今年もフジロックで若い人たちは、おおぜい、日本に行ったようでした。
ニュージーランドの若い世代は、グループで、なぜか「フジロック+ラーメン」のミニツアーを組んで出かける人が多い。
物価は安く、トラブルは少ないうえに、欧州や北米人と出会う場所になっていて、苗場では、
「国際親善」が進んでいたようです(^^;)
若い友だちのひとりは、オンラインゲームで、いつもチームを組んでいるボルティモアやベルリンの会ったことがない「チームメイト」と会えて、大興奮で、みんなで熱暑の東京に繰り出して、ラーメンツアーに出かけたもののようでした。
ここに行ったんだよ、と、どうやら英語版ラーメン店ガイドを見て出かけたらしいラーメン店のリストを見ると、知らない店ばかりで、ケバイというか、外連が強い店が並んで、馴染みがないが、
それぞれ強烈な個性を売り物にしていて、日本人の同調圧力はラーメン世界には存在しないのか、とおもったり、よっぽど競争が激しいのか、と想像したり、いろいろなことを考える。
日本にいたときは、ラーメンは、あんまり好きな食べ物ではなくて、と言ってもまったくいかなかったわけではなくて、鎌倉の「ひよどり」や、もうひとつわしガキの頃に、店主の「おじさん」の親切さとおだやかで毅然とした性格が大好きで、鎌倉ばーちゃんにときどきつれていってもらった「ひら乃」は憶えているが、いま見ると両方ともなくなっているようです。
長じてからは頭のなかで「おいしくなくてもいい」という失礼な分類になっているラーメン屋さんもあって、そんな枕の言葉を述べて名前を書くわけにはいかないが、
「夜が早い町で深夜にクルマでラーメンを食べに行く」ということそのものが楽しくて、藤沢の深夜営業の店や、葉山の海に近いラーメン屋にはときどき出かけて、いまでも、駐車場に駐めたクルマから降りた途端に臭う、強烈な豚肉出汁の悪臭がなつかしい気がする。
「悪臭がなつかしい」はヘンだが、ちょうど台北の下町に漂う臭豆腐の臭いみたいなものだとおもってもらえば当とも遠からず。
神保町を散歩する途中で、「伊峡」というラーメン屋さんに寄って、ここはラーメン店ということを超えて、好きだった。
なんの変哲もない、というと店をやっている人に嫌な顔をされそうだが、絵に描いたような「東京醤油ラーメン」で、薄味で、伝統の格式に従って薄っぺらいチャーシューと焼海苔が一枚、シナチクが1本。
義理叔父の記憶では、なぜか通りを挟んで向かい合うようにして二軒おなじ「伊峡」があったというが、わしが知っているときは、もう、一軒だけです。
神保町でお腹が空くと、行きたい店が多すぎて、困って、取りあえず伊峡でラーメンを食べながら、どの店でなにを食べるか考えて、キッチン南海や、共栄堂、ボンディ、ときどきは白山通りを渡って「新世界菜館」に出かけたりもした。
気候がよくて涼しいときは、子供のときから好きだった北京亭にまで足をのばしたりしていたのは言うまでもないことです。
東京は、素晴らしい「cheap-eats」の町で、天一本店や岡半、赤坂璃宮のような値が張る店で良い店も、もちろんあるのだけど、例えばインド料理なのに良いワインを頼めば、軽く50万円というようなコストがかかるウエストミンスターの「Cinnamon Club」
のような、オカネの価値を知らないアラブの王族めあての商売してるんじゃないの?と言いたくなる、ぶわっか高いレストランが林立するロンドンやニューヨークとは異なって、神髄は、やはり600円で天にも昇る心地になる天丼をだす「いもや」のような店が無数にある揺るぎない現実のほうにあるでしょう。
他国人に「安い、安い」と、あんまり言われれば、どんな国の人だって、いい気持ちはしないが、
東京の物価のなかでも特においしい食べ物の安さについてtripadviserのレビューで強調している人たちの気持ちは、多少の優越感が滲んでいるものとは異なって、純粋に「おいしいのに安くてぶっくらこいた」と述べているにすぎない。
日本の人自身は、その「安さ」が、どんな犠牲の上になりたっているか判っているが、安さに驚く外国人たちの顔を、なるべき表情を殺した顔で、微笑して、黙って眺めているだけだが、
どうせ非日本語人に話しても判ってもらえはしない、やるせなさは、やっぱり心のどこかに感じているもののよーでした。
すっかり満足した気持ちで、午後の「スヰートポーヅ」や「エチオピア」、あるいは夜も少し遅くなった「三幸園」から出て、店の前に立って、さて、これから、どこへ行こうか、と考える。
東京には、シンガポールやニューヨークやシドニーのような忙しなさはなくて、あんなに人が多いのに、どこかが、ゆったりしている。
ちょうど、熱燗の日本酒を呑むペースに似て、口当たりはいいが強い酔いが、夜と一緒に、すこしずつ、深くなってゆく。
