植え付けられた従順の心
翻訳
How Granny planted obedience
投稿者:Laura
父方の祖母は、第二次世界大戦の期間を通じて看護婦として働いていた頑健な人でした。戦争が終わると彼女はスコットランド北部の小さな漁村に移り住み私の父を含む5人の子供たちを育て上げました。
私たち姉妹が幼い頃、夏にその祖母の家を訪れ二週間を過ごすという恒例行事がありました。田舎の雰囲気や新鮮な空気もさることながら、何よりも祖母が大好きだった私たちはそのイベントを心待ちにしていました。
彼女は粗野な人だったとはいえ非常に公平な感覚の持ち主で、私たちを溺愛していました。私たちは庭で果物を採ったり花を摘んだりできましたし、抱きかかえてもらって馬にエサをやったり、ケーキやビスケットの焼き方も教わりました。休暇を終えて祖母の家を後にする私たちはいつだって少し肥え太っていたものです。
この行事で嫌なことがひとつだけあって、それは祖母の家に向かう旅路でした。車で旅している間ずっと途切れないかのような具合で、旅先で良い子にしているようにという両親(主に母)からの言い聞かせが続くのですから。
車を降りて祖母の家に到着すると、母はいつも長旅の後だから綺麗にするとだけ父と祖母に断りを入れて、私たち二人をバスルームに連れて行きました。バスルームに入ったら母は温水と冷水のノズルを両方とも全開にして、どんな音もかき消されるような環境をつくりました。それから私たちは服を引き下げられ、強い力で5発から6発叩かれました。これからの二週間、ベストを尽くしてお行儀良く過ごし、悪さを働いて祖母を怒らせないように警告を与えたのです。
まだ何も悪いことをしていないのにそうやって叩かれると、非常にアンフェアな気持ちになりました。私たちは上気した頬に涙を流しつつ、絶対にいい子で過ごしますから、と繰り返し声を張って約束しました。十分に脅しが効いたと判断したら、母は私たちの服を引き上げて手と顔を洗わせました。これには私たちが泣いていた痕跡を消す意図があったのでしょう。何も悪いことをしていない私たちが母がひっぱたいていると知ったら、父は激怒していたでしょうから。休暇前のこの痛々しいルーティンについて誰にも口外してはならないこと、父には特に知られてはいけないことを、私たちは本能的に理解していました。
とはいえ、お風呂の時間に私たちの小さなお尻に赤い手形や痕が何個も残っているのを祖母が見逃していたとは考えられません。しかし彼女がそれに言及したことは一度もありませんでした。思い返してみると、祖母はあまり母を高く評価していなかったのではないかという気がします。数年後に父はクレイルという女性と二度目の結婚をするのですが、祖母は母に対するよりもはるかに暖かく彼女に接していたからです。
お茶を飲んで少ししたら両親は私たち二人を残してエジンバラに帰っていきました。祖母の愛情あふれるケアの元で、待ちに待った二週間の始まりです。
父やその兄弟たちが幾度となく話していたのは、子供の頃に一番叩かれたのは祖母からで、彼ら5人全員が子供時代を通じて木べらでこっぴどくひっぱたかれた思い出について語る声の調子はいまだに恐怖と畏敬の念を感じさせる厳かなものでした。
実際、祖母が私たちのお尻をひっぱたくと脅してきた回数は数知れません。しかしながらその言葉を実行に移す段になると、平手で何度か軽くはたく以上のことは決してしてきませんでした。これは確信を持って言えるのですが、祖母は私たちが実家で母の厳しい管理下にあることを知っていて、規則でがんじがらめの上にお尻を痛めつけられる毎日から解放してあげたいと思っていたのでしょう。
しかしながらある夏のこと、4歳半のシャルロットと6歳の私はそんな祖母を本気で怒らせてしまったのでした。
私たちは大人が一緒にいなくても庭で遊ぶことを許されていましたが、庭より先に出て行ってはいけないと言われていました。
何年もの間、それでトラブルは全く起きなかったのですが、その年はなんらかの理由で(理由の詳細は覚えていません)時期が前倒しになって、例年のような夏ではなくイースター休暇に祖母を訪問することになりました。つまるところ、それは周りの牧場にまだたくさんの愛くるしい子羊たちが群れていることを意味していました。私はすぐさま子羊達を抱きしめようと心に決めました。なんてふわふわで可愛らしいんだろう!
