昭和42年/1967年・名誉毀損だとしてデヴィ夫人に告訴された梶山季之。
インドネシアのスカルノ氏のデビ夫人(二七)=日本名、根本七保子=は弁護士、平井博也氏を通じて九日、小説『生贄(いけにえ)』を執筆した作家・梶山季之氏と出版元の徳間書店(徳間康快代表取締役)を名誉棄損で東京地検に告訴するとともに、二人を相手どって毎日、朝日、読売新聞に謝罪広告の掲載を求める訴訟を起こした。
――『毎日新聞』昭和42年/1967年9月9日夕刊より
ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノさん――ここでは当然〈デヴィ夫人〉という表記で統一しますけど、彼女の個性そのものが、単なるお騒がせの域を超えて、事件性をはらんだ存在であり、文化をゆるがす現象でもあることは、一介の直木賞オタクでしかないワタクシにも、何となくわかります。
昭和36年/1961年、一国の国家元首の夫人となる前後には、富と権力というものに象徴されるエスタブリッシュメントの住人と見なされ、そういう立場の人がおおむね背負わされる一般大衆からの反感ややっかみにさらされた時代もありました。しかしその頃からいまにいたるまで、お高く止まりきらない俗っ気のせいか、多くの人に面白がられてイジられるぐらいの、ユルい魅力も兼ねそなえながら、その履歴のなかに国際問題、社会経済、女性の生き方、芸能、出版、犯罪などなど、あらゆる要素が混ざり込んでいるという、ともかく稀有な人物です。
と、デヴィ夫人の生涯を追うだけで、直木賞(に関連したあれこれ)との接触や接近の話題をいくつも挙げることができそうですけど、今日のエントリーでは、もう一方の主人公の座に梶山季之さんを据えたいと思います。いまから55年前、第49回(昭和38年/1963年・上半期)直木賞に落ちたところから、終生直木賞のようなものを痛烈に批判する側にまわった大作家のひとりです。
ところで、梶山さんの作家的な特徴とは何でしょう。そんな難しいことは、ワタクシもよくわかりませんが、ひとつには市井に生きる有象無象の人間たちの視点を常に意識し、そのなかで悪戦苦闘、新たな物語表現を模索したことが挙げられます。
新しいことに挑戦しようとすれば、旧弊とのぶつかり合いが起こるのは自然の流れです。しかも梶山さんはその売れっ子ぶりも破格でしたから、余計に揉めごとやいざこざに巻き込まれやすくなる。とくに国家権力に目をつけられて、何度も問題視されたのが、「ポルノ小説で荒稼ぎした」と自称・自嘲する梶山さんの、小説における猥褻表現でした。
梶山作品がはじめて猥褻文書販売・所持の嫌疑をうけて摘発されたのが、昭和41年/1966年『週刊新潮』に連載中の「女の警察」5月14日号分の描写です。そのころ梶山さんは政財界の暗部をえぐる類いの取材も精力的におこない、その成果を広く発表していたため、それに対する権力側の制裁と警告の意味合いもあったんじゃないか、などとまことしやかに囁かれた、といいます。もしそうだとしたら、権力としてあまりにやることがショボくてセコすぎるとは思うんですが、たしかにそう考えたほうが話は面白いでしょう。けっきょくこの件は、翌昭和42年/1967年8月22日付で罰金5万円の略式命令を受けて、落着します(平成10年/1998年8月・季節社刊『積乱雲 梶山季之――その軌跡と周辺』所収「仕事の年譜・年譜の行間」)。
以来、昭和43年/1968年には『週刊現代』4月25日号の連載小説「かんぷらちんき」、『週刊新潮』5月4日号の読切小説「スリラーの街」とたてつづけに2度、昭和49年/1974年には『問題小説』7月号に掲載された「銀座ナミダ通り」シリーズの一作が、それぞれ同じように猥褻表現を含んでいると見られて、押収、回収の対象になっています。
4度にわたって同じ罪状で摘発されるというのは、警察側が懲りなかったのか、梶山さんのほうが懲りなかったのか、もはやよくわからないイタチごっこですが、そのたびに新聞で報道されるところが人気の作家の証し、ということかもしれません。少なくとも、これで梶山さんが委縮したとか、御上の意向に従順になったとか、そんなことはまったくなく、男一匹、雑草ダマシイを失わずに、権威や権力に対峙するかたちで作家活動をつづけました。
ということで、いつの間にかアンチ直木賞もさまになる、直木賞があげそこねた作家の代表的な存在となった梶山さんが、政財界のゴシップを大胆に取り入れて、たくましく生きる悪女の姿を描き出そうという気概で筆をとったのが、『週刊アサヒ芸能』に昭和41年/1966年5月29日号~昭和42年/1967年1月22日号まで連載された「生贄」です。
中学の国語教師〈外岡秀哉〉が、新宿の喫茶店でウェイトレスをしていた昔の教え子〈笹倉佐保子〉と偶然再会するところから話が始まります。結婚相手の伯父である怪しげな実業者〈中内栃造〉の仕事を手伝うことになった〈外岡〉は、その関係からアルネシア連邦と日本との戦後賠償の交渉に関わることに。来日したアルメニアの大統領〈エルランガ〉は、無類の女好きで、ファッションモデルの〈伊東さき子〉を見初め、さっそく肉体関係をもち、自国に連れ帰りますが、そこがエルランガの弱点だと知った〈外岡〉は、何が何でも有名になりたい、お金持ちになりたいという〈佐保子〉に知恵を授け、エルランガのもとに送り込むことを計画。同じく第三夫人の座を狙う〈さき子〉を蹴落とし、自らの野望を実現しようとする〈佐保子〉の立身出世の夢は、果たして成功するのでしょうか……。