タクシーを止めて、外国人なら、みんな、いちどはぶっくらこいた記憶がある人もいないのに、すうううっーと開くドアから後ろの座席に乗って、行き当たりばったりの行き先を告げて、通りの両側に並ぶ、ネオンの洪水を見つめている。
たくさんの人が、どこかに向かっている人特有のおもいつめた顔で、俯いて歩いている。
ネオンを見上げているのは、マヌケな外国人観光客だけです。
窓から眺めていて、自分もそのひとりなのは、すっかり失念して、ああいうのは、「おのぼりさん」と言うんだったな、と、まだいちども使ったことがない日本語を思い出す。
昼間は、あれほど雑然とした街なのに、夜になると、街全体が急速に詩に近いものになってゆく。
きみに知識があれば、降りてきた闇のなかで、コインロッカーに制服を突っ込んで、日常から遠く離れた色彩とデザインの服に、仮面をつくるような化粧をして、通りへ出てゆく女の高校生たちや、ドレスに身を包んで、赤い髪の鬘をかぶって、颯爽とクラブへでかける、若い男のサラリーマンたちを透視することもできる。
週末さえ待たずに、夜毎夜毎、昼間の過剰な正気から夜の過剰な狂気へ滑らかにシフトしていく日本人の日常は、目の当たりにした人間でないと想像もできないし理解も出来そうもない。
ときどき、日本の人が緑が豊富に存在して、天も地も、ほぼこの世のものでないような美しさの「田舎」を嫌って、都会にばかり住みたがるのは、この「夜の狂気」の魅力から逃れられないからかも知れないとおもうことがあります。
義理叔父が高校生だった1970年代にはすでに、夜の青山や赤坂、六本木には、赤い色や緑に輝くラメのジャケットとスパンコールを星空のようにつけたTシャツに身を包んだ高校生たちが、「確かな未来」と引き換えに、ダッサイ表情とイモいファッションセンスを手に入れた大学生たちを鼻で嗤いながら、ダンスクラブや夜明けまで開いている「六本木墓地裏」のバーで、日本社会では大罪のマリファナに耽っていたという。
東京には昼の取り澄ました、ロボットじみた昼間の顔とは別の、夜の、狂気に輝く顔の、ふたつの顔があったのは、そうやって、随分むかしからのことのようでした。
その常軌を逸した狂気のなかから、あんまりおおきな文化が育ってこなかったのは、なにが原因なのかわからないが、傍でみていて、とても残念なことだとおもう。
あるいは自分が生まれてきた社会と較べて、階級社会が存在しない人間にとっての幸福が、一方では、異形の文化を育むことは固く拒絶してきたのだろうか、と考えることもあります。
それとも、日本の人の国民性の、本質的な穏やかさのせいだろうか。
傍観者となって、夜の闇から闇へ移動して、ときには札付きの「スポーツバー」で、日本人の
若い女の人や男の人を「みんなで無理矢理裸に剥いてキメてやった」犯罪を声高に、自慢げに話しているグループに出会ったりして、昼間とは別の、「東京ツアー」をひとりでやっていたこともあった。
もっとも、そういった異常さを求めてアブノーマリティのサファリに出るのは、こちらも、あんまり楽しい気持ちでないときだけで、なにしろ生まれついてノーテンキなので、
たいていは、ひとりで瀬里奈ビルに出かけて「鳥そば」を食べたり、いま見るともうないようだが「Stairs」だったかな?南青山の友だちが好きなバーで待ちあわせて、次に探して貰いたい美術品について打ち合わせをしたりしていた。
いま思い出してみても、東京は夜のほうが人間の匂いがする街で、下町の居酒屋でも、TimeoutのBest cocktail bars in Tokyoのような特集記事に並んでいるようなバーでも、昼間は人間でないなにかを演じていたひとびとが、まるで時間が生みだした暗がりの楽屋にもどって化粧を落とすようにして、世界中の自由社会の、どこにでもいる「人間」に返っている。
逆にいえば、夜の人間としての自分がいるから、昼間は社会の部品として働いていられるのかもしれません。
ラーメン店が初めて日本の文化に登場するのは、多分、この大半の文化人が顔を顰める「新しい食べ物」が大好きだった小津安二郎の映画で、「お茶漬けの味」の津島恵子と鶴田浩二がラーメンを啜るシーンは英語世界でも有名だが、この不思議な食べ物は、日本の、まるで趣が異なる昼と夜の世界を通貫して、表も裏も、あのズルズルと居ても立ってもいられなくなるような異界の音とともに一緒に歩いてきた。
考えて見ると、世界中くまなく探したって、そんな食べ物はなくて、いまのように普遍的な食べ物の筆頭になるのも、ちゃんと理に適ったことなのだと納得する。
ラーメン、また食べにいくかな。