母の重圧から解き放たれ大胆不敵になっていた私はシャルロットにこう提案しました。こっそり庭を抜け出して、目の前の小道を横切り牧草地に忍び込もう。それで子羊さん達を抱っこして、誰にも気付かれないうちに戻ろう。おばあちゃんはモイラおばちゃんと電話しているし、その間に急いで戻ればバレないって。妹は即座にその案は素晴らしいと賛成してくれて、私たち二人は木製の小さなゲートを通り抜けて丁寧に閉めました。風でも吹いて扉がバタン!と大きな音を立てでもしたら、祖母は私たちがこそこそ抜け出したことに気づいてしまうでしょうから。
その道を通る交通は皆無だったとはいえ、私はやはりしっかりと意識してシャルロットの手を握り、自分と一緒に左右を確認させてから、確固たる足取りで3〜4メートル幅の道路の向こう側へと渡りました。妹に自分と手をつながせるのは自分が大きなお姉さんになったような感覚で心地良く、彼女にこの「道路」の適切な渡り方を厳しく指示していると普段の母になり変わったような心地がしました。
牧草地の入口に設置された大きな金属製のゲートにたどり着いてみると、どうにも開けられないことがわかりました。掛け金は潤滑油で嫌な感じにベタつき辺りに漂う匂いも酷いのに、固く締まりすぎていて開けられないのです。二人がかりで唸り声を上げながら子供の全力で引っ張ってみても、ゲートはびくともしませんでした。
仕方がないので、振り向いて祖母の家の方を見やり誰にも見られていないことを確かめ、石がモルタルなしで組み上げられている背の低い壁をよじ登ることにしました。石と石の間にはたくさんの隙間があって足掛かりに使えました。上に登り、二人とも地面に飛び降りました。私はなんとか無事に着地できましたが可哀想なシャルロットは両手両膝で着地することになってしまい、ギザギザの石でタイツが破れて膝を擦りむいた彼女は火がついたように大泣きを始めました。
必死にシーッと声を出して黙らせようと努め、起き上がるのに手を貸しつつ、泣いていたら大人に見つかってしまうと脅しました。妹を抱きしめていると、またもや自分が非常に成熟し成長を遂げているように感じました。「大丈夫、痛くないよ」とか「痛いの痛いの飛んでいけ」などといった、私自身が痛がっている時にかけられた言葉を繰り返しました。そのうちに彼女は泣きやみましたので、抱っこできる子羊を探しに牧草地の奥へと踏み進んでいきました。
ところで、母は数年来シャルロットの見た目について奇妙に執着していて、それは彼女がほとんど男の子のように見えるというものでした。乳幼児だった頃のシャルロットがしばしば男の子に間違われていたのは確かに事実ではありましたが、今では誰の目から見ても女の子にしか見えないというのに、明らかに母は頭の切り替えが出来ずにいました。
9歳か10歳になるまでシャルロットの洋服をすべて選んでいたのは母で、どんなに非実用的であろうと女の子らしさを煮詰めたような服装を彼女に強制していました。私は何もしなくとも十分女の子らしく見えるという評価を得ていましたから、スラックスでもダンガリー製ズボンでもデニムジーンズでも、なんでも着たいものを着ることができました。
対してシャルロットは毎日スカートかワンピースを着せられ、寒い日にはタイツを穿かされ暖かい日には太ももを晒さねばならず、さらにやはり非実用的なバックル付きのピカピカに磨かれた靴かバレエ用のソフトパンプスを履かされていました。荷解きをして、シャルロット用に母がスーツケースに詰め込んだ徹底的に非実用的な服のラインナップを視認した祖母はいつだって不満気に舌打ちをしていました。二週間も田舎で滞在するというのにこんな服をよこすなんて!
