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泉 鏡花「酸漿」現代語勝手訳  作者:秋月しろう
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泉 鏡花「酸漿」現代語勝手訳 四

 四


「だって、だって(ねえ)さん、姉様(あなた)、何もそれをお呑みなすったんじゃありますまい」

 と、お辻はむきになるようにして言い消した。

 小銀は重たげにまた(かぶり)を振って、

(いいえ)、確かに口へ入ったに違いないの。だって、真っ赤なそれが、ゴム酸漿(ほおずき)に見えたと、はっと思った時は、もう、お汁が舌に触っててさ、……それっ切り、酸漿(ほおずき)の形がまるっきり見えないじゃないか。

 慄然(ぞっ)としてね、気になるからもう一生懸命、恥も外聞もありません。お蕎麦を一筋ずつと思うほど、箸を入れて探したのだけれど、酸漿(ほおずき)の影もないのよ。

 ガッチリ何か咽喉(のど)の所に(つか)えているわ。ああ、お辻」

 と、今は仔細(しさい)を話したから怪しむまいと、気を許したように、両肩を震わせた。

「頭はグラグラする、寒気はする、足も()()()()して、とても電車じゃ帰られない。乗り合いの中で、またとんだ粗相でもしてはいけないから、とそう思って、三の橋から車でさ。――やっと堪えちゃ来たけれど、途中だってお前、咽喉(のど)が天上へ(ふさ)がって、夕方の美しいお日様の姿も見えなかった。

 真っ暗だわ、そこいらが暗夜(やみ)のようで。そんなところにね、可厭(いや)らしい婆さんの顔が幾つも見えるの。ちらちらしてね。爪楊枝の汚いものを見詰めるのやら、カッと口を開けたのやら、顎の赤いのやら、種々(いろいろ)見えるの。お辻、どうしよう。鬼灯(ほおずき)が今ここにあるの」

 と、指差す指が、まさしく咽喉(のど)懐剣(かいけん)を当てたみたいに、恐怖にとらわれた顔付きを見せたのである。

塩湯(しおゆ)を」

 と言おうとしたが、余りにもありきたりに思えたので、中途で言い()んで、

(ほう)(たん)(*江戸時代からある気付け薬)」と、しかし、それも()した。……お辻のやるせない顔も、もう黄昏が迫った小窓の下に、少時(しばらく)は消え失せるように見えたが、俄然(がぜん)むっくり膝が動いたと見ると、さも嬉しげな声に、笑いを交えて、

()いものがございます、姉さん。あの、象牙のお箸、そら、あのお方のお記念(かたみ)だって、いつもご飯を上がりましたでしょう。――お(とっ)さんはご自分のお子様だもんですから、肺病で亡くなったんだから悪い、とご遠慮から、姉様(あなた)に『使っちゃいけない』って、お小言をおっしゃるから、この頃はしょうことなしにご無沙汰をなさいますね。でも、ほら、何時(いつ)か甘鯛の小骨を、お二人で一緒に咽喉(のど)にたてた時、そのお箸で撫でたら、二人とも取れた、と随分お聞かせなすったじゃありませんか。お(とっ)さんはお留守だし、大っぴらにお出しなさいましな。そして、逆さに撫でますと、きっと取れて出ちまいますよ。如何(いかが)、姉さん」

 と、先ほどまでは暗く沈んでいたのに、話す内に、白いほど陽気な言いようになった。

「ああ、そうね」

 とはじめて小銀らしい声になって――そこの茶棚の抽斗(ひきだし)から、別の箸箱に綺麗な鬱金(うこん)(きれ)に包んだのを、(ばち)(さば)くようにはらりと解くと、まだ真っ白な象牙の色に、ほろりとしながら、寂しく笑って、

