01
どういうわけか「今度の震災」では、浅草の観音堂は焼け残り、五重塔はびくともしなかった。震災直後から境内に押しかけたのは、安全な場所を求める避難者ばかりではない。神仏に祈り、すがろうとする人たちもまた、長蛇の列をなしていた。
竹久夢二はその様子を、画家として描き残している。群れなす参拝客たちの目的が、震災前のそれとは違っていたことを、画家の眼は見逃さなかった。
観音堂の「おみくじ場」に群衆して、一片の紙に運命を托さうとしてゐる幾百の人々を私は見た。それは必ずしも日頃神信心を怠らない老人や婦人ばかりではない、白セルの洋服のバンドにローマ字をつけた若い紳士や、パナマ帽子を被つた三十男や、束髪を結つた年頃の娘をも、私は見た。
その隣で売つてゐる、「家内安全」「身代隆盛」加護の護符の方が売行きが悪いのを、私は見た。この人達には、もはや家内も身代もないのであらう。今はただ御神籤(おみくじ)によつて、明日の命を占つてゐるのを、私は見た。*1
震災後、一風変わった「すごろく」が出回るようになった。大正の出版文化のなかで世相を映し出すメディアとなっていたすごろくが、今度の震災にいち早く反応したのは当然のことだった。1923年9月1日以降、あの震災そのものをモチーフとした「震災双六(すごろく)」なるものが登場したのである 。*2
たとえば、夢二と同じく災後の東京をスケッチしていた山村耕花は、その年のうちに《大正大震災双六》を手がけている。すべてのコマが過酷な被災シーンで埋め尽くされているなかで、唯一、「上がり」のコマだけが違っていた。「上がり」には何の「絵」も描かれず、ただ朱色に塗りつぶされた丸の上に、「安全」「生命」「財産」の言葉が並ぶだけだった。
おみくじとすごろく。神仏とサイコロ。一瞬にして焦土と化した帝都で、理不尽な運命によって生死の境を出入りした人たちにとって、それらは、ほとんど同じものだったろう。圧倒的な暴力が、身も蓋もない偶然によって、理不尽にふりかかる。そのことを知ってしまった帝都の人たちにとって、この都市は見渡しきれないすごろくであり、ここで生き続けるために賽を振るほかなかった。
しかし、震災を生き延びた人々にとって、「上がり」とは何だったのだろうか。たしかに「安全」「生命」「財産」はもっとも守るべきものだったに違いない。けれども同時に、その先には「絵」に描くことのできない、見果てぬ盤面が続いていることを、誰しもがわかっていたはずである。
夢二は、震災後のルポルタージュの最後を、「東京は、バビロンの昔に還つた」と締めくくっている *3 。20世紀のはじめに突然蘇った、極東のバビロン。その行く末を、その「絵」を、浅草観音は見通していただろうか。
02
東京が揺れていた頃、マルセル・デュシャンはもう現役のアーティストではなかった。当時すでに英雄視されはじめていた「現代美術の父」は、美術業界とはほとんど関係を持たず、そのかわりにチェス三昧の日々を送っていた。デュシャンは本気で、プロのチェス棋士になるつもりだったのだ。
そんな日々のなかから、突如としてひとつの「作品」が産まれ落ちる。デュシャンはチェスの合間に、カジノでルーレットやトランテ=キャラントに興じることがあったが、そうしているうちに、射幸心に囚われることなく冷静に思考できる自分に気がついた。
そこでデュシャンは、《モンテカルロ債権》なる奇妙な作品に着手したのだ。それは、カジノで勝つ「数学的方式」を開発するために、投資家へ向けて発行した「債権」だった(500フランで30口発行され、最終的に12名が出資した)。アンドレ・ブルトンやキャサリン・ドライヤーといった支援者たちは、カジノに通い詰め、怪しげな債権を売りまわっているデュシャンに対してあからさまに幻滅した。「考えのない幼いこどもみたい」なマルセルは、きっとなにかしら心身に不調があるにちがいない、と。*4
当然、デュシャンは正気だったし、猛然と「作品」を制作していた。1924年4月17日、デュシャンは例の「数学的方式」を探求するために滞在していたモンテカルロから、親友であり、最も尊敬する画家であったフランシス・ピカビアに宛てて手紙を書いている。
まったく少ない元手で5日前からぼくの組み合わせを実験している。少額ながら毎日着々と勝ちました―― 1時間か2時間で――
さらに完璧なものにして、完成された賭け方をパリに持ち帰ればと思います。それは甘美な単調さに類する。いかなる感動もなし。<中略>
お分かりでしょうけれど、私は画家であることをやめてはいません。
いまは偶然に任せてデッサンをしています。*5
数学によってルーレットから偶然性を取り除き、チェスのように戦略的な「ゲーム」へと作り変えること。《モンテカルロ債権》はそのような作品であり、それを制作するデュシャンは、まぎれもなく「画家」だった。
03
