がある旨を主張立証すれば良く、医療機関側はその責めに帰すべき事由が無い旨を立証しなければならないので、債務不履行責任を追及した方が患者側に有利ではないかという議論をしているものもあったのですが、医療契約に基づく医療側の債務は結果債務では無く手段債務である以上、患者側が主張立証すべき債務不履行の事実は、不法行為における過失の内容とほぼ重なるため立証責任の負担軽減には繋がらないとする有力な反論があり、現在では立証責任の負担については、債務不履行責任と不法行為責任との間に実質的な違いは無いというのが通説的見解となっています。
そして、現行法に則してそれぞれの要件を見ていくと、次のようになります。
<不法行為責任の要件>
① 加害者の故意又は過失
② 被害者の権利又は法律上保護される利益が侵害されたこと(≒損害が発生したこと)
③ ①と②との間に因果関係があること
<債務不履行責任の要件>
① 債務者が、その本旨に従った履行をしないこと
② 債権者に損害が発生したこと
③ ①と②との間に因果関係があること
④ ①が、債務者の責めに帰することができない事由によるもので無いこと
文言の違いはありますが、不法行為の②③と債務不履行責任の②③は明らかに同様のものであり、債務不履行責任の①④についても、少なくとも医療過誤訴訟においては、原告側は不法行為の①と同様の主張立証をしなければならず、両者の間に実質的な違いは無いと解されているのは、既に述べたとおりです。
もっとも、両者の間にはそれ以外の違いもあります。まず、被告とすべき当事者ですが、債務不履行責任については医療契約の相手方、基本的には医療機関の開設者を被告とすべきであるのに対し、不法行為責任については故意又は過失があった者、すなわち具体的な診療等に従事した主治医、執刀医、看護師などの医療従事者個人が被告となります。ただし、民法第715条の使用者責任に関する規定に基づき、当該医療機関の開設者、管理者を被告に加えることが出来るほか、いわゆる報償責任の法理に基づき、使用者の責任免除は実務上ほとんど認められていないので、病院等の開設者を被告とする場合にも、特段の支障は無いと考えられます。
次に、損害賠償請求権の消滅時効ですが、債務不履行責任の場合、請求権を行使できることを知った日から5年間、または請求権が発生してから10年間が経過すると、時効によって消滅します(民法第166条第1項)。これに対し、不法行為による損害賠償請求権については、被害者又はその法定代理人が損害及び加害者を知ったときから3年間行使しないとき、または不法行為のときから20年間行使しないときは、時効によって消滅するとされていますが(民法第724条)、人の生命又は身体を害する不法行為については、「3年間」ではなく「5年間」とされています(民法第724条の2)。
平成29年改正前の民法では、債務不履行責任の時効が10年間、不法行為の時効が3年間とされていたため、提訴が遅れ不法行為による損害賠償請求権について時効が成立してしまった場合に、債務不履行責任を追及する実益があったのですが、現行法では時効についても両者の差異がほとんど無くなったことから、少なくとも人の生命や身体に関する被害が問題となる医療過誤事件については、債務不履行責任を追及する実益は乏しいということになります。
そして、損害賠償請求権の遅延損害金については、いずれの場合も現行法では年率3%(民法第404条、ただし市場金利の情勢に対応した変動制あり)の損害金を請求できますが、その起算点が異なります。不法行為の場合は不法行為時から直ちに履行遅滞に陥ると解されており、医療過誤訴訟では事件があった時点から年率3%の遅延損害金を請求できますが、債務不履行責任の場合は、履行の請求をしたときから遅滞に陥ると解されているため、通常は訴状送達の翌日から年率3%の遅延損害金を請求することになります。
実務上は、被告に出来る相手の範囲が広いこと、遅延損害金の起算点が有利であることから、債務不履行責任より不法行為責任の追及が行なわれるケースの方が多く、また債務不履行責任を追及する唯一の利点であった時効の起算点についてもメリットがほぼ無くなったことから、今後はほとんどの医療過誤訴訟が、病院の開設者や医療従事者に対する不法行為責任の追及といった形で行われることになるでしょう。
なお、国家賠償法に基づく損害賠償請求をすべき場合については、被告が国または公共団体となり、過失のある医療従事者個人の責任を追及することは出来ないという違いがあるものの、それ以外の要件、効果は民法上の不法行為責任と特に異ならないため、以下は不法行為責任を念頭に置き、その要件について検討を加えていくことにします。
