樺沢(かばのさわ)城は、新潟県南魚沼市にあった城郭です。
日本城郭大系によれば、この城の始まりは不明ですが上杉氏の家臣・栗林氏が坂戸城の支城として歴代在番したと伝えられています。 天正六年(1578) 上杉謙信が死去し、養子の景勝と景虎の間で家督争いが勃発しました(御館の乱)。景虎を救援するため、北条氏の軍勢が関東から侵攻し樺沢城を攻略しました。それ以後、北条氏は景勝方への攻撃の本拠として城の改築を行い、郡内の諸城攻撃の足掛かりにしました。しかし、同年末北条軍は迫ってくる雪のため、一部の将兵を残して引き揚げました。翌年一月から景勝方が反撃に出て、二月には樺沢城を落城させました。
戦乱後は再び上杉氏の番城として有力武将が守将を務めましたが、慶長三年(1598) 上杉氏の会津移封後に廃城となりました。
城は、盆地に向かって東に突き出した標高300メートルの丘陵に築かれました。その足下を通る三国街道や高田街道を監視する絶好の地です。
山頂に位置する本丸から南東に二ノ丸・三ノ丸・西ノ丸が階段状に展開しており、各曲輪の間は深い堀切で隔てられています。中腹以下を二重三重に空堀と土塁が鉢巻き状に取り巻く堅固な囲繞堀は、県下に類をみません。
(地図は国土地理院の地理院地図を加工。※曲輪等の位置は推測であり正確ではありません)
城跡は、JR・上越国際スキー場前駅の西方約500メートルの場所に位置します。城山の東麓にある登城口は上越線の線路沿いにあります。また登城口から100メートル坂道を上がったところに城跡駐車場があります(私が訪問した時、駐車場の看板が見当たらず焦ったのですが、おそらく防雪のため看板にブルーシートが被せられていました)。
➢ ①龍澤寺
応永二十七年(1420)創建の臨済宗の寺院です。上杉景勝元服の折、母・仙桃院は当寺に厨子入り文殊菩薩像を奉納しました。また天正五年(1577) 上杉謙信は当寺に御朱印状を贈っています。
➢ 城之腰跡
龍澤寺の裏側に「城之腰跡」の石碑が建っておりますが、どのあたりを指すのか分からず、付近の写真を掲載します。
城跡見学前に、城下を散策しました。
➢ ②中屋敷跡
城山の東麓に家臣屋敷が並んでいました。写真は「中屋敷跡」石碑、さらに東には「下屋敷跡」石碑が建っています。
➢ ③登城口
龍澤寺向かいに東登城口があります。
➢ 元屋敷跡
登城口からすぐの場所にある削平部です。
➢ 横堀
この横堀に沿って城山を登ります。
➢ ④三ノ丸
山頂から階段状に展開する主郭部の南東端に位置します。
三ノ丸後方の堀切
➢ ⑤二ノ丸
四段で構成される曲輪群です。
二ノ丸後方の堀切
➢ ⑥胞衣塚
上杉景勝の胞衣をここに納めたとのことです。周囲を土塁で囲まれた方形の小曲輪で、桝形虎口の役割を果たしていたかもしれません。
➢ 桝形虎口?
こちらも登城道途中に設けられた方形の小曲輪で、桝形虎口の役割を果たしていたようにみえます。
➢ 帯曲輪
本丸の下を二重の帯曲輪で取り囲んでいます。
➢ ⑦本丸
山頂部に位置する幅8メートル、長さ40メートルの細長い曲輪です。
本丸からの眺望。かつての上田荘を一望できます。周囲の山々からの雪解け水に恵まれたここ塩沢地区の水田は、魚沼コシヒカリの中でも特に上質な米を産すると評価されています。
本丸背後の堀切
➢ 西尾根
本丸西側の尾根には削平部が続いており、曲輪群があったものと推測されます。後で知って後悔なのですが、尾根の両脇には畝状竪堀群が残っているとのことです。
(訪問日 2021年4月24日)
➣ アクセス情報● 住所 | 新潟県南魚沼市樺野沢 |
● 交通 | (東登城口まで) JR上越線・上越国際スキー場前駅より徒歩3分 関越道・塩沢石打ICより県道451号線経由6㎞ |
● 駐車場 | 樺沢城跡駐車場(無料:上記地図 'P' の地点) |
チェックマークは東登城口
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