一方、東京の画家たちは、どちらかというとチェスよりもルーレット、つまり、すごろくの偶然性のなかから世界を描こうとしていた。
そのことは、震災後に復活した夥しい数の「鯰絵」によって示されている。偶然性と暴力の象徴である地震鯰は、この理不尽な現実に対して、神話的な因果律とわかりやすい物語を与えてくれた。画家たちは、なかば強迫的に鯰と戯れることで、この世界を理解可能なものへ翻訳しようと試みていたのである。
チェスのような戦略的ゲームへの関心を高めたのは、「此の際だから」「此の機会に」と帝都復興を推進した政治家やテクノクラートたちだった。1923年9月6日の閣議において「理想的帝都建設ノ為ニ絶好ノ機会」であると主張したのは、内務大臣の座についたばかりの後藤新平だったが、後藤は震災直後から、復興計画のアドバイスを求めるために、師と仰ぐチャールズ・ビアードに電報を打っていた。9月5日に届いたビアードからの返信には「新路線を設定せよ、路線内の建築を禁ぜよ、鉄道駅を整理せよ」とある。*6
彼らの夢見た帝都復興計画は、たしかにある種の戦略的ゲームだった。「後藤の大風呂敷」と呼ばれた最初の案は、被害のほとんど無かった地域も含めた東京全域を作り変えようとするもので、あたかも巨大なチェスボードのようであったが、そこに「画家たち」の「絵」を掛けるための余白はなかったようだ。
デュシャンがピカビアに手紙を書いていたちょうどその頃、上野では《帝都復興創案展覧会》(1924年4月)なるものが開催されていた。国民美術協会が主催するこの展覧会は、政治家やテクノクラート主導の復興計画に対して、建築家や美術家が主体となって復興のヴィジョンを提示することを目的としていた。まさにチェスとすごろく、帝都復興計画と「画家たち」をつなぐ、絶好の機会だったわけだ。
とりわけ、企画の中心人物のひとりであった今和次郎が、「マヴォ」のような最も先鋭的な前衛集団を参加させたことは画期的だった。なぜなら、生まれたばかりの「前衛」であるマヴォ(主に村山知義と柳瀬正夢)が直面していた課題(ダダ的、アナキズム的破壊/構成主義的創造の対立)こそ、すごろくとチェスの問題であったからだ。
しかし結果として、村山たちは「破天荒な怪陳列」のようなものを提示するに留まった。たとえば、同展に参加していた建築家の岸田日出刀はマヴォの展示に対して、「アルコール中毒者の子は白痴になるのと同じ」であると、吐き捨てるように批判している。*7
岸田の毒舌は度を越しているけれども、当時の記録を確認する限り、今和次郎やマヴォたちも、これといった「絵」は思いついていなかったようだ。
前衛画家たちが、学生運動の立て看板のように稚拙な「上がり」に向かって賽を振り続ける一方で、政党政治の利権争いや民衆の抵抗にさらされた後藤は、その大風呂敷を畳まざるをえなかった。帝都の復興は、際限なく拡がっていくすごろくと、縮小してゆくチェスボードのあいだで揺れ動いていた。
04
デュシャンもまた、偶然を飼いならそうとする試みに苦闘していた。《モンテカルロ債権》のコンセプトは明快だったが、実際にデュシャンが開発した方式によるプレイは、おそろしく退屈だったのだ。単調で時間がかかる上に、しかも勝率は五分五分にしかならなかったので、デュシャンはすぐに関心を失ってしまった。
結果的に《モンテカルロ債権》は、最もつまらないチェスになった。ルーレット(すごろく)とチェスを統合しようとする前衛芸術の観念的な弁証法は、ここでも失敗に終わったのである。
制作を放棄したデュシャンは、再びチェス三昧の生活に戻っていった。しかし今度は、その生活そのものを脅かす世界的災禍がやってくる。ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発したのは1939年9月1日。奇しくも16回目の「震災記念日」であった。
デュシャンは恋人とともにヨーロッパを転々と避難し、最終的には無事にニューヨークへと脱出することができた。亡命中のデュシャンが大切に抱えていたのは、後に「移動する美術館」として知られることになる作品、《トランクの箱の中》だった。
戦火を逃れて移動し続けた画家は、新たな戦略的ゲーム(デッサン)に取りかかるよりも前に、自らの作品たちを抱えてすごろくの盤面を駆け抜け、安全な「コマ」まで持ち出すことに注力しなければならなかったのだ。はたしてデュシャンは、この行為すらも「制作」だと考えていただろうか。
終戦後のニューヨークで、デュシャンは日々の平和を噛みしめながら安堵した。しかしそれは、「原爆のむずがゆさによって飾りのついた安堵」*8 に過ぎなかった。
その後デュシャンは、この与えられた「むずがゆさの飾り」を振り払おうとするかのように、10年の歳月をかけて、誰にも見つけられることのない「密室」を作り続けた。それはまるで、すごろくの「コマ」を打ち抜いて増築したような、秘密の「コマ」であった。