「堪忍しておくれ」

「さあさあ、ご遠慮なく」と、お辻がどっしり、膝に手を置いて待つ。

「まあ可厭(いや)だよ、お辻は……」

 で、恍惚(うっとり)と象牙を咽喉(のど)に当てると、雪のように白い咽喉(のど)元を、血が透き通るように見えたが、次の瞬間、直ぐに当てがった磨いた真鍮の(うがい)茶碗(ちゃわん)に、むむ、と口に含んだものを吐き出せば、()と鮮血だけが。

 電灯が点いた。

「嬉しい、半分溶けて、ぶよぶよしてるわ」

 と、目を(ほっそ)り。後ろにあった床の傍の、男の記念(かたみ)小机(こづくえ)()と引き寄せると、羽織を脱ごうとして脱ぎ切れず、美しい裏地を(ひるがえ)したまま、冷たい縮緬(おめし)の肩も細く、両手を重ねて、がっくりと(うつむ)いた。

 絵のようなその姿を見ながら、お辻がわなわなと震えて、蒼くなる間にも、小銀はすやすやと寝息を立てた。

 (うがい)茶碗(ちゃわん)を持ったまま、膝で後退(あとずさ)りになって、ひょろり台所へ立つと、女中と何事か囁き合うや否や、女中はその(うがい)茶碗(ちゃわん)を隠し持って、かかりつけの医者へ駈け出した。


 それから後、小銀は、息を引き取るまで、血を吐く(たび)に、嬉しそうに、

「ああ、嬉しい。酸漿(ほおずき)が出るんだねえ……」



                 (了)


この作品を読もうと思ったのは、「あらすじ」にも書きましたが、澁澤と三島の対談に興味を持ったからです。

 その部分を、抜粋してみます。


 澁澤:……気持ち悪いのは「酸漿」という小説。芸者が病院に見舞いに行った帰りの電車の中で、汚い婆がホオズキをグチャグチャやっていたんで、慌てて降りる。それからそば屋へ入って、天ぷらそばを一口スッと吸ったら、ホオズキがその中に入ったという幻覚を見て、呑んじゃったつもりになって、家へ帰って来てからガーッと吐くんです。それ喀血なんです。それで喀血するたんびに、ああホオズキが出た、ああいい気持ちと言いながら……。

三島:ああ恐い(笑)。


   鏡花の魅力<対談> 三島由紀夫/澁澤龍彦

   昭和四十三年十一月四日、赤坂「シド」における対談。

   ――「鏡花論集成」(立風書房)P.353 から抜粋――


 

 この小銀という女性は結局、肺結核で亡くなった風にも記述されています。友人の谷江という人から感染したのか、それは不明ですけれど、酸漿が咽喉(のど)(つか)えて苦しいという表現がありますね。

 これを読んだ時、すぐに思い出したのは「ヒステリー球」という言葉でした。

 専門的には(いん)喉頭(こうとう)異常感症(いじょうかんしょう)という名前で呼ばれているようです。咽喉(のど)に何か詰まった気がして苦しいが、検査をしてもさしたる異常が見つからない場合、ストレスから来る症状とも考えられています。(興味のある方は検索してください)

 また、酸漿を呑み込んでしまったとか、色んな婆さんの顔が見えるという幻覚とか、小銀という人にも、精神的なものがあったようにも見て取れます。

 極度の潔癖症だったという鏡花自身に、そんなヒステリー球のような症状があったのかどうかは、寡聞にして知らないのですが、そういった話をどこかで聞いたのかも知れませんね。


 ※ この作品に限らず、また、鏡花だけに限らず、この時代の小説には、現在の人権意識からして、容認できない身体障がい、精神障がい、社会的身分、男女、職業等の差別的な用語が出てきます。訳に当たってはできるだけ配慮しているつもりではありますが、至らない部分もあるかも知れません。現代語訳の課題だと認識しています。


 この作品においても、ハンセン病に関して、不適切で、差別的な言葉が出てきます。この時代には、差別的な意識が世間に深く根を下ろし、常態化していたものでしょう。

 現代語勝手訳を行うに当たり、悩みましたが、時代背景である歴史性を考慮して、そのままの言葉とし、注釈として指摘しておきました。


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