2 過失責任の原則と医療過誤
民法上の不法行為に関する「過失」が何を意味するかについては、民法学界で古くから議論の対象とされてきましたが、現在の民法学説では、客観的過失論が主流になっているということなので、この記事でも客観的過失論を前提に説明します。
過失とは、損害の予見可能性を前提とした、結果回避義務違反であると解されており、何らかの加害行為によって損害が発生した場合でも、加害者に故意または過失が無い場合には法的責任を負わないとする原則のことを「過失責任の原則」といい、民法上の基本原則の1つに挙げられています。
米村氏の『医事法講義』は、憲法や民法、刑法、行政法などの基本的知識がある読者層を念頭に執筆されているので、こうした基本原則に関する説明はほとんど省略されていますが、この記事は法律の素人である一般の方が読む可能性もあるので、こうした基本原則についても最小限の説明を加えておきます。
医療過誤事件について論じている記事なので、事例も医療過誤にしておきますが、患者Aはある日容体が急変し、救急車によってX病院に搬送され、医師Yが主治医となってAの診療にあたったものの、治療の甲斐も無く、患者Aはその3日後に死亡したとします。
このような事例において、X病院や主治医のY医師は、Aの死亡に関し当然に責任を負うわけでは無く、Aの死因や、X病院で行なわれていたAに対する診察や治療の内容が精査され、医療機関や医師として通常求められる注意を尽くして診察を行ったにもかかわらず、例えばAの症状が検査によっても判明せず、Aが早期に死亡するといった結果を予見できなかった場合(予見可能性が無い場合)には、XやYに過失は無く、損害賠償責任を負わないことになります。
また、検査の結果Aの症状が判明した場合であっても、例えばAが重度の末期がんであり、治療しようにも手の施しようがない場合、すなわちAの死亡という結果を回避できる可能性が無い場合(結果回避可能性が無い場合)には、やはりXやYに過失は無く、損害賠償責任を負わないことになります。
一方、検査の結果Aの症状が判明し、直ちに適切な治療を施せばAの命を助けられる状態であったにもかかわらず、Yが適切な治療を行わず、またはYの行った治療方法が明らかに誤っており、それが原因でAが死亡したと認められる場合には、X病院やY医師は、Aの死亡に関し、A(の遺族)に対し、不法行為に基づく損害賠償責任を負うということになります。
基本的な法的判断の枠組みは以上のとおりなのですが、実際の医療過誤事件について、医療側における過失の有無を、具体的にどのような基準で判断すべきかが、理論的にも実務的にも大きな問題になるわけです。この判断基準に関する総論的な議論が、次項で紹介する「医療水準」論になります。
3 医療水準論に関する判例法理の展開
医療過誤事件における過失の有無を判断する基準として、医療側の義務に関する重要な判断要素とされてきたのが、「医療水準」という概念です。「医療水準」に関する議論が盛んに行なわれるようになったのは、未熟児網膜症に関する一連の訴訟が契機となっているので、まずは『医事法講義』109頁以下と、国立成育医療研究センターのウェブサイトによる説明に基づき、以下にその概要を管理人なりにまとめることにします。
未熟児網膜症とは、未熟児について、まだ発達途中の眼球内で網膜血管が異常増殖してしまう病気のことです。胎児の網膜血管は、胎齢14週頃から発生し、枝分かれして成長し30週頃に完成するのですが、未熟児のまま出生して急激に環境が変化したり、未熟児に対し高濃度酸素を投与したりすると未熟児網膜症が発生することがあり、この病気が進行すると網膜剥離を起こして重篤な視力障害が発生し、重症の場合に失明することもあります。
この未熟児網膜症に対しては、1970年代に光凝固法という治療法が開発され、次第に現場の治療にも応用されるようになり、現在では第一選択の治療法として確立しているのですが、光凝固法が開発されたばかりの頃は、少なからぬ数の医療機関において、未熟児網膜症を発見するための眼底検査自体が実施されておらず、または検査により未熟児網膜症が発見されても、光凝固法の実施可能な医療機関への転送が行われない事例が見られたため、検査義務違反や転送義務違反を理由とする民事訴訟が相次ぎ、こうした一連の訴訟の中で主たる争点になったのが、どの時点から光凝固法の実施を前提に、医療側の検査義務・転送義務を認めるべきか、という問題でした。
