日本の非戦論の「弱さ」として、想定している戦争が、自分のほうから他国への侵略に偏っていて、日本人さえ戦争を放棄していれば戦争は起こらないのだ、と言いたげなところが、よく指摘される。
歴史的にもフビライ汗のモンゴル帝国が攻めてきたくらいで、あとは「ソ連だって攻めて来たではないか」という人がいて驚くが、連合国側に一方的に宣戦を布告したことの作用反作用で、誰がみても、ノモンハンからの続き物ストーリーで、もともとの攻勢主体は日本の側です。
一方では白村江から始まって、倭寇、秀吉の朝鮮侵略、島津藩の琉球王国の侵略と支配、むかしの軍人教育では必ず「必ず他国の土地で戦った」織田信長の「偉さ」が語られたそうだが、
東京や京都と地続きの土地で戦うことは、たいへん嫌っていて、嫌いなものに対する日本の人の一般的な反応として、「そういうことは起こらない」ことにして、考えるのも厭う、という態度は戦後も続いてきたようにおもいます。
幣原喜重郎の「歴史上、他に例がないほど信用を失って、世界中から憎悪と軽蔑を一身に受けている日本が再び世界に相手にしてもらえるようには、これ以外に考えられない」とマッカーサーに述べたことに淵源がある、憲法第九条が、戦後70年、いかにもアジアの政治家らしく、老獪であった吉田茂以下、この一見、非現実的にすら見える条文を盾にとって、朝鮮へ若者を送ることを拒み、ベトナムへ自国の軍隊を送ることを断って、主に朝鮮半島人に戦争を請け負わせて、自分は戦線の後方補給基地と自己を位置付けて「いやあ、戦争は儲かる」と述べて戦後の復興の基礎としたことは、いままでに何度もブログ記事に書いている。
憲法改正のタカ派、と憲法遵守のハト派、前者は保守の悪党どもで、後者は進歩派のインテリ集団というイメージで、戦後日本は、9条を巡る政治の構図は出来てきたが、遠くからみると、実はどんな風に見えているかというと、結果からいえば、日本人という集団を、それまで見たこともなければ想像すら出来なかった空前の繁栄に導いていった憲法第九条が、いわば思惑通りの機能を果たした90年代までの過渡的なリアル政治の道具であったとみなすか、現在を超えて未来においても国のアイデンティティとするべき長期のリアル政治の条件と見なすかで、その論点が明瞭にならないまま、感情的に対立している。
日本社会のなかでも、やや考えが浅い、いわばケーハクな層は、むかしから、
「左派/リベラルは知的で保守層は『お主も悪よのお』の越後屋利権主義者」ということになっていて、自分を知的に見せたければ、取りあえずリベラル/左派的な主張に賛同を示しておけば安全だということになっている。
多分、この近代日本の伝統が、建前は平和を望む国民としての言論が盛んであるのに、いざ例えば新聞の購読料を払うという段になると、狂ったように好戦的な記事を読みたがる本音との、二重の顔を日本の世論に与えてきたのでしょう。
戦後の大半の時期において選挙になれば、不思議なほど自民党に票が流れて、リベラルな国風であるはずの国で、国会にはずらりと越後屋が並んでしまうのも、おなじ理由によっているのかも知れません。
お温習いをすると、日本が狂気に囚われ始めた発端は、当時、世界最強国と言われていたロシアに戦争で勝ってしまったことだった。
実質を悉にみれば、「これほど惨めな勝利というものがあるだろうか」と言いたくなるような凄惨な「勝利」だが、勝ちは勝ちです。
取り分け「ツシマ」、日本で言う日本海海戦は、勝ったというよりも、勝っているはずの相手が、不思議にも後ずさりしていく、という、勝ってるのか負けてるのか、よく判らない陸戦とは様相が異なって、海戦では起きるはずがない、敵艦隊を全滅させるという誰にも文句を言わせないクリーンな勝ちで、世界中に「日本が戦争に勝ったのだ」ということを印象づけました。
ここから、喜びのあまり、日本は国を挙げて、頭がおかしくなります。
二言目には「日本スゴイ」で、おれたちは英米とならぶ一流国、スペインやギリシャは、二流国、中国やタイなんかは、三流国だよね、と国に等級をつけて、世界が日本に憧れている、と言い出す。
