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植え付けられた従順の心

翻訳
07 /03 2022
How Granny planted obedience
投稿者:Laura

 父方の祖母は、第二次世界大戦の期間を通じて看護婦として働いていた頑健な人でした。戦争が終わると彼女はスコットランド北部の小さな漁村に移り住み私の父を含む5人の子供たちを育て上げました。

 私たち姉妹が幼い頃、夏にその祖母の家を訪れ二週間を過ごすという恒例行事がありました。田舎の雰囲気や新鮮な空気もさることながら、何よりも祖母が大好きだった私たちはそのイベントを心待ちにしていました。

 彼女は粗野な人だったとはいえ非常に公平な感覚の持ち主で、私たちを溺愛していました。私たちは庭で果物を採ったり花を摘んだりできましたし、抱きかかえてもらって馬にエサをやったり、ケーキやビスケットの焼き方も教わりました。休暇を終えて祖母の家を後にする私たちはいつだって少し肥え太っていたものです。

 この行事で嫌なことがひとつだけあって、それは祖母の家に向かう旅路でした。車で旅している間ずっと途切れないかのような具合で、旅先で良い子にしているようにという両親(主に母)からの言い聞かせが続くのですから。

 車を降りて祖母の家に到着すると、母はいつも長旅の後だから綺麗にするとだけ父と祖母に断りを入れて、私たち二人をバスルームに連れて行きました。バスルームに入ったら母は温水と冷水のノズルを両方とも全開にして、どんな音もかき消されるような環境をつくりました。それから私たちは服を引き下げられ、強い力で5発から6発叩かれました。これからの二週間、ベストを尽くしてお行儀良く過ごし、悪さを働いて祖母を怒らせないように警告を与えたのです。

 まだ何も悪いことをしていないのにそうやって叩かれると、非常にアンフェアな気持ちになりました。私たちは上気した頬に涙を流しつつ、絶対にいい子で過ごしますから、と繰り返し声を張って約束しました。十分に脅しが効いたと判断したら、母は私たちの服を引き上げて手と顔を洗わせました。これには私たちが泣いていた痕跡を消す意図があったのでしょう。何も悪いことをしていない私たちが母がひっぱたいていると知ったら、父は激怒していたでしょうから。休暇前のこの痛々しいルーティンについて誰にも口外してはならないこと、父には特に知られてはいけないことを、私たちは本能的に理解していました。

 とはいえ、お風呂の時間に私たちの小さなお尻に赤い手形や痕が何個も残っているのを祖母が見逃していたとは考えられません。しかし彼女がそれに言及したことは一度もありませんでした。思い返してみると、祖母はあまり母を高く評価していなかったのではないかという気がします。数年後に父はクレイルという女性と二度目の結婚をするのですが、祖母は母に対するよりもはるかに暖かく彼女に接していたからです。

 お茶を飲んで少ししたら両親は私たち二人を残してエジンバラに帰っていきました。祖母の愛情あふれるケアの元で、待ちに待った二週間の始まりです。

 父やその兄弟たちが幾度となく話していたのは、子供の頃に一番叩かれたのは祖母からで、彼ら5人全員が子供時代を通じて木べらでこっぴどくひっぱたかれた思い出について語る声の調子はいまだに恐怖と畏敬の念を感じさせる厳かなものでした。

 実際、祖母が私たちのお尻をひっぱたくと脅してきた回数は数知れません。しかしながらその言葉を実行に移す段になると、平手で何度か軽くはたく以上のことは決してしてきませんでした。これは確信を持って言えるのですが、祖母は私たちが実家で母の厳しい管理下にあることを知っていて、規則でがんじがらめの上にお尻を痛めつけられる毎日から解放してあげたいと思っていたのでしょう。

 しかしながらある夏のこと、4歳半のシャルロットと6歳の私はそんな祖母を本気で怒らせてしまったのでした。

 私たちは大人が一緒にいなくても庭で遊ぶことを許されていましたが、庭より先に出て行ってはいけないと言われていました。

 何年もの間、それでトラブルは全く起きなかったのですが、その年はなんらかの理由で(理由の詳細は覚えていません)時期が前倒しになって、例年のような夏ではなくイースター休暇に祖母を訪問することになりました。つまるところ、それは周りの牧場にまだたくさんの愛くるしい子羊たちが群れていることを意味していました。私はすぐさま子羊達を抱きしめようと心に決めました。なんてふわふわで可愛らしいんだろう!