というわけで牧草地を行く二人の服装は、私の装いがジーンズに分厚い靴下と頑丈なブーツという適切なものだったのに対して、哀れなシャルロットはといえば黄色いワンピースと黒いタイツ(4月初めとはいえスコットランドの春は遅いのです)に底がぺらぺらのバレエシューズという出立ちでした。特に記憶に残っているのは、その日の早い時間に服装の黒と黄色の取り合わせがマルハナバチみたいだと妹をからかったことです。
草地をてくてく歩くこと30秒、妹はまたしてもべそをかき始めました。履いている靴のせいで、水気を帯びた草と泥を踏みつけるとぬたぬたと滑るのです。数メートル前を歩いていた私は痺れを切らし、不平を言うのをやめるように言いました。
それから、小さな子なら誰だって絶対に泣きべそをかかずにはいられないセリフで追い討ちをかけました。
「こんな幼稚な子を連れてくるなんて私が馬鹿だったよ」
シャルロットの名誉のために言っておくと、彼女は私の台詞から数秒後には泣くのをやめて両手の手の甲で目をぬぐい、引き離されまいと泥で滑りながらも歩き続けました。私は妹の手を掴むと大股に歩みを進め、彼女は滑りながらも私の隣にぴったりと身を寄せ歩き、はやる気持ちを抱きつつ遠くからメェ~メェ~と聴こえてくるにぎやかな鳴き声の方へと向かっていきました。
目的地まで牧草地を半分ほど進むと、聞こえてきたのは金属がガチャガチャと鳴る大きな音でした。さっきのゲートが開く音で間違いありません。現在地は牧草地のど真ん中で隠れる場所などどこにもなく、私たちは立ちすくみ微動だにせず、そのように動かないでいれば気付かれずに済むかもしれないという望み薄の期待にかけるしかありませんでした。
「あんたたち!」
祖母がゲートのところで叫んでいます。恐怖にすくみながらゆっくりと振り返ると、近所に住むインネス氏が大股でこちらに向かってきているのが見えました。私たちは造作もなく抱き上げられ、小猿みたいに横抱きにされて速やかに祖母のところまで運ばれていきました。祖母はゲートの外で待っていました。当時彼女は70歳後半で、数年前に脳卒中の発作を起こしたために足が少し不自由でした。祖母に近づくと表情からは彼女が困り果てていることがわかり、私は怒ってくれていたほうがどれだけましだろうと感じ、恥入り後悔の念を感じてあっという間に泣き出しました。
私たちは家まで運ばれていき、二人の涙はインネス氏の羽織る紺色の農作業用オーバーオールを濡らし、その間も祖母はずっと押し黙ったままでした。粗い布地に顔をうずめて咽び泣いた時に鼻をついた汗と干し草の臭いは今でも忘れられません。
戸口で私たちを降ろしたインネス氏は祖母の方を向いて微笑みました。
「お役御免だった木べらが満を辞して復活かな?」
束の間、そこで二人は思い出話に花を咲かせていました。インネス氏とアリスターおじさんは親友で、二人は男の子がやりそうな悪戯ならなんでもやらかしていて、幼少期のインネス氏のお尻に祖母は木べらを使っていたのです。
祖母の木べらと自らの関係史を物語り始めた途端、彼の口調は熱を帯び目はギラギラと輝き始めました。当時は意味不明だったけれど今となってはよくわかる感情変化。……とはいえこの部分の記憶は私自身が自分自身の満足のためにいつからか付け加えたものではないか、そう問われたらはいと答えるしかありません。しかしそれでも、確かに思い出せるのだから仕方がありません。
脳卒中のせいで腕さばきも巧みに木べらを扱うのはもはや不可能だと祖母は渋々認め、インネス氏は一瞬何か言おうとしてやめた気配を見せ、私はといえば息を呑んでそれを見守っていました。代わりにその罰を与えると彼が言い出すのではないかと思ったのです。
すでに私はいとこ達から情報を仕入れていて、それによればインネス氏は自分の息子や娘のみならず彼らの小学校や幼稚園の同級生達のお尻にも容赦のない痛みを味わわせているとのことでした。実際、彼の大きくて強靭な手の平を見れば、幼いお尻達をすぐさまこてんぱんにするくらいわけもないと感じました。しかし、インネス氏は謎めいた言葉を発しただけでした。
「マック婆さんのやり方を覚えてるかい?孫連中に躾が必要となったらいつもやってたアレさ」
祖母にウインク一つして、彼は大股で自分の家に戻っていきました。
彼の言葉の意味を思案する暇も与えられないままに、祖母はすぐさま私たちの方に向き直り、牧草地の泥と糞で汚れた服と靴を脱がない限り家の中には入れられないと確固とした言葉遣いで言いました。それで私たちは玄関で渋々服と靴を脱ぎました。私がジーンズから足を抜きブーツをさっさと脱ぎ去ったのに対して、シャルロットはバレエ用パンプスを脱いだ後で泥がたっぷりついたタイツを剥ぎ取るようにして脱ぎ下ろさなければならず苦労している様子でした。