ところが現実は美辞麗句や思い込みの言葉に騙されてくれないので、日本人ひとりひとりは、軍事国家化して、目的と道具が転倒した戦争に強いことが文明国の証しという倒錯した考えに囚われた結果、困窮を極めて、東北や北海道の農家の娘に産まれればまだ幼いころから売春婦に売りとばされても文句はいえず、外貨獲得高1位の産業が、海外での売春であったりして、先進国でいるとはなんとつらいものだろう、と愚痴をこぼしあうことになってゆく。
なんだか笑い話のようだが、笑えない現実として、文明が開化してしまう前の江戸時代のほうが、個人の観点からみると、遙かに豊かな生活だったでしょう。
そこで軍人たちが自分たちの盛大な無駄遣いを正当化するために考え出したのが
「満蒙は日本の生命線」だという経済的な主張でした。
あらゆる点からみて、無茶苦茶な主張で、日本の発展のためには満洲の「開拓」が欠かせないというが、その「開拓されるべき原野」には往々にして、すでに満州人や中国人が農場を経営していて、実際、満洲に移民した日本の人たち、たとえば大日向村の人だったか、原野を自分たちで汗を流して切り拓くイメージで大陸に渡ってみたら、すでに存在する農場に割り振られて、
「こんなことでいいのだろうか」と悩んで日記に書き記している。
もうひとつ。
満洲が生命線もなにも、満洲の権益が日本のものだという法的根拠は、実はなにもなくて、
日露戦争の結果確定した1997年までの、遼東半島と南満州鉄道の租借権を持っていただけで、満洲の土地については、「おれがもらったと決めたからおれのものだ」にしか過ぎなかった。
当時の日本の世論の理屈は、「だって英米欧だって、やってきたことじゃないか。日本だけのことではない」で、「他の人だってやっている」理屈だったが、この理屈を突き詰めていけば
「強い者が勝つ」に行き着いて、十分に強くない国は徹底的に破壊されるしかないことに、気が付いていなかったようです。
読んでいると「日本の人は、せめて、歴史の教科書に、戦争に敗れて、ローマ人に、二度と国を再興できないように塩を撒かれたカルタゴ人の故事くらいは載せておけばよかったのに」とおもう。
満洲は、結局、赤字の垂れ流しに終わりました。
軍人たちが散々嘲笑った「貿易立国」こそが、現実主義として日本が生きる道だったのが、いまでは判っている。
満蒙経営は一国の短期のリアリティとしても、ダメな計画の見本のようなものだったが、
大日本帝国は、世界中からの非難の声にも関わらず、この永遠に機能するはずがないビジネスモデルにしがみついて、最後には世界を敵にまわして戦争をすることになります。
そこで極く極く短期の現実主義的方策として、第九条という日本の側からの積極的な戦争放棄を謳った条文を持つ「平和憲法」を日本の政府はつくることになる。
この憲法は政府が苦し紛れにつくったものとは到底おもえないほど巧く機能して、日本を70年以上、戦争に参加することなく、カネモウケに専念できる、という信じがたいほどの恵まれた条件のなかに置き続けました。
さて、これからどうなるか、と例えばオーストラリア政府は日本を眺めて考えている。
中国が、これ以上太平洋上に覇権を求める場合、日本を巻き込まなければ国益が守れないからです。
軍事的には、日本はすでに危険な国ではなくなっている。
日本は巨大な軍事予算こそ持っているが、裏付けになるべき経済力は衰えて、その見た目重視の戦力は、補給物資や弾薬が十日分もないような「張り子の虎」軍隊です。
少なくともアメリカが完全にコントロールできる軍隊で、自立した軍事力を揮うことは当面できないように、嫌な言葉を使えば、いわば去勢されている。
ひとつだけアメリカやオーストラリアにとって問題なのは、日本が第九条を短期のリアリティをつくる条件としてつくったはずなのに、国のアイデンティティ化しようとする国民感情が、かなり育ってしまっていることで、いったい中国が台湾を手初めてに東方侵略に踏み出した場合、どう対処するのか国論が割れてしまいそうなことで、まとまらないまま、中国がやすやすと日本を支配下におく可能性まである。