 母の重圧から解き放たれ大胆不敵になっていた私はシャルロットにこう提案しました。こっそり庭を抜け出して、目の前の小道を横切り牧草地に忍び込もう。それで子羊さん達を抱っこして、誰にも気付かれないうちに戻ろう。おばあちゃんはモイラおばちゃんと電話しているし、その間に急いで戻ればバレないって。妹は即座にその案は素晴らしいと賛成してくれて、私たち二人は木製の小さなゲートを通り抜けて丁寧に閉めました。風でも吹いて扉がバタン!と大きな音を立てでもしたら、祖母は私たちがこそこそ抜け出したことに気づいてしまうでしょうから。

 その道を通る交通は皆無だったとはいえ、私はやはりしっかりと意識してシャルロットの手を握り、自分と一緒に左右を確認させてから、確固たる足取りで3〜4メートル幅の道路の向こう側へと渡りました。妹に自分と手をつながせるのは自分が大きなお姉さんになったような感覚で心地良く、彼女にこの「道路」の適切な渡り方を厳しく指示していると普段の母になり変わったような心地がしました。

 牧草地の入口に設置された大きな金属製のゲートにたどり着いてみると、どうにも開けられないことがわかりました。掛け金は潤滑油で嫌な感じにベタつき辺りに漂う匂いも酷いのに、固く締まりすぎていて開けられないのです。二人がかりで唸り声を上げながら子供の全力で引っ張ってみても、ゲートはびくともしませんでした。

 仕方がないので、振り向いて祖母の家の方を見やり誰にも見られていないことを確かめ、石がモルタルなしで組み上げられている背の低い壁をよじ登ることにしました。石と石の間にはたくさんの隙間があって足掛かりに使えました。上に登り、二人とも地面に飛び降りました。私はなんとか無事に着地できましたが可哀想なシャルロットは両手両膝で着地することになってしまい、ギザギザの石でタイツが破れて膝を擦りむいた彼女は火がついたように大泣きを始めました。

 必死にシーッと声を出して黙らせようと努め、起き上がるのに手を貸しつつ、泣いていたら大人に見つかってしまうと脅しました。妹を抱きしめていると、またもや自分が非常に成熟し成長を遂げているように感じました。「大丈夫、痛くないよ」とか「痛いの痛いの飛んでいけ」などといった、私自身が痛がっている時にかけられた言葉を繰り返しました。そのうちに彼女は泣きやみましたので、抱っこできる子羊を探しに牧草地の奥へと踏み進んでいきました。

 ところで、母は数年来シャルロットの見た目について奇妙に執着していて、それは彼女がほとんど男の子のように見えるというものでした。乳幼児だった頃のシャルロットがしばしば男の子に間違われていたのは確かに事実ではありましたが、今では誰の目から見ても女の子にしか見えないというのに、明らかに母は頭の切り替えが出来ずにいました。

 9歳か10歳になるまでシャルロットの洋服をすべて選んでいたのは母で、どんなに非実用的であろうと女の子らしさを煮詰めたような服装を彼女に強制していました。私は何もしなくとも十分女の子らしく見えるという評価を得ていましたから、スラックスでもダンガリー製ズボンでもデニムジーンズでも、なんでも着たいものを着ることができました。

 対してシャルロットは毎日スカートかワンピースを着せられ、寒い日にはタイツを穿かされ暖かい日には太ももを晒さねばならず、さらにやはり非実用的なバックル付きのピカピカに磨かれた靴かバレエ用のソフトパンプスを履かされていました。荷解きをして、シャルロット用に母がスーツケースに詰め込んだ徹底的に非実用的な服のラインナップを視認した祖母はいつだって不満気に舌打ちをしていました。二週間も田舎で滞在するというのにこんな服をよこすなんて!