この問題について、最初に最高裁が判断を行なったのは、昭和57年3月30日判決(判時1039号66頁、高山日赤病院事件)であり、判決では人の生命及び健康を管理すべき業務に従事する者は、その業務の性質に照らし、危険防止のため実験上必要とされる最善の注意義務を要求されるが、その際「注意義務の基準となるべきものは、診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準である」と判示しました。
この判決は、医療水準が医療側における義務の判断基準であること、当該医療水準は学問としての医学の水準では無く、実践としての医療の水準であることを明らかにしたものであり、後者を分かりやすく言い換えれば、単に学問としての治療可能性が提唱されているに過ぎない段階では、当該方法による治療を行う法的義務があるとは言えず、当該治療方法が臨床医学の現場で活用できるようになった時点から、医療側は当該治療方法の存在を前提とする検査義務・転送義務などの責任を負う、という判断が示されたわけです。
そして、光凝固法については、概ね1975年頃から臨床医学の実践段階に入ったとされ、それ以前に未熟児網膜症を発症した事例については医療側の過失責任が認められず、それ以後に未熟児網膜症を発症した事例についてのみ、医療水準に適合する治療が行なわれていなかったとして、医療機関側の過失が肯定されることになりました。
具体的な判断例としては、1972年に未熟児網膜症を発症した事例について、最判平成4年6月8日判時1450号70頁は、原告が医師は「緻密で真摯かつ誠実な治療を尽くすべき注意義務」を負っていると主張したのに対し、1972年の段階ではまだ光凝固法が医療水準に達していなかったことを前提に、当該医療水準を超えた緻密で真摯かつ誠実な医療を尽くすべき注意義務まで負うものではない、と判示しています。
当該判決が出された平成4年(1992年)当時には、光凝固法は既に治療方法として定着していたので、原告としては光凝固法による治療が行なわれなかったことに納得が行かなかったのでしょうが、「緻密で真摯かつ誠実な医療を尽くすべき注意義務まで負うものではない」という表現自体の当否はともかく、まだ臨床医学の実践で使える段階に達していない高度先進医療を行う義務を認めるのは、事実上医療機関側に不可能を強いるものですから、結論自体は妥当と判断せざるを得ないでしょう。
次に、1974年12月に生まれた未熟児が未熟児網膜症を発症した事例について、最判平成7年6月9日(民集49巻6号1499頁、姫路日赤病院事件)は、原審が光凝固法を医療水準として定着した時期について、厚生省研究班が未熟児網膜症の診断と治療に関する統一基準を作成し、これが医学雑誌に掲載された1975年8月であると認定し、診察を行った医師の過失を否定していたのに対し、同最高裁判決はこれを破棄し、次のように判示しました。
「ある疾病について新規の治療法が開発され、それが各種の医療機関に浸透するま での過程は、おおむね次のような段階をたどるのが一般である。すなわち、まず、当該疾病の専門的研究者の理論的考案ないし試行錯誤の中から新規の治療法の仮説ともいうべきものが生まれ、その裏付けの理論的研究や動物実験等を経た上で臨床実験がされ、他の研究者による追試、比較対照実験等による有効性(治療効果)と安全性(副作用等)の確認などが行われ、この間、その成果が各種の文献に発表され、学会や研究会での議論を経てその有効性と安全性が是認され、教育や研修を通じて、右治療法が各種の医療機関に知見(情報)として又は実施のための技術・設備等を伴うものとして普及していく。疾病の重大性の程度、新規の治療法の効果の程度等の要因により、右各段階の進行速度には相当の差が生ずることもあるし、そ れがほぼ同時に進行することもある。また、有効性と安全性が是認された治療法は、通常、先進的研究機関を有する大学病院や専門病院、地域の基幹となる総合病院、そのほかの総合病院、小規模病院、一般開業医の診療所といった順序で普及していく。そして、知見の普及は、医学雑誌への論文の登載、学会や研究会での発表、一 般のマスコミによる報道等によってされ、まず、当該疾病を専門分野とする医師に伝達され、次第に関連分野を専門とする医師に伝達されるものであって、その伝達に要する時間は比較的短いが、実施のための技術・設備等の普及は、当該治療法の手技としての難易度、必要とされる施設や器具の性質、財政上の制約等によりこれに要する時間に差異が生じ、通常は知見の普及に遅れ、右の条件次第では、限られた医療機関のみで実施され、一般開業医において広く実施されるということにならないこともある。