と、ここまでがお温習いだが、ほんとうは、もっと本質的深刻な問題が日本を、そして欧州やアメリカも取り巻いていて、相対的に、「先進国グループ」が世界の支配的なパワーグループではなくなっている、という新しい状況があります。
ロシアがウクライナに本格的な侵攻を試みたのは20世紀的な国権国家の硬直して、とち狂った指導者の時代錯誤だということになっているが、そうではなくて、「先進国グループ」よりも、中国、インド、ブラジル、インドネシア、そして最終ランナーのアフリカ諸国が、先進国のコントロールから外れて暴走を始める「新しい時代」の先駆けだという見方もある。
先進国のGDPの合計は、すでに非先進国の大国のGDPにPPPベースで及ばなくなっているが、やがて、名目でも、圧倒するようになってゆくのは目に見えていて、それにつられて拡散した核とともに軍事力も例えばアメリカであっても一正面しか作戦させない戦力比率になってゆくでしょう。
そうなると日米軍事同盟などは、まるで意味をなさなくなってしまうので、最も考えられるのは、アメリカは最終的にはNATO+ANZACとの同盟だけを残して、他からは「手を引く」以外には選択しはなくなります。
中国が大日本帝国が陸海軍の大軍を投入して島の飛行場争奪戦だけで2万人の戦死者を出し、戦場全体では8万人の死者と50隻の感染被害、1500機の航空戦力を払っても手に入れられなかったソロモン諸島を札束の力で、いとも簡単に手に入れてしまったのはオーストラリアとニュージーランドではおおきな話題だが、これも、当然、未来を見越して、アメリカとANZACを遮断する行動だと理解されている。
なにより重要なのは近代の歴史を通じて形成された少数の「帝国主義国家」が世界を支配する図式が失われてしまっていることで、「支配する」といういい方を変えれば被支配側はもちろん良い気持ちはしないが「秩序を形成していた」のでもあって、このタガが外れて、世界は文字通り
Come undoneな状態になってしまっている。
ロシアがG7の思惑など、まったくシカトしたまま、悠々とウクライナ人たちを無差別に殺し続けていられるのは、そういう見方をすれば、この新しい世界の構図のせいです。
日本の人にとって、この「新秩序」のなにが困るかというと、アメリカから見て、軍事同盟を維持する必要性がなくなっていくことで、より日本が従属的で貢献度がおおきい軍事同盟を申し出るか、国としての独立性を体面だけでも保ちたければ、アメリカと軍事的には袂を分かつか、の選択を迫られて、国論がいよいよ分裂しそうなことです。
分裂すれば、つけいる国が出てくる。
そのときに、厄介なことになりそうなのが第九条をめぐる意見の対立で、いまのままでいくと、
日本の単純な立場主義に立つ傾向が強い左派は「九条反対?はい、好戦主義者認定です。靖国派だろう、おまえ」と言い出しそうだし、第九条を改正するほうは、一気に軍事力を増強して、まさか満蒙のお伽噺を復活させるわけはないが、中国・北朝鮮論を盛り上げて、悪くすると、一挙に左派の弾圧に乗りだして、実質的あるいは直截のクーデターによる政体改造に乗り出すかもしれない。
日本はおおきな岐路にたっていて、これから、あの国は、どちらに向かうだろうか、と、ときどき日本のことを考えます。
日本の人のことだから、多分、まだまだ暢気なもので、「そんな切迫した状況になってゆくわけねーじゃん。それよりも、明日の株価ですよ」と考えていそうだが、論理というものは案外に怖ろしいもので、感覚的にはありえない未来へ、外交や経済の論理は、論理の行き着く先にその国を運んでいく。
ま、わたしは一介の庶民ですから、なにか起きてから心配します、という態度は、どんな社会のどんな場合でも、「正しい」のではあるけれどね。
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