 というわけで牧草地を行く二人の服装は、私の装いがジーンズに分厚い靴下と頑丈なブーツという適切なものだったのに対して、哀れなシャルロットはといえば黄色いワンピースと黒いタイツ(4月初めとはいえスコットランドの春は遅いのです)に底がぺらぺらのバレエシューズという出立ちでした。特に記憶に残っているのは、その日の早い時間に服装の黒と黄色の取り合わせがマルハナバチみたいだと妹をからかったことです。
 
 草地をてくてく歩くこと30秒、妹はまたしてもべそをかき始めました。履いている靴のせいで、水気を帯びた草と泥を踏みつけるとぬたぬたと滑るのです。数メートル前を歩いていた私は痺れを切らし、不平を言うのをやめるように言いました。

 それから、小さな子なら誰だって絶対に泣きべそをかかずにはいられないセリフで追い討ちをかけました。

 「こんな幼稚な子を連れてくるなんて私が馬鹿だったよ」

 シャルロットの名誉のために言っておくと、彼女は私の台詞から数秒後には泣くのをやめて両手の手の甲で目をぬぐい、引き離されまいと泥で滑りながらも歩き続けました。私は妹の手を掴むと大股に歩みを進め、彼女は滑りながらも私の隣にぴったりと身を寄せ歩き、はやる気持ちを抱きつつ遠くからメェ~メェ~と聴こえてくるにぎやかな鳴き声の方へと向かっていきました。

 目的地まで牧草地を半分ほど進むと、聞こえてきたのは金属がガチャガチャと鳴る大きな音でした。さっきのゲートが開く音で間違いありません。現在地は牧草地のど真ん中で隠れる場所などどこにもなく、私たちは立ちすくみ微動だにせず、そのように動かないでいれば気付かれずに済むかもしれないという望み薄の期待にかけるしかありませんでした。

 「あんたたち!」

 祖母がゲートのところで叫んでいます。恐怖にすくみながらゆっくりと振り返ると、近所に住むインネス氏が大股でこちらに向かってきているのが見えました。私たちは造作もなく抱き上げられ、小猿みたいに横抱きにされて速やかに祖母のところまで運ばれていきました。祖母はゲートの外で待っていました。当時彼女は70歳後半で、数年前に脳卒中の発作を起こしたために足が少し不自由でした。祖母に近づくと表情からは彼女が困り果てていることがわかり、私は怒ってくれていたほうがどれだけましだろうと感じ、恥入り後悔の念を感じてあっという間に泣き出しました。

 私たちは家まで運ばれていき、二人の涙はインネス氏の羽織る紺色の農作業用オーバーオールを濡らし、その間も祖母はずっと押し黙ったままでした。粗い布地に顔をうずめて咽び泣いた時に鼻をついた汗と干し草の臭いは今でも忘れられません。

 戸口で私たちを降ろしたインネス氏は祖母の方を向いて微笑みました。

 「お役御免だった木べらが満を辞して復活かな?」

 束の間、そこで二人は思い出話に花を咲かせていました。インネス氏とアリスターおじさんは親友で、二人は男の子がやりそうな悪戯ならなんでもやらかしていて、幼少期のインネス氏のお尻に祖母は木べらを使っていたのです。

 祖母の木べらと自らの関係史を物語り始めた途端、彼の口調は熱を帯び目はギラギラと輝き始めました。当時は意味不明だったけれど今となってはよくわかる感情変化。……とはいえこの部分の記憶は私自身が自分自身の満足のためにいつからか付け加えたものではないか、そう問われたらはいと答えるしかありません。しかしそれでも、確かに思い出せるのだから仕方がありません。