悪戯心とそれが引き起こした面倒事に打ちのめされ穴があったら入りたい心持ちに加え半裸の状態で面目なんて保てるわけもなく、私はTシャツとショーツだけの姿で泣きながら戸口のところで立ち尽くしていました。
祖母が庭をせかせかと歩き回っている気配は感じていましたが、通りがかった誰かに情けない姿態を見られてしまうのではないかと気が気でなかったので、目に涙を溜めつつもゲートから視線を離しませんでした。不幸中の幸いかすぐに私たちは家の中へと入るように急かされましたが、祖母は庭仕事用の手袋はつけたままで謎のバスケットを片腕に引っ掛け携えていました。
その後に続いたのは、それまでの人生で受けた中でも最悪のお説教でした。母とは対照的に、祖母は決して声を張り上げたりせず、代わりに穏やかな調子で私たちのしでかしたことがどれだけ間違っていてどれだけ彼女に心配をかけたか説明しました。お守り役なしでも遊ぶことを許してあげたのに、祖母のその全力の信頼を私たちは全力で裏切った。祖母はお説教をそのように締め括り、羞恥の熱い涙が私の目から洪水のように溢れ出ました。
そして祖母はキッチン用の木製の椅子を一つ引き出し、シャルロットも私も自分たちはこれからぶたれるのだと確信しました。私たち二人はぶたないでほしいという懇願を自動的に始めていたけれど、心の奥底では罰を受けて当然だと感じていました。私たちを無視して、祖母は椅子をもう一つ机から引き出しました。言いつけられて私たちはパンツを脱ぎ、それから祖母の手袋をつけた手が二つの椅子両方に草を敷き広げていくのを当惑と好奇心の入り混じった視線で見つめていました。それから祖母は椅子に腰を下ろす様に言いました。
街育ちの私たちですから眼前の草が棘のあるイラクサだなんて認識できるはずもなく、二人とも言われた通りにためらうことなく椅子に腰を下ろし、そうして痛みとショックに金切声と共に飛び上がりました。祖母は椅子の上のイラクサを整頓し、さらにバスケットから鷲掴みにしたイラクサを追加するのを何回か繰り返しました。それから穏やかだけれど断固とした口調で椅子に戻るように指示された私たちは、必死になって許しを乞いました。祖母はタイマーを5分にセットして、もし私たちのうちの一人でも椅子から立ち上がったらそのたびに1分時間が延びると言いました。
目の前の椅子に座ったら最後襲いくるであろう事態にすっかり恐怖した私たちは、翻意してくれるように懇願し嘆願しました。それならば、この『電気椅子』で宣告した時間を過ごす前に電話をかけてインネス氏か奥さんを家に呼びたっぷりひっぱたいてもらうけれど良いか。最終的に祖母にそんなふうに脅されたら、嫌でも従うしかありませんでした。
かの椅子に腰を下ろしていく時に味わった感触は、私の人生の中でも最も痛々しいものの一つに数えられます。シャルロットと私、二人の口からは金切声とうめき声が上がりました。忌々しいトゲトゲが両太もも、お尻、そして「前のお尻」を責め苛みました。
すぐに感得したのは、身体を微動だにしない状態を保っていれば痛みはまだましになるということで、それで私は小さな銅像みたいに座って泣き咽びながら歯を食いしばり、身体を動かさないという決心が揺らぐことのないようにがんばりました。一方のシャルロットは上記のコツを体得しなかったために、5分間絶え間なく身体をくねらせ揺り動かしありったけの声量で甲高い叫び声を上げ続け、姿勢を変えるたびに突き刺さすような痛みの波が新たに生まれて彼女の身体の中でもっともプライベートな部位に襲いかかりました。
それまで生きてきてこんなに5分間を長く感じたことはありませんでした。5分が経過すると二人とも椅子から飛び上がりお尻と太ももを撫でさすりましたが気休めにもなりませんでした。
痛みは数分でフェイドアウトしたかと思うと夜に再度ぶり返してきましたし、数百ものピリピリ痛むおできが下半身を覆って数日経たないと消えませんでした。その腫れのひとつひとつは、祖母に服従し許可なしに庭から出てはいけないという教訓として確かに機能したのでした。