以上のとおり、当該疾病の専門的研究者の間でその有効性と安全性が是認された新規の治療法が普及するには一定の時間を要し、医療機関の性格、その所在する地域の医療環境の特性、医師の専門分野等によってその普及に要する時間に差異があり、その知見の普及に要する時間と実施のための技術・設備等の普及に要する時間との間にも差異があるのが通例であり、また、当事者もこのような事情を前提にして診療契約の締結に至るのである。したがって、ある新規の治療法の存在を前提にして検査・診断・治療等に当たることが診療契約に基づき医療機関に要求される医療水準であるかどうかを決するについては、当該医療機関の性格、所在地域の医療環境の特性等の諸般の事情を考慮すべきであり、右の事情を捨象して、すべての医療機関について診療契約に基づき要求される医療水準を一律に解するのは相当でない。そして、新規の治療法に関する知見が当該医療機関と類似の特性を備えた医療機関に相当程度普及しており、当該医療機関において右知見を有することを期待することが相当と認められる場合には、特段の事情が存しない限り、右知見は右医療機関にとっての医療水準であるというべきである。」
そして、問題となった病院では、小児科の医師が中心となって、未熟児網膜症の発見と治療を意識して小児科と眼科が連携する体制を採り、未熟児については眼科の医師が眼底検査を行い、未熟児網膜症の発生が疑われる場合には光凝固法を実施できる他院に転医させることになっていたものの、当該小児科医師は光凝固法の存在を知っていたものの原告未熟児に関する臨床経過を知らず、当該眼科医師は未熟児の眼底検査や未熟児網膜症の診断についてあまり経験が無く、特別の修練も受けていなかったため、2回行った眼底検査によっても異常を発見できず、3回目の検査でようやく異常を発見し、原告未熟児を転医させたものの、その時期には治療が手遅れとなっており、原告の視力が0.06になってしまったという事案でした。
同判決は、この病院が他の医療機関で生まれた新生児を引き受けてその治療をする「新生児センター」を小児科に開設しており、原告もその治療を受けるため他の病院から転医されてきたこと、前述のとおり未熟児網膜症の発生が疑われる場合には他院に転医させる体制が整っていたことを重視し、このような医療機関の性格、光凝固法に関する知見の普及の程度等の諸般の事情について十分に検討することなくしては、当該病院に要求される医療水準を判断することが出来ないと述べています。
この判決については、医療機関に要求される医療水準は、当該医療機関の特性も考慮の対象となることを明らかにした判例として大きく取り上げられた一方、同判決が医師個人の知識や能力による相対化を否定する趣旨であるかについてはなお議論の対象とされています。
医療水準に関するもう1つの重要判例が、最判平成8年1月23日民集50巻1号1頁です。この事案は未熟児網膜症に関するものでは無く、虫垂切除手術のため麻酔剤が投与された際、当該麻酔剤の能書にある「副作用とその対策」の項に、血圧対策として麻酔剤注入前に1回、注入後は10分ないし15分まで2分間隔で血圧を測定すべきであると記載されていたところ、当該手術が行われた1974年当時においては、血圧については少なくとも5分間隔で測るというのが一般開業医の常識であったため、医師も5分間隔で血圧を測定するよう看護師らに指示し、麻酔剤注入の8分後に執刀を開始したものの、執刀開始の約5分後に患者が「気持ちが悪い」と悪心を訴え、脈拍も低下が見られたことから手術は中止され、直ちに酸素吸入などの救命措置が採られたものの、脳機能低下症による重篤な後遺症が残ってしまったというものです。
判決は、一般開業医の常識を基準に医療水準を判断した原審を破棄し、医師が医薬品の使用にあたって使用上の注意事項に従わず、それによって医療事故が発生した場合は、これに従わなかったことにつき特段の合理的理由がない限り、当該医師の過失が推定されるとし、平均的医師が現に行っていた当時の医療慣行に従っていたというだけでは、医療機関に要求される医療水準に基づいた注意義務を尽くしたとはいえないと判示し、原審が認めなかった過失と脳機能低下症との因果関係も肯定しました。