 脳卒中のせいで腕さばきも巧みに木べらを扱うのはもはや不可能だと祖母は渋々認め、インネス氏は一瞬何か言おうとしてやめた気配を見せ、私はといえば息を呑んでそれを見守っていました。代わりにその罰を与えると彼が言い出すのではないかと思ったのです。

 すでに私はいとこ達から情報を仕入れていて、それによればインネス氏は自分の息子や娘のみならず彼らの小学校や幼稚園の同級生達のお尻にも容赦のない痛みを味わわせているとのことでした。実際、彼の大きくて強靭な手の平を見れば、幼いお尻達をすぐさまこてんぱんにするくらいわけもないと感じました。しかし、インネス氏は謎めいた言葉を発しただけでした。

 「マック婆さんのやり方を覚えてるかい?孫連中に躾が必要となったらいつもやってたアレさ」

 祖母にウインク一つして、彼は大股で自分の家に戻っていきました。

 彼の言葉の意味を思案する暇も与えられないままに、祖母はすぐさま私たちの方に向き直り、牧草地の泥と糞で汚れた服と靴を脱がない限り家の中には入れられないと確固とした言葉遣いで言いました。それで私たちは玄関で渋々服と靴を脱ぎました。私がジーンズから足を抜きブーツをさっさと脱ぎ去ったのに対して、シャルロットはバレエ用パンプスを脱いだ後で泥がたっぷりついたタイツを剥ぎ取るようにして脱ぎ下ろさなければならず苦労している様子でした。

 悪戯心とそれが引き起こした面倒事に打ちのめされ穴があったら入りたい心持ちに加え半裸の状態で面目なんて保てるわけもなく、私はTシャツとショーツだけの姿で泣きながら戸口のところで立ち尽くしていました。

 祖母が庭をせかせかと歩き回っている気配は感じていましたが、通りがかった誰かに情けない姿態を見られてしまうのではないかと気が気でなかったので、目に涙を溜めつつもゲートから視線を離しませんでした。不幸中の幸いかすぐに私たちは家の中へと入るように急かされましたが、祖母は庭仕事用の手袋はつけたままで謎のバスケットを片腕に引っ掛け携えていました。

 その後に続いたのは、それまでの人生で受けた中でも最悪のお説教でした。母とは対照的に、祖母は決して声を張り上げたりせず、代わりに穏やかな調子で私たちのしでかしたことがどれだけ間違っていてどれだけ彼女に心配をかけたか説明しました。お守り役なしでも遊ぶことを許してあげたのに、祖母のその全力の信頼を私たちは全力で裏切った。祖母はお説教をそのように締め括り、羞恥の熱い涙が私の目から洪水のように溢れ出ました。

 そして祖母はキッチン用の木製の椅子を一つ引き出し、シャルロットも私も自分たちはこれからぶたれるのだと確信しました。私たち二人はぶたないでほしいという懇願を自動的に始めていたけれど、心の奥底では罰を受けて当然だと感じていました。私たちを無視して、祖母は椅子をもう一つ机から引き出しました。言いつけられて私たちはパンツを脱ぎ、それから祖母の手袋をつけた手が二つの椅子両方に草を敷き広げていくのを当惑と好奇心の入り混じった視線で見つめていました。それから祖母は椅子に腰を下ろす様に言いました。

 街育ちの私たちですから眼前の草が棘のあるイラクサだなんて認識できるはずもなく、二人とも言われた通りにためらうことなく椅子に腰を下ろし、そうして痛みとショックに金切声と共に飛び上がりました。祖母は椅子の上のイラクサを整頓し、さらにバスケットから鷲掴みにしたイラクサを追加するのを何回か繰り返しました。それから穏やかだけれど断固とした口調で椅子に戻るように指示された私たちは、必死になって許しを乞いました。祖母はタイマーを5分にセットして、もし私たちのうちの一人でも椅子から立ち上がったらそのたびに1分時間が延びると言いました。