私たちはすぐに許されて盛大なハグとキスをしてもらい、何日かは肌はヒリヒリして金切り声を上げ続けた喉の痛みも取れなかったものの、それでもいつも通りの心底楽しい祖母の家でのバケーションを再開できました。ただ、ひとつだけ今に至るまで続いている効果があって、それは子羊を……というよりもイラクサが目に入ると、大好きな祖母を思い出してしまうというもので、そんな時私は一人微笑まずにはいられないのでした。
投稿者:Laura
父方の祖母は、第二次世界大戦の期間を通じて看護婦として働いていた頑健な人でした。戦争が終わると彼女はスコットランド北部の小さな漁村に移り住み私の父を含む5人の子供たちを育て上げました。
私たち姉妹が幼い頃、夏にその祖母の家を訪れ二週間を過ごすという恒例行事がありました。田舎の雰囲気や新鮮な空気もさることながら、何よりも祖母が大好きだった私たちはそのイベントを心待ちにしていました。
彼女は粗野な人だったとはいえ非常に公平な感覚の持ち主で、私たちを溺愛していました。私たちは庭で果物を採ったり花を摘んだりできましたし、抱きかかえてもらって馬にエサをやったり、ケーキやビスケットの焼き方も教わりました。休暇を終えて祖母の家を後にする私たちはいつだって少し肥え太っていたものです。
この行事で嫌なことがひとつだけあって、それは祖母の家に向かう旅路でした。車で旅している間ずっと途切れないかのような具合で、旅先で良い子にしているようにという両親(主に母)からの言い聞かせが続くのですから。
車を降りて祖母の家に到着すると、母はいつも長旅の後だから綺麗にするとだけ父と祖母に断りを入れて、私たち二人をバスルームに連れて行きました。バスルームに入ったら母は温水と冷水のノズルを両方とも全開にして、どんな音もかき消されるような環境をつくりました。それから私たちは服を引き下げられ、強い力で5発から6発叩かれました。これからの二週間、ベストを尽くしてお行儀良く過ごし、悪さを働いて祖母を怒らせないように警告を与えたのです。
まだ何も悪いことをしていないのにそうやって叩かれると、非常にアンフェアな気持ちになりました。私たちは上気した頬に涙を流しつつ、絶対にいい子で過ごしますから、と繰り返し声を張って約束しました。十分に脅しが効いたと判断したら、母は私たちの服を引き上げて手と顔を洗わせました。これには私たちが泣いていた痕跡を消す意図があったのでしょう。何も悪いことをしていない私たちが母がひっぱたいていると知ったら、父は激怒していたでしょうから。休暇前のこの痛々しいルーティンについて誰にも口外してはならないこと、父には特に知られてはいけないことを、私たちは本能的に理解していました。
とはいえ、お風呂の時間に私たちの小さなお尻に赤い手形や痕が何個も残っているのを祖母が見逃していたとは考えられません。しかし彼女がそれに言及したことは一度もありませんでした。思い返してみると、祖母はあまり母を高く評価していなかったのではないかという気がします。数年後に父はクレイルという女性と二度目の結婚をするのですが、祖母は母に対するよりもはるかに暖かく彼女に接していたからです。
お茶を飲んで少ししたら両親は私たち二人を残してエジンバラに帰っていきました。祖母の愛情あふれるケアの元で、待ちに待った二週間の始まりです。
父やその兄弟たちが幾度となく話していたのは、子供の頃に一番叩かれたのは祖母からで、彼ら5人全員が子供時代を通じて木べらでこっぴどくひっぱたかれた思い出について語る声の調子はいまだに恐怖と畏敬の念を感じさせる厳かなものでした。
実際、祖母が私たちのお尻をひっぱたくと脅してきた回数は数知れません。しかしながらその言葉を実行に移す段になると、平手で何度か軽くはたく以上のことは決してしてきませんでした。これは確信を持って言えるのですが、祖母は私たちが実家で母の厳しい管理下にあることを知っていて、規則でがんじがらめの上にお尻を痛めつけられる毎日から解放してあげたいと思っていたのでしょう。
しかしながらある夏のこと、4歳半のシャルロットと6歳の私はそんな祖母を本気で怒らせてしまったのでした。
私たちは大人が一緒にいなくても庭で遊ぶことを許されていましたが、庭より先に出て行ってはいけないと言われていました。
何年もの間、それでトラブルは全く起きなかったのですが、その年はなんらかの理由で(理由の詳細は覚えていません)時期が前倒しになって、例年のような夏ではなくイースター休暇に祖母を訪問することになりました。つまるところ、それは周りの牧場にまだたくさんの愛くるしい子羊たちが群れていることを意味していました。私はすぐさま子羊達を抱きしめようと心に決めました。なんてふわふわで可愛らしいんだろう!