当該判決自体は、医療過誤事件における過失の認定、過失があった場合における、損害との因果関係に関する立証責任の適切な分配のあり方を判示したものとして支持できるものですが、当該判決が判示した「医療水準」の判断基準について、「診療に当たった当該医師の専門分野、所属する診療機関の性格、その所在する地域の医療環境の特性等の諸般の事情を考慮」するという一般論が問題となっており、この判断基準によると「診療に当たった医師個人の専門分野」が考慮の対象となり得ることから、医師個人の特性も「医療水準」の判断要素になり得るのか、議論の対象になっています。
以上に紹介した最判平成7年6月9日、最判平成8年1月23日は、いずれも裁判所のウェブサイトに掲載されているので判決文を読んでみましたが、平成7年判決は地域における先端医療を提供する病院、平成8年判決は一般的な病院とみられるところで、後者の事件では手術にあたり麻酔科医が立ち会っていなかったことの当否も争点になったようです。平成8年判決は、過失の内容が使用上の注意事項に従わなかったという分かりやすいものであったため、麻酔科医の立ち会いは問題にされませんでしたが、仮に麻酔科の専門医でなければ気付き得ない医療過誤であった場合、それによって医療側の過失が否定されるのか、それとも麻酔科の専門医を立ち会わせなかったこと自体が過失と認定されるのか、同判決の判旨はいまいち明確ではありません。
4 医療水準論の限界
他方、最判平成14年11月8日判タ1111号135頁は、 医薬品添付文書に過敏症状と皮膚粘膜眼症候群の副作用がある旨記載された薬剤等を継続的に投与中の患者について、副作用と疑われる発しん等の過敏症状の発生が認められたにもかかわらず、医師が当該薬剤の投与を続けた事例について、医師の過失を否定した原審を破棄した判決ですが、この判決では医療水準論について全く言及されておらず、一般論としては「精神科医は、向精神薬を治療に用いる場合において、その使用する向精神薬の副作用については、常にこれを念頭において治療に当たるべきであり、向精神薬の副作用についての医療上の知見については、その最新の添付文書を確認し、必要に応じて文献を参照するなど、当該医師の置かれた状況の下で可能な限りの最新情報を収集する義務があるというべきである」などと述べるに留まっています。
その他、『医事法講義』115頁以下では、最判平成15年11月14日判時1847号30頁(気管内チューブ抜管後の呼吸停止と再挿管等の処置に関する過失が問題とされた事例)、最判平成18年4月18日判時1933号80頁(冠状動脈バイパス手術後の患者が腸管壊死を起こして死亡した事件について、直ちに開腹手術を行わなかった医師の過失を認めた事例)、最判平成18年11月14日判時1956号77頁(上行結腸ポリープの摘出手術後に出血における追加輸血等の実施が問題とされた事例)も、医療水準論に基づかずに過失の判断が行われた事例として紹介され、学説の中にはこれらの最高裁判決が、過失=医療水準不適合とする従来の姿勢を実質的に変更したと捉える評価も見られるということですが、管理人としては、単にこれらの訴訟では、医療水準論のあり方自体が争点にならなかっただけではないかと考えます。
管理人の確認する限り、医療水準論を正面から問題にしなかった判決のいずれについても、当該医療行為が行われた当時における医学的知見の内容を前提に、過失の有無に関する判断を行っている点は従前と変わらず、ただ「医療水準」という用語を使わなかっただけです。この一事をもって、最高裁が従来の姿勢を変更したとは考えにくいですが、一方で医療水準論が、現実の裁判規範として役立つ場面はかなり限定的であり、通常の医療過誤事件においては、行為当時における医学的知見から導き出される行為規範に違反していれば、特段の事情が無い限り医師の過失が推定され、ただ行為当時における医学的知見の内容自体が争点になった場合には、医療水準論に基づいて医学的知見の内容が判断される、と整理すべきではないかと考えます。
なお、米村氏自身は、『医事法講義』115頁において、個別性の大きい医療場面では特定の医療を「医療水準」として措定することは困難であり、医療水準論はあくまでそれによる過失判断が適切な場合にのみ用いうる判断手法であることが銘記されるべきであろう、などと述べており、この見解は管理人の見解と当たらずとも遠からず、といったところです。
本来であれば、次回は医療水準論に関する各論の検討に入る予定だったのですが、『医事法講義』で参照裁判例として挙げられている下級審裁判例の数があまりに多く、管理人の乏しい手持ち資料だけではその当否を判断し難いため、次回以降どのような論点を取り上げるかは、しばらく考えさせて頂きたいと思います。