 目の前の椅子に座ったら最後襲いくるであろう事態にすっかり恐怖した私たちは、翻意してくれるように懇願し嘆願しました。それならば、この『電気椅子』で宣告した時間を過ごす前に電話をかけてインネス氏か奥さんを家に呼びたっぷりひっぱたいてもらうけれど良いか。最終的に祖母にそんなふうに脅されたら、嫌でも従うしかありませんでした。

 かの椅子に腰を下ろしていく時に味わった感触は、私の人生の中でも最も痛々しいものの一つに数えられます。シャルロットと私、二人の口からは金切声とうめき声が上がりました。忌々しいトゲトゲが両太もも、お尻、そして「前のお尻」を責め苛みました。

 すぐに感得したのは、身体を微動だにしない状態を保っていれば痛みはまだましになるということで、それで私は小さな銅像みたいに座って泣き咽びながら歯を食いしばり、身体を動かさないという決心が揺らぐことのないようにがんばりました。一方のシャルロットは上記のコツを体得しなかったために、5分間絶え間なく身体をくねらせ揺り動かしありったけの声量で甲高い叫び声を上げ続け、姿勢を変えるたびに突き刺さすような痛みの波が新たに生まれて彼女の身体の中でもっともプライベートな部位に襲いかかりました。

 それまで生きてきてこんなに5分間を長く感じたことはありませんでした。5分が経過すると二人とも椅子から飛び上がりお尻と太ももを撫でさすりましたが気休めにもなりませんでした。

 痛みは数分でフェイドアウトしたかと思うと夜に再度ぶり返してきましたし、数百ものピリピリ痛むおできが下半身を覆って数日経たないと消えませんでした。その腫れのひとつひとつは、祖母に服従し許可なしに庭から出てはいけないという教訓として確かに機能したのでした。

 私たちはすぐに許されて盛大なハグとキスをしてもらい、何日かは肌はヒリヒリして金切り声を上げ続けた喉の痛みも取れなかったものの、それでもいつも通りの心底楽しい祖母の家でのバケーションを再開できました。ただ、ひとつだけ今に至るまで続いている効果があって、それは子羊を……というよりもイラクサが目に入ると、大好きな祖母を思い出してしまうというもので、そんな時私は一人微笑まずにはいられないのでした。
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お尻叩きと割り開き