母の重圧から解き放たれ大胆不敵になっていた私はシャルロットにこう提案しました。こっそり庭を抜け出して、目の前の小道を横切り牧草地に忍び込もう。それで子羊さん達を抱っこして、誰にも気付かれないうちに戻ろう。おばあちゃんはモイラおばちゃんと電話しているし、その間に急いで戻ればバレないって。妹は即座にその案は素晴らしいと賛成してくれて、私たち二人は木製の小さなゲートを通り抜けて丁寧に閉めました。風でも吹いて扉がバタン!と大きな音を立てでもしたら、祖母は私たちがこそこそ抜け出したことに気づいてしまうでしょうから。
その道を通る交通は皆無だったとはいえ、私はやはりしっかりと意識してシャルロットの手を握り、自分と一緒に左右を確認させてから、確固たる足取りで3〜4メートル幅の道路の向こう側へと渡りました。妹に自分と手をつながせるのは自分が大きなお姉さんになったような感覚で心地良く、彼女にこの「道路」の適切な渡り方を厳しく指示していると普段の母になり変わったような心地がしました。
牧草地の入口に設置された大きな金属製のゲートにたどり着いてみると、どうにも開けられないことがわかりました。掛け金は潤滑油で嫌な感じにベタつき辺りに漂う匂いも酷いのに、固く締まりすぎていて開けられないのです。二人がかりで唸り声を上げながら子供の全力で引っ張ってみても、ゲートはびくともしませんでした。
仕方がないので、振り向いて祖母の家の方を見やり誰にも見られていないことを確かめ、石がモルタルなしで組み上げられている背の低い壁をよじ登ることにしました。石と石の間にはたくさんの隙間があって足掛かりに使えました。上に登り、二人とも地面に飛び降りました。私はなんとか無事に着地できましたが可哀想なシャルロットは両手両膝で着地することになってしまい、ギザギザの石でタイツが破れて膝を擦りむいた彼女は火がついたように大泣きを始めました。
必死にシーッと声を出して黙らせようと努め、起き上がるのに手を貸しつつ、泣いていたら大人に見つかってしまうと脅しました。妹を抱きしめていると、またもや自分が非常に成熟し成長を遂げているように感じました。「大丈夫、痛くないよ」とか「痛いの痛いの飛んでいけ」などといった、私自身が痛がっている時にかけられた言葉を繰り返しました。そのうちに彼女は泣きやみましたので、抱っこできる子羊を探しに牧草地の奥へと踏み進んでいきました。
ところで、母は数年来シャルロットの見た目について奇妙に執着していて、それは彼女がほとんど男の子のように見えるというものでした。乳幼児だった頃のシャルロットがしばしば男の子に間違われていたのは確かに事実ではありましたが、今では誰の目から見ても女の子にしか見えないというのに、明らかに母は頭の切り替えが出来ずにいました。
9歳か10歳になるまでシャルロットの洋服をすべて選んでいたのは母で、どんなに非実用的であろうと女の子らしさを煮詰めたような服装を彼女に強制していました。私は何もしなくとも十分女の子らしく見えるという評価を得ていましたから、スラックスでもダンガリー製ズボンでもデニムジーンズでも、なんでも着たいものを着ることができました。
対してシャルロットは毎日スカートかワンピースを着せられ、寒い日にはタイツを穿かされ暖かい日には太ももを晒さねばならず、さらにやはり非実用的なバックル付きのピカピカに磨かれた靴かバレエ用のソフトパンプスを履かされていました。荷解きをして、シャルロット用に母がスーツケースに詰め込んだ徹底的に非実用的な服のラインナップを視認した祖母はいつだって不満気に舌打ちをしていました。二週間も田舎で滞在するというのにこんな服をよこすなんて!
