1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 政治

発掘・考察 大東亜戦争 日本への原爆投下〝8発以上〟の予定だった 3発目は東京へ…本当に問うべきなのは「なぜ、長崎で止めたのか」

zakzak by夕刊フジ / 2023年8月14日 6時30分

トルーマン米大統領(夕刊フジ)

「なぜ、広島に続き、長崎に2発目を投下したのか?」

広島はウラン型で米テネシー州のオークリッジ研究所で開発され、長崎はプルトニウム型でワシントン州のハンフォード研究所で開発され、双方とも投下する必要があったと言われる。

しかし、本当は「なぜ、長崎(2発目)で止めたのか?」と問うべきなのかもしれない。

前回述べたように、原爆投下の狙いとして、費用対効果の正当化と威力・破壊力の誇示があり、それはハイドパーク覚書にあるように「繰り返し」の投下であればあるほどいい。現に、そのような計画であった。そこに、日本人の尊厳は無い。

米国などにある一次史料で、日本人への原爆投下計画の実際を確認できる。

1945=昭和20=年8月10日 マンハッタン計画責任者のグローブス将軍から、チーフ・スタッフへのメモランダム(覚書=ジョージ・C・マーシャル図書館保管)において、3発目の投下は8月17日か18日以降の最初の天候が良い日とされている。

8月10日 ヘンリー・ウォレス商務長官(前副大統領)の日記(アイオワ大学図書館保管)から、ハリー・トルーマン大統領が日本降伏が近づいているという情勢判断により、一連の原爆投下計画の一旦停止を命じた。8月6日・9日の広島・長崎への投下は非人道的なものであったことを、遅まきながら認識したことが分かる。しかし、依然として日本のポツダム宣言受諾の報は入らなかった。

8月13日 原爆投下実務の責任者であるジョン・ハル大将(戦後の琉球総督)と、ライル・シーマン大佐(グローブス将軍の補佐)との電話会議記録(ジョージ・C・マーシャル図書館保管)は、以下の通りだ。

(1)(広島・長崎への)2発の原爆の効果は絶大だった。

(2)8月19日に3発目投下可能。

(3)9月に4・5発目投下可能。

(4)10月に6~8発目投下可能。

(5)10日ごとに投下は固い。本土上陸侵攻前にまとめて投下も検討。

ちなみに、本土上陸作戦(ダウンフォール作戦)は、ハル大将が指揮し、主として関東と南九州への侵攻が予定されていた。本土上陸作戦と原爆投下は代替関係にあったのではなく、セットであった。

8月14日 トルーマン大統領と会談した駐ワシントン英国公使から英国外務省への電文報告(英国国立公文書館保管)によると、トルーマン大統領は、3発目の原爆の東京への投下を命令する以外に選択肢はないと述べた。

その数時間後の午後4時5分、ホワイトハウスは日本の降伏表明を受けた(=各史料の詳細は、ユーチューブ番組『これが本当の近現代史』『月刊インサイダーヒストリー』を参考)。

「なぜ、長崎(2発目)で止めたのか?」

理由は日本の降伏だ。そして、真珠湾攻撃の悪魔的帰結が一連の原爆投下だったと言えよう。 =おわり

■林千勝(はやし ちかつ) 近現代史研究家・ノンフィクション作家。1961年、東京都出身。東京大学経済学部卒、大手金融機関等を経て、近現代史の探究に取り組む。著書に『日米開戦 陸軍の勝算』(祥伝社)、『日米戦争を策謀したのは誰だ! ロックフェラー、ルーズベルト、近衛文麿 そしてフーバーは』(ワック)、『近衛文麿 野望と挫折』(ワック)、『ザ・ロスチャイルド―大英帝国を乗っ取り世界を支配した一族の物語』(経営科学出版)など。ネット番組「これが本当の近現代史」「月刊インサイダーヒストリー」などで情報発信中。

あなたにオススメ

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事を最後まで読む