翻訳
08 /03 2019
Spanks And Splits
投稿者:Badpam

 先日、私は前職の友人と長電話をして、おしゃべりに花を咲かせました。レスリーはアラバマ州出身、私はニューヨーク州北部の辺境の出身で、どちらも地方独特の鼻声がかった訛りで会話していましたから、傍で私たちのおしゃべりを聞いている人たちがいたらさぞ愉快だったことでしょう。
 レスリーと私は子供を保護するケースワーカーとして一緒に働いていました。こと児童虐待の案件となると彼女は血に飢えたライオンのような働きを見せていて、そのことは私の印象に残っていました。
 会話をしているうちに、話題は昔ながらのお尻叩きのお仕置きへと移って、屈辱感がお尻叩きの躾の大きなパートを占めることで二人の意見は一致しました。私は自分たち三人姉妹が、自分以外の誰かがヘアブラシでお尻を叩かれ追加罰として浣腸を受けるときにはいつでも、その一部始終を見届けられるようにお仕置きの現場に集合させられたことを説明しました。羞恥はすさまじいものでした。レスリーも、シングルマザーの母親に誰かがお尻を叩かれるとき、お仕置きの対象でないこどもたちもその場に同席してお仕置きの様子を見ていなければならなかったと語りました。そしてそのお尻叩きはこどもを必ず丸裸の状態にして与えられたというのです。
 彼女が言うには、母親がこどもたちに屈辱感を味合わせる方法は、私の母親が取った方法よりもはるかにひどいものでした。私の経験が、浣腸を施され便座に座ってその中身を出すところまで他の姉妹たちに見られる屈辱を味わわされ、これ以上ないほどの醜態を晒すものだったというのに、それよりもレスリーの経験はひどかったというのです。レスリーの家では、こどもたちは母親に、「割り開き」と母親自身が命名した行為を強制されていたのでした。
 レスリーは真ん中の子供で上には兄、下には妹がいました。お尻を叩かれるこどもはリビングの真ん中に立たされて、一糸まとわぬ姿にされて家族全員の目の前にさらされました。丸裸の状態で、こどもはお仕置き用のヘアブラシをリビングのソファに腰掛けた母親に手渡さなければなりませんでした。こどもがヘアブラシを母親に渡すと、母親はお説教をはじめ、それが済むと自分の膝に来るようにいいつけました。そして裸のティーンエイジャーはヘアブラシで延々と厳しい罰を受け、それはお尻の皮膚の色と叫びの本気度を尺度に、こどもの身に教訓が叩きこまれたと母親が判断し、満足するまで続きました。それから、すすり泣くこどもは膝から下りるように命じられました。
 ここで「割り開き」の屈辱がはじまります。仰向けに寝転がるように言われた子は、男の子も女の子も、割り開きをするように命じられました。たいていその回数は3回から10回でした。他の人たちはソファに座ってその様子を見つめていました。レスリーが語ってくれたところによると、彼女はつま先を天井に向けるように両脚を上げてから、つま先を正反対の方向に倒し両脚を広げ、その姿勢を保持したままゆっくり10を数えなければならなかったそうです。彼女の股間はこうして完全にむき出しの状態になりました。数を数え終わったら両脚をそろえ、また開く。彼女は、母親が命じた回数分だけその動作を繰り返さなければなりませんでした。レスリーは屈辱感は耐え難いものだったと語りました。彼女も妹さんも割り開きのとき泣かずにはいられなかったし、お兄さんも涙ぐんでいたそうです。この追加罰が済むと、こどもは服を着ることを許されて、子供部屋に上がりダメージから回復することができました。
 私にはなんともいえません。私が今住んでいる北部よりも、アメリカの深南部のあたりではこどもに与えるお仕置きも厳しくなる傾向があるのだとは思います。しかし全裸でお尻を叩かれたうえに、男の子も女の子も性器をむきだしにさせられるような話はいままで一度も聞いたことがありません。私の受けたお仕置きの場合、確かにお尻はいつも裸にされましたが、母に生まれたままの姿を強制されるようなことは決してありませんでした。私たちはみんな女の子で、みんな身体に備えているものは同じでしたが、それでも母は娘たちの恥部が見えないように細心の注意をはらってくれていました。裸のお尻叩きがお仕置きのメインだったのです。
 私はレスリーに、お兄さんの開脚の罰を見なければならなかったとき、きまりの悪い思いをしたかどうか尋ねました。もちろん!と彼女は答えました。当時の彼女にして、お尻叩きのお仕置きの後に割り開きをする意義はどこにも見出せなかったそうです。レスリーはいまだに母親に怒りを抱いていると語りました。私は、彼女の母親は正気を失っていたのだと思います。
 お兄さん、レスリー、妹さんの3人とも、成人してからカウンセリングを受けなくてはなりませんでした。
 彼女の経験に比べれば、私たちが母から受けたお仕置きはそこまでひどいものでもなかったと私は思うのです。