というわけで牧草地を行く二人の服装は、私の装いがジーンズに分厚い靴下と頑丈なブーツという適切なものだったのに対して、哀れなシャルロットはといえば黄色いワンピースと黒いタイツ(4月初めとはいえスコットランドの春は遅いのです)に底がぺらぺらのバレエシューズという出立ちでした。特に記憶に残っているのは、その日の早い時間に服装の黒と黄色の取り合わせがマルハナバチみたいだと妹をからかったことです。
草地をてくてく歩くこと30秒、妹はまたしてもべそをかき始めました。履いている靴のせいで、水気を帯びた草と泥を踏みつけるとぬたぬたと滑るのです。数メートル前を歩いていた私は痺れを切らし、不平を言うのをやめるように言いました。
それから、小さな子なら誰だって絶対に泣きべそをかかずにはいられないセリフで追い討ちをかけました。
「こんな幼稚な子を連れてくるなんて私が馬鹿だったよ」
シャルロットの名誉のために言っておくと、彼女は私の台詞から数秒後には泣くのをやめて両手の手の甲で目をぬぐい、引き離されまいと泥で滑りながらも歩き続けました。私は妹の手を掴むと大股に歩みを進め、彼女は滑りながらも私の隣にぴったりと身を寄せ歩き、はやる気持ちを抱きつつ遠くからメェ~メェ~と聴こえてくるにぎやかな鳴き声の方へと向かっていきました。
目的地まで牧草地を半分ほど進むと、聞こえてきたのは金属がガチャガチャと鳴る大きな音でした。さっきのゲートが開く音で間違いありません。現在地は牧草地のど真ん中で隠れる場所などどこにもなく、私たちは立ちすくみ微動だにせず、そのように動かないでいれば気付かれずに済むかもしれないという望み薄の期待にかけるしかありませんでした。
「あんたたち!」
祖母がゲートのところで叫んでいます。恐怖にすくみながらゆっくりと振り返ると、近所に住むインネス氏が大股でこちらに向かってきているのが見えました。私たちは造作もなく抱き上げられ、小猿みたいに横抱きにされて速やかに祖母のところまで運ばれていきました。祖母はゲートの外で待っていました。当時彼女は70歳後半で、数年前に脳卒中の発作を起こしたために足が少し不自由でした。祖母に近づくと表情からは彼女が困り果てていることがわかり、私は怒ってくれていたほうがどれだけましだろうと感じ、恥入り後悔の念を感じてあっという間に泣き出しました。
私たちは家まで運ばれていき、二人の涙はインネス氏の羽織る紺色の農作業用オーバーオールを濡らし、その間も祖母はずっと押し黙ったままでした。粗い布地に顔をうずめて咽び泣いた時に鼻をついた汗と干し草の臭いは今でも忘れられません。
戸口で私たちを降ろしたインネス氏は祖母の方を向いて微笑みました。
「お役御免だった木べらが満を辞して復活かな?」
束の間、そこで二人は思い出話に花を咲かせていました。インネス氏とアリスターおじさんは親友で、二人は男の子がやりそうな悪戯ならなんでもやらかしていて、幼少期のインネス氏のお尻に祖母は木べらを使っていたのです。
祖母の木べらと自らの関係史を物語り始めた途端、彼の口調は熱を帯び目はギラギラと輝き始めました。当時は意味不明だったけれど今となってはよくわかる感情変化。……とはいえこの部分の記憶は私自身が自分自身の満足のためにいつからか付け加えたものではないか、そう問われたらはいと答えるしかありません。しかしそれでも、確かに思い出せるのだから仕方がありません。
脳卒中のせいで腕さばきも巧みに木べらを扱うのはもはや不可能だと祖母は渋々認め、インネス氏は一瞬何か言おうとしてやめた気配を見せ、私はといえば息を呑んでそれを見守っていました。代わりにその罰を与えると彼が言い出すのではないかと思ったのです。
すでに私はいとこ達から情報を仕入れていて、それによればインネス氏は自分の息子や娘のみならず彼らの小学校や幼稚園の同級生達のお尻にも容赦のない痛みを味わわせているとのことでした。実際、彼の大きくて強靭な手の平を見れば、幼いお尻達をすぐさまこてんぱんにするくらいわけもないと感じました。しかし、インネス氏は謎めいた言葉を発しただけでした。
「マック婆さんのやり方を覚えてるかい?孫連中に躾が必要となったらいつもやってたアレさ」
祖母にウインク一つして、彼は大股で自分の家に戻っていきました。
彼の言葉の意味を思案する暇も与えられないままに、祖母はすぐさま私たちの方に向き直り、牧草地の泥と糞で汚れた服と靴を脱がない限り家の中には入れられないと確固とした言葉遣いで言いました。それで私たちは玄関で渋々服と靴を脱ぎました。私がジーンズから足を抜きブーツをさっさと脱ぎ去ったのに対して、シャルロットはバレエ用パンプスを脱いだ後で泥がたっぷりついたタイツを剥ぎ取るようにして脱ぎ下ろさなければならず苦労している様子でした。