昭和41年/1966年11月、妊娠中に日本に一時戻ってきていたデヴィ夫人に対して、批判を前提としたような中傷、興味本位にプライバシーをほじくり返す記事が氾濫するなか、やはり『生贄』もその一種として発表された、というのは誰も否定できません。梶山さんや徳間書店は、これは特定の人物を描いたものではない、とさんざん強弁したんですが、多くの読者にデヴィ夫人をモデルにした小説だと思われたのは当然のことでしょう。そして、打たれても泣き寝入りせず、可能なかぎり反撃するというのが、デヴィ夫人の流儀だったようです。
『生贄』が単行本化されて、しばらくたった昭和42年/1967年9月9日、デヴィ夫人は外人記者クラブで会見を開き、梶山さんと徳間書店、および「がんばれ、デビ夫人」の記事を掲載した『F6セブン』発行元の恒文社に対し、東京地検に告訴したことを発表しました。
○
訴えられた梶山さんのほうは、基本的にノーコメントを貫き、訴訟への対応は、佐賀潜さんの弁護士事務所に任せます。両者の代理人同士が話し合って、摺り合わせをおこなった結果、翌昭和43年/1968年12月23日、この案件は判決まで行かずに和解が成立した、ということです。
デヴィ夫人が後年発表した半生記『デヴィ・スカルノ回想記 栄光、無念、悔恨』(平成22年/2010年10月・草思社刊、編集協力:倉沢愛子)には「大宅壮一氏との対談」という項目があり、この訴訟の件に触れた箇所があります。当時、大宅壮一とその門下生の一派がしきりに自分のことを叩いてきたが、どうも人に聞いたところだと、大宅氏は戦時中にスカルノに冷たいあしらいを受けて、それ以来、スカルノに個人的な恨みをもっていたらしい、と分析。一門のひとりだった梶山さんにも誹謗中傷するように書かれたので、告訴した、そして勝訴した、と語っています。さすが、鼻っ柱の強さは筋金入り、という感じの貴重な回想です。
じっさいのところ、いま『生贄』を読んでも、べつにそこまで執拗にデヴィ夫人を批判しよう、他人を貶めようといった内容とは受け取れません。このあたりは完全に、60年代と現代のゴシップに対する読者感情の差、もしくは当事者と片々たる一読者との問題意識の差なんでしょうが、この小説は、モデルだと容易にわかるように書かれた本人が、作者と版元を相手に名誉棄損で告訴した案件としては、いつか紹介した宮本幹也さんの「幹事長と女秘書」(昭和29年/1954年)につづく記念すべき戦後2番目の例になりました。共通するのは、どちらも売文読み物小説の類いだった、ということ。文学的な価値や成果が争点になることもありませんでしたし、梶山さんとしても、そこまで本気で戦う気持ちはなかった、と思われます。
そもそも、あとがきでも梶山さんが匂わせていることですが、この小説は連載の途中でどこかから横槍が入ったらしく、不本意なかたちで完成までこぎつけた、と言われています。横槍とは何なのでしょう。当時、『サンデー毎日』の取材に、佐野洋さんと「ある出版評論家」なる匿名子が、こんなコメントで答えています。
「「週刊誌に連載中に訴えないで、いまごろ訴えるのはちょっとおかしいじゃないですか。それに梶山とデビ夫人は、ことしになってからも何回か会っているはずだ。最近になって自民党あたりから“ちょっとおどしてやれ”と圧力がかけられたのとちがうかな」
と“推理”するのは作家佐野洋氏。そしてある出版評論家は、
「梶山氏の小説は一種の暴露小説だとしても、興味本位な意図が強いし、連載を予定より早く打切ってモナコに旅行しているほどだ。圧力があったとしたらそのときだっただろう」
という。」(『サンデー毎日』昭和42年/1967年9月24日号「デビ夫人の“傷つけられた名誉” 小説「生贄」などを訴えるまで」より)
政治的な圧力があったのではないか、ということです。ポルノ小説と見なされて猥褻文書扱いで摘発された例と、基本的には同じような風説です。
真偽はわかりませんが、その後も梶山さんは、この一件の発生や終結にほとんど関係なく、モデルが特定しやすいかたちの楽しい読み物を、次から次へと発表、直木賞をとってもけっきょく読み捨てられるような作家が数々いるなかで、その上を行って、「読み捨てられる大作家」ナンバーワンの地位を築き上げます。摘発されたり告発されたり、そういうことが起こるのもまた、目立って売れることのできたその地位に安住せず、つねに表現への挑戦を怠らなかった梶山さんなりの努力ゆえでしょう。
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コメント
デビ夫人、デビ夫人と歴史を知らない若い人からもてはやされていますが
どうなんでしょうか。もっと真実を、使っているテレビ局も発信すべきでは?
投稿: 高田 純 | 2020年4月20日 (月) 10時11分