お尻叩きは素裸で

翻訳
05 /01 2019
Nude Spankings
投稿者:Missy76AL

 お尻を叩かれるとき、私たちは必ず素裸にされました。母はできるだけお仕置きの数を減らそうとしてくれていましたし、私たちもその方向性で努力はしていたのです。平日のママにはお仕置きするような時間もエネルギーも残っていなかったので、私たちがお仕置きされるのは土曜日だけでした。平日のお仕置きは非常にまれで、特別なだけあって痛みもまた格別だったことを覚えています。ママは私たちを些細なことでは決してお仕置きしませんでした。私たちがお仕置きされるのは、たいていは重大な問題を起こした時だけでした。家には妹と私しかいませんでした。男兄弟はいなかったしママは離婚していましたから、家には私たちだけでした。お仕置き待ちの時間は時にお仕置きそのものと同じくらい嫌なものでした。お仕置きの日の朝、ママは私たちを起こすと、お尻を叩かれることが決まっている娘にパジャマを着替えないように言いつけました。私たちはパジャマ姿で、あるいはナイトガウンだけを羽織った状態で朝食を食べました。朝食が済むと、私たちは部屋に戻り素裸にならなければなりませんでした。そして自分のベッドを整えて待たされました。朝食の後片付けとキッチンの掃除を終えたあとに、ママはお仕置きを待つ自分の娘の「処置」にとりかかりました。娘の、というよりも娘のお尻の処置と言ったほうがより適切かもしれません。そして、ときにはママはお尻以外の場所の処置にも力を入れたのです。先ほど述べたように、ママのお仕置きは頻繁に行われる類のものではなく、私たちがお尻を叩かれるときは、相当な悪さをしでかしたときがほとんどでした。それで、私たちはヘアブラシとベルトで躾をされました。さらに罪に応じて、ママはヘアブラシを私たちの身体の前側にも使う「処置」をとることがありました。ご想像の通り、それは大変な痛みでした。
 お仕置きが済むと、裸のまま子供部屋の隅に座らされました。お仕置きを受けていないほうの子が宿題をしなければいけないときは別で、お仕置きされた子は掃除用具が入っている部屋にある竜巻退避用のシェルターにつながる跳ね上げ扉を開けなければいけませんでした。そのシェルターには、金属製の折りたたみ椅子が数脚と、ハリケーン用のランプとトランジスターラジオが置いてありました。私たちはシェルターにつながる階段を下りて行き、一番下の段に座っていなければなりませんでした。階段は石でできていたので、座っている時間は大変辛いものになりました。気温が低いときは、屋根裏部屋につながる階段の一番上の段に座らされましたが、居心地が大幅に改善されたとは感じませんでした。母は私たちを二時間ほど座らせたままにしておいて、それからキッチンに連れ戻していくつかの質問をしました。私たちが教訓を受け入れたと母が判断した場合は、シャワーを浴びて洋服を着ることができましたが、お眼鏡にかなわなかった場合はさらに二時間を階段で過ごす羽目になりました。
 八歳のときに、私はママのお財布からお金をくすねて、見つかってしまいました。土曜日になるまで待たされて、盗みと監獄について長いお説教を聞かされました。このときは、お尻だけをベルトでぶたれました。お仕置きが済むと、私は竜巻退避用シェルターに降りる階段の一番下の段に座るように命じられました。ママは悪いことをした人たちは牢屋に閉じ込められます、と言って電気を消し、シェルターの扉を閉めました。数分も経たないうちに、ママは扉を開けて電気をつけてくれました。
 お尻の反省は私の心にも刻み込まれたので、それからというもの、許可なく人の物を取りたいという衝動を私が感じることはありませんでした。

