【竜たちの発言録】山内一弘「藤王よ…若いうちから遊んだ選手に大選手はおらんぞ」
2022年8月27日
1984年9月。ペナントレースも佳境を迎え、優勝争いを繰り広げるドラゴンズにあって、誰よりも大きな歓声をもらっていた選手は誰だったか。田尾安志、大島康徳、谷沢健一といった並み居る諸先輩を押し退けて、竜党の期待と希望を一身に背負っていた若者……それが藤王康晴である。「王貞治を超える逸材」と騒がれ、ドラフト1位で地元ドラゴンズに指名されてから一年足らず。早くも藤王は、その高い評価に違わぬ活躍を見せ始めていた。
プロは一軍にいなきゃいかんですわ
愛知県一宮市で着物修整業を営む藤王家の長男として生まれた康晴は、熱心な野球ファンである父の手ほどきにより、3歳にして左打ちに転向した。ただし「巨人の星」ばりの父子鷹かと言えば必ずしもそうではない。むしろ熱心なのは母・晴子さんの方で、毎晩自宅の庭でおこなう150〜200球のトスバッティングはプロに入るまで続いた。
「危険ですけど、硬球を使っているんです。もしもボールが当たったらと思うと、ヒヤヒヤするけど、息子を信じて投げています」
“怪物” の異名が似合う巨体とコワモテだが、その素顔はそこらの同世代と何ら変わりはない。プライベートでは堀ちえみと掛布雅之のポスターを貼った部屋でギターを弾いたり、意外にも詩作の趣味もあったという。親子仲睦まじく、団欒では「水割り」「すきま風」といった演歌を母とデュエットするのが日常だった。
当時は「ビーバップハイスクール」に象徴される、不良文化の華やかなりし頃。家庭内暴力が社会問題となった時代にあって、康晴は理想的な孝行息子だったと言えよう。まだあどけなさの残る19歳。しかし、ひとたびユニフォームに袖を通せば、その打棒は紛うことなき “怪物” そのものであった。7月に一軍初昇格を果たすと、いきなり初打席初安打(二塁打)を記録。さらにジュニアオールスターでは4打数4安打と打ちまくり、当初は二軍に戻すつもりだった首脳陣は、予定を撤回して一軍に留めることを決めた。
後半戦の藤王は、二軍どころか代打の切り札として順調に実績を重ねていった。兼ねてから「プロは一軍にいなきゃいかんですわ」と語る肝っ玉。課題の守備は到底プロレベルとは言い難かったが、それに目をつむってでも使いたくなる天性が、藤王のバッティングにはあったのだ。
ホームラン狙いで、カーブにヤマを張ってたんですわ
圧巻だったのが9月23日の広島戦(ナゴヤ球場)だ。もう1敗も許されない状況で、中日打線はエース・北別府学の前に無得点に抑え込まれていた。あきらめムード漂うスタンドが沸いたのは、8回裏ツーアウトという局面だった。この日一番の大歓声に包まれながら、代打・藤王が登場したのだ。
しかし、ベンチの期待はさほど高くなかった。何しろ相手は難攻不落の北別府である。特にこの日はすこぶる調子がよく、両サイドを丹念につく投球に谷沢や大島もヒットさえ打てずにいた。
その北別府が投じたカーブを、藤王は狙いすましたかのように振り抜くと、打球はグングンと伸び、そのまま左中間スタンドへ着弾。思いがけないプロ初本塁打に、ナインは喜ぶよりもまず呆気に取られたという。一度は二軍行きを決めていた山内一弘監督も「ワシャあ甘い。人を見る目がなかったよ」と呆れ気味に頭を掻くしかなかった。
当の藤王はといえば、「あそこはホームランでしか得点にならないでしょ? だからホームラン狙いで、カーブにヤマを張ってたんですわ」と言ってのける豪胆ぶりである。
「とにかくや、あいつは思った以上の怪物やで。確か、来た頃は真っ直ぐしか打てなかったのに、今は一軍投手のカーブやフォークにも平気でついていきよる」
指導し始めると止まらなくなる性分から「かっぱえびせん」の異名をとる山内だが、ここまで選手を褒めちぎるのは滅多にない事だった。また、辛口解説で知られる権藤博も「ハートが違う。生まれつきのスターと言うしかないでしょう」と絶賛。球団には「藤王をスタメンで使え!」との電話が殺到し、上層部は来る球団創設50周年の顔にと早くも皮算用を始めていた。
絵に描いたような順風満帆のルーキーイヤー。藤王が新しい球界のスターに育つのは、もはや既定路線かと思われていた。その後の顛末を敢えて書くつもりはない。遊びは芸の肥やしと言うが、程度が過ぎれば身を滅ぼす。藤王もまた、その沼に嵌まり込んでしまっただけの話だ。
1年目のオフ、山内監督が口を酸っぱくして忠告した「若いうちから遊んだ選手に大選手はおらんぞ」という言葉、これを聞く耳さえ持っていれば……。オールドファンにとって藤王の存在は、水割りの酒といっしょに飲み干したい思い出の一つであろう。
【参考資料】
「週刊ベースボール」(ベースボールマガジン社)
「週刊現代」(講談社)