悪戯心とそれが引き起こした面倒事に打ちのめされ穴があったら入りたい心持ちに加え半裸の状態で面目なんて保てるわけもなく、私はTシャツとショーツだけの姿で泣きながら戸口のところで立ち尽くしていました。
祖母が庭をせかせかと歩き回っている気配は感じていましたが、通りがかった誰かに情けない姿態を見られてしまうのではないかと気が気でなかったので、目に涙を溜めつつもゲートから視線を離しませんでした。不幸中の幸いかすぐに私たちは家の中へと入るように急かされましたが、祖母は庭仕事用の手袋はつけたままで謎のバスケットを片腕に引っ掛け携えていました。
その後に続いたのは、それまでの人生で受けた中でも最悪のお説教でした。母とは対照的に、祖母は決して声を張り上げたりせず、代わりに穏やかな調子で私たちのしでかしたことがどれだけ間違っていてどれだけ彼女に心配をかけたか説明しました。お守り役なしでも遊ぶことを許してあげたのに、祖母のその全力の信頼を私たちは全力で裏切った。祖母はお説教をそのように締め括り、羞恥の熱い涙が私の目から洪水のように溢れ出ました。
そして祖母はキッチン用の木製の椅子を一つ引き出し、シャルロットも私も自分たちはこれからぶたれるのだと確信しました。私たち二人はぶたないでほしいという懇願を自動的に始めていたけれど、心の奥底では罰を受けて当然だと感じていました。私たちを無視して、祖母は椅子をもう一つ机から引き出しました。言いつけられて私たちはパンツを脱ぎ、それから祖母の手袋をつけた手が二つの椅子両方に草を敷き広げていくのを当惑と好奇心の入り混じった視線で見つめていました。それから祖母は椅子に腰を下ろす様に言いました。
街育ちの私たちですから眼前の草が棘のあるイラクサだなんて認識できるはずもなく、二人とも言われた通りにためらうことなく椅子に腰を下ろし、そうして痛みとショックに金切声と共に飛び上がりました。祖母は椅子の上のイラクサを整頓し、さらにバスケットから鷲掴みにしたイラクサを追加するのを何回か繰り返しました。それから穏やかだけれど断固とした口調で椅子に戻るように指示された私たちは、必死になって許しを乞いました。祖母はタイマーを5分にセットして、もし私たちのうちの一人でも椅子から立ち上がったらそのたびに1分時間が延びると言いました。
目の前の椅子に座ったら最後襲いくるであろう事態にすっかり恐怖した私たちは、翻意してくれるように懇願し嘆願しました。それならば、この『電気椅子』で宣告した時間を過ごす前に電話をかけてインネス氏か奥さんを家に呼びたっぷりひっぱたいてもらうけれど良いか。最終的に祖母にそんなふうに脅されたら、嫌でも従うしかありませんでした。
かの椅子に腰を下ろしていく時に味わった感触は、私の人生の中でも最も痛々しいものの一つに数えられます。シャルロットと私、二人の口からは金切声とうめき声が上がりました。忌々しいトゲトゲが両太もも、お尻、そして「前のお尻」を責め苛みました。
すぐに感得したのは、身体を微動だにしない状態を保っていれば痛みはまだましになるということで、それで私は小さな銅像みたいに座って泣き咽びながら歯を食いしばり、身体を動かさないという決心が揺らぐことのないようにがんばりました。一方のシャルロットは上記のコツを体得しなかったために、5分間絶え間なく身体をくねらせ揺り動かしありったけの声量で甲高い叫び声を上げ続け、姿勢を変えるたびに突き刺さすような痛みの波が新たに生まれて彼女の身体の中でもっともプライベートな部位に襲いかかりました。
それまで生きてきてこんなに5分間を長く感じたことはありませんでした。5分が経過すると二人とも椅子から飛び上がりお尻と太ももを撫でさすりましたが気休めにもなりませんでした。
痛みは数分でフェイドアウトしたかと思うと夜に再度ぶり返してきましたし、数百ものピリピリ痛むおできが下半身を覆って数日経たないと消えませんでした。その腫れのひとつひとつは、祖母に服従し許可なしに庭から出てはいけないという教訓として確かに機能したのでした。
私たちはすぐに許されて盛大なハグとキスをしてもらい、何日かは肌はヒリヒリして金切り声を上げ続けた喉の痛みも取れなかったものの、それでもいつも通りの心底楽しい祖母の家でのバケーションを再開できました。ただ、ひとつだけ今に至るまで続いている効果があって、それは子羊を……というよりもイラクサが目に入ると、大好きな祖母を思い出してしまうというもので、そんな時私は一人微笑まずにはいられないのでした。
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