05
たとえば「今度のパンデミック」は、今も私たちがすごろくのコマの上に生きていることを、再び思い出させた。100年前のようにすごろくが描かれなくなったのは、それらは今、「プラットフォーム」と呼ばれるインフラ=ソーシャルメディアに作り変えられたからである。
ソーシャルメディアは、その誕生からわずか10年も経たない間に、すごろくとチェスの統合に成功してしまった。しかしそのかわりに、「ユーザー」と「運営(プラットフォーマー)」という新たな「階級」と分断を生み出した。つまり、運営にとってはチェスであるが、ユーザーにとってはすごろくであるような「疎外」であり *9、誰もが小さなプラットフォーマーになろうと「アテンション」を奪い合うことで、より大きなプラットフォームが成長してゆくという、革命なき「階級闘争」が繰り返されるのである。
「上がり」の見えないプラットフォームに覆い尽くされた世界のなかで、それでも「画家」たちは、絵を描き続けるだろうか。生きてゆくために賽を振りながら、同時にチェスゲームを試みる、そんなアクロバットは可能だろうか。ウィルスやフェイクニュース、流言蜚語、炎上といった「極薄(アンフラマンス)」の驚異から作品を守るには、画家のトランクはあまりにも頼りない。
逡巡して立ち止まる画家たちを最初に出し抜くのは、ゲームのルールそのものを書き換えようとするプレイヤーたちだろう(デュシャンがかつて「ソシエテ・アノニム」で企んでいたように *10)。
しかし、よく注意しなければならない。なぜなら現代において、「ルールを書き換えよ」「ゲームをハッキングせよ」といったかけ声こそ、詐欺師たちが好む常套句なのだから。詐欺師たちは「革命家」を名乗ることで、アテンション・エコノミーの勝者であろうとしているだけなのだ。
この展覧会は、たまたま関東大震災から100年後に開催される。しかし本展は、「関東大震災のための」展覧会ではない *11。もちろん「復興」のためでもなければ、「忘却に抗う」ためでもなく、「社会」の役に立つものでもない。
すごろく(プラットフォーム)のコマの上に生き、「ユーザー」と「運営」の間を行き来しながら葛藤する「画家」たちの心に形を与えるために。トランクよりも堅牢で、運営にもユーザーにも見つからない密室を夢想しながら、飛び立つことのできない想像力のために。かつて、「秘教性にしか救いはない」*12 と書きつけた、憂鬱な「現代美術の父」に対する、せめてもの返答として。
注
*1 竹久夢二「東京災難画信」『夢二と花菱・耕花の関東大震災ルポ』竹久夢二/川村花菱、山村耕花、クレス出版、2003年、6p
*2 「震災双六」については、ジェニファー・ワイゼンフェルドによる優れた研究のなかで言及されている(ジェニファー・ワイゼンフェルド『関東大震災の想像力 災害と復興の視覚文化論』篠儀直子訳、青土社、2014年)。
*3 『夢二と花菱・耕花の関東大震災ルポ』、42p
*4 カルヴィン・トムキンズ『マルセル・デュシャン』木下哲夫訳、みすず書房、2003年、265p
*5 マルセル・デュシャン『マルセル・デュシャン書簡集』フランシス・M・ナウマン/エクトール・オバルク編、北山研二訳、白水社、2009年、151p
*6 『日本の近代をデザインした先駆者 ―生誕150周年記念 後藤新平展図録』東京市政調査会、2007年、94p
*7 岸田日出刀「創案展所感(建築)」『建築新潮』5巻6号(1924)、2p
*8 『マルセル・デュシャン書簡集』、284p
*9 黒瀬陽平『情報社会の情念』NHKブックス、2013年、42-43pp
*10 1920年代後半ごろ、アートマーケットに依存する美術家たちに不快感を覚えていたデュシャンは、ソシエテ・アノニムの支援者であったキャサリン・ドライアーに宛てた手紙のなかで、次のように書いている。「つまり、美術家にまといつくくだらない奴らはどれもこれもペテン師だということです。いかさま師とペテン師がつるんでくるのですから、これまであなたの信念が揺らがなかったのが不思議なくらい(だいたい何に対する信念だったのでしょう)。かぎられた例外をもちだして、「美術ゲーム」全体に対するなまぬるい考えかたを正当化なさらないように。つまるところ、「これこれ」の値がついてはじめて、絵は良いとされるのです。そうすると「神聖な」美術館に受け入れてもらえるかもしれない。それだけのことです。」(『マルセル・デュシャン』、289p、傍点筆者)
*11 本展は、「終戦記念日」と「震災記念日(防災の日)」の間、つまり、何の記念日でもない期間に開催される。
*12 友人であった画家ジャン・クロッティへの手紙(1952年8月17日)『マルセル・デュシャン書簡集』、369p