カスター将軍最後の抵抗

翻訳
08 /18 2018
Custer's Last Stand
投稿者:Missy76AL

 私はよくよく状況をつかんでおくべきでした。私は6年生に進級した暁に、自分のミドルネームを「トラブル」と綴ることに決めました。だってみんなキュートだと思うでしょ?私は二番目の子にして末っ子で、「しまった忘れてた、まあいいか」を人生のモットーとして生きていました。もはやお尻を叩かれていたのは過去のこと。過去というか、正しくは古代の遺物。それにお尻ペンペンが日常だった時でも、膝の上に乗せられて数発ぺしぺしされるだけ、ヘアブラシを使われる時でも同じ数で、それを超えた経験なんてありませんでした。姉は私よりずっと厳しくお尻を叩かれていたけれど、彼女は私より3歳も年上なんだからきついお仕置きは当然だと私は思っていました。

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母について

翻訳
06 /18 2017
母について
Mother
投稿者:mellowcathy

 ほかのフォーラムでも書いてきたことですが、母は厳しい人でした。私たちは9人家族で、母は私達をまっとうな人間に育てるのに毎日てんてこまいの状態だったと思います。もし私達に躾が必要な時は、私達は自分たちの部屋に行かされて、パジャマを着てダイニングルームに戻りました。宿題を終わらせてから、パドルでお尻を叩かれました。母は革製のストラップも持っていて、ふだんはそれを瓶のふたをあけるのに使っていましたが、そのストラップがお尻に使われることもかなりありました。決まって兄弟姉妹たちが見ている前で、私達は罰を与えられました。パンツを足首までおろすように言われて、それに異を唱えると、私達はそれを完全に脱がなくてはなりませんでした。男子と男子、女子と女子、あるいは男子と女子といった組み合わせで一緒に罰を受ける時も、そうしてパンツを完全に脱がなければいけない時もあって、とても恥ずかしい思いをしました。

 私宛にコメントやメッセージを送ってくれた人達の中には、母がトウモロコシ畑に生息する魔女であるかのように考えている人もいるようです。でも母は私達のためにベストを尽くしてくれただけなのです。

 アパラチア山地が横たわるケンタッキー州の西部で母は生まれ育ちました。母は7人姉妹の末っ子で、彼女が2歳のときに祖父は蒸発し、そのために祖母と、母を含む子供たちは自力で生活しなければならなくなりました。祖父が複数の女性の間に自分の子供を設けていた事が明らかになると、祖父は学校にあがるまえに去勢されるべきだったというのが現在に至るまで続く祖母の口癖になりました。

 祖母は苦境を嘆き、娘たち全員に高校を卒業させるとの固い信念を抱くに至りました。貧困の連鎖を止めるために祖母が取った方策は次のようなものでした。娘たちに高校を卒業させ、同じく高校を卒業してアパラチア山脈の鉱山で高給を得ている男性と引き合わせます。そして娘たちは股を開き、赤ん坊を産むのです。

 母はほかの姉妹たちと同じく高校に進学させられました。牧師さんは、女の子がじゃがいもの皮をむくのにラテン語など必要ないから、と高校進学に反対しましたが、祖母は意に介しませんでした。祖母は、自分の娘たちが男子との交際ではなく勉学に励むように望みました。祖母は日曜日に着るドレス用のベルトを持っていました。もしも娘が高校卒業前に男性といるところを見つけたら、そのベルトを「お日様の光があたらないところ」に使うと祖母は母達を脅したものでした。母を含む祖母の娘たちの幾人かは、その脅しが具体的には何を意味しているのか身を持って思い知ることになりました。

 そうした特別な場合をのぞき、普段のお仕置きには祖母は木製のむちを使いました。そうして正しい所作と勉学の姿勢を娘たちに教え込んだのです。

 母達は貧しく、わずかな衣服しか持っていませんでしたので、子供たちは学校から帰ると、家用に用意された木綿生地のドレスに着替えました。お仕置きはその場に居合わせた姉妹たち全員の目の前で行われました。罰を受ける子供は家用のドレスを脱ぐことになっていましたから、皆の前で裸に近い姿をさらけ出すことになりました。

 だから、私達の受けた躾は母が受けた躾に比べればずいぶん楽なものだったと私は思うのです。

 (2018年7月26日改稿)

iwayuru