梶山季之とデヴィ夫人
そして、ジャニー喜多川の性加害疑惑が最初に週刊誌を賑わせたのと、デヴィ夫人が梶山季之のゴシップ記事的なモデル小説『生贄』(徳間書店)を訴えたのはまったく同じ年(1967年)であった。
ゆえに、ジャニー喜多川へのバッシングが、夫人自身の個人的トラウマも掘り起こしたのかも知れない。ましてや、夫人と違ってジャニー喜多川は既に亡くなっているから、反論もできない。反論したら、更に大炎上していたろうが。
2010年の『デヴィ・スカルノ回想記 栄光、無念、悔恨』(草思社)で、夫人は『生贄』事件を振り返り、戦時中にスカルノから冷たくあしらわれたことを恨んでいた大宅壮一が門下生の梶山に『生贄』を書かせたので告訴して勝った、と記していた。大宅壮一は1970年、梶山季之は1975年に早逝しているから、この見立てが正しいのかどうか、証明する術はない。
週刊誌黎明期のこの時代は、ゴシップ記事だと真偽定かでない個人のプライバシーまで踏み込めないという理由で、創作仕立てにしたモデル小説が流行しており、当事者の抗議で連載中断されることも日常茶飯事だった。
有名なのは、1956年の『週刊新潮』(新潮社)創刊号から連載されたが、8回で中断した谷崎潤一郎『鴨東綺譚』で、谷崎の親類にあたる渡辺千萬子の回想記『落花流水』(岩波書店)によれば、モデルの女性が『細雪』のヒロインのように美しく描かれると思ったら期待外れだったので抗議をしてきた、とあった。
その程度で脅迫までされるのだから牧歌的とも言えるが、件の『生贄』が連載されたのは『週刊アサヒ芸能』(徳間書店)1966年5月29日号~1967年1月22日号で、訴訟沙汰となったのは1967年も後半、単行本化された後の9月だ。
デヴィ夫人が連載完結どころか単行本化を待って訴えたのは、出産で一時帰国したタイミング(1966年11月)の問題なのか、大宅と梶山に連載中断より大きなダメージを与えようと考えたのだろうか?
なお、大宅壮一と書いてもどんな人物なのか、いまとなってはよく分からないと思うが、1960年代の野次馬コメンテーターのビッグボスで、橋下徹とひろゆき(西村博之)と玉川徹を適当に混ぜて、老成した外見を被せた人物……と書くと怒られそうだが、当時の雑誌を見る限り、立ち位置は似たようなものだ。大宅壮一文庫の存在で、何となくマスメディアの偉人のように思われているが……。