このあいだ出かけた「一風堂」は、そう言っては悪いが、あんまり出来が良くなくて、ぬるいスープにクタクタの麺で、価格ばかりが一風堂で、がっかりだったので、
今度はタンポポにでも行くかしら。
毎年日本にラーメンツアーにおもむく友だちによると、タンポポで出すのは純正東京醤油ラーメンで、「ランチタイムに無料でついてくるオマケ餃子の数も、ちゃんと日本の伝統通り四個なんだよ!」と感に堪えたように述べていた。
てっぺんかけたか。ラーメンたべたか。
ラーメン、うまいか、しょっぱいか。
オークランドには夜の狂気は存在しないが、こっちはもうすぐ40歳で、いいとしこいて、それどころではないので、おいしいラーメンを食べるくらいで、「狂気」は、我慢するのがよさそうでした。
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ラーメンは母の衛生基準を満たしていないという理由で親にお店に連れて行ってもらったことはなく、したがって懐かしさもなく、脂ののったスープも胸焼けがして、好んで食す部類の食品ではないのですが、天下一品のこってりラーメンだけは時々食べたくなります。
大学の一年先輩の岩崎さんが、ちょっと変わったラーメン屋があるよと連れて行ってくれたのが、天下一品というラーメン店。今では全国展開のチェーン店になっているけれど当時(30年前)は京都と大阪にしかなかったはず。多分。
岩崎さんは、夜中にビルの窓から何かが見えたらしくそれを掴まえるためにその先まで行ってしまった。ある夏のこと。
その頃、同じく研究者の卵だった私も、将来の不透明さに幾許かの不安は抱きつつ、そこはバブル時代の申し子よろしく、悪いことは起こらないだろうと絶望感や敗北感は不思議と感じてはいなかった。「負け組」だったけれど。
ラーメンと言えば、岩崎さんのことを思い出す。あの夏の夜、彼には何が見えたのだろう。それは、わたしにも見えたはずの何かだったように思う。
ほ、本文より上質なコメントを書くなんて、ひどい…
人間はやっぱり遠くを見てはいけない(危ない)んですよね
天下一品が、屋台店じゃない店をはじめて構えたのが、たしか1975年頃だった。白川通りを銀閣寺から北へ上がって、一乗寺と修学院の中間、白川通りをはさんでホテル修学というラブホの真向かいのビルの1階だった。北白川あたりの下宿で夜な夜な麻雀して駄弁って、小腹がすくと、連れだってバッティングセンター横のうどん屋台のたこ八か、新規出店の天下一品に行った。
たこ八でのこと。深夜、先客が二人いる。学生数人は隅っこに座って肩をすぼめてうどんを啜っていると、屋台の外から「お、ちょと来い」と声がかかる。派手なシャツの一人が、「はっ」って言って、食いかけの丼を残して立ち去る。残った客が店の兄ちゃんに「ひし形か、小鉄か」。兄ちゃん「小鉄」。おおー、リアルヤクザ、左京区北白川も夜は別世界やってんわ。
新しくできた天下一品に行くと、人がたくさん立ち働いていて、ぴかぴか明るくて、なんだか清潔な感じがした。臭いはきついし、スープは豚骨白濁の超どろどろなんだけど。あれからなんと50年も経ったとはね。
そうかanonymous先生(^^;)は京大でしたね。
喚起力のあるコメント、だいさんきゅ
私も天下一品を京都で覚えて大好きです。あのスープが最高です。
(先にお二方も書いてらしてびっくりしました)
旅先とかでも何も考えないとつい足が向いてしまいます。
息子も(濃い重い味は苦手なのに)中学生の頃からなぜか天下一品だけは好きです。
最近随分値上がりしましたが味のためには止むを得ないかと思ってます。
ぜひ一度どうぞ!
天下一品の思い出に仲間入りさせてもらいます。
北白川よりもっと北の岩倉に住んでいた。父親は吉田の大学の事務で、どちらかというと貧乏だったのでめったに外食などしなかった。ただ、天下一品は、時々父親の軽自動車に乗って、鍋を持って買いに行った。辛味噌やにんにくはアルミホイルに包んでくれた。お店にあったプラスチックのザルに山盛り取り放題のネギも袋か何かに入れてくれた。家で食べる、少し麺ののびた天下一品が私の標準になった。
吉田の大学生になり、当時のカレシの当時のいちびった車でも時々行った。駐車場に入れるのが大変だった。お店の床はスープのように粘り気があった。まだネギは取り放題、学生は50円引だった。当時のカレシは、天下一品を食べた後、必ずお腹を壊していた。私は大丈夫だったのに。
もう北白川バッティングセンターも、向かいのラブホもとっくに無い。帰省した時に行くと、必ず大行列でかなり待つ。昔も時間帯によってはそこそこ待ったけど、今はもう必ず待つ。みんな天下一品は硬めが好きみたいだが、私の中ではあの、鍋で買いに行って家で食べた、やわやわの麺が今でも天下一品なのだ。
明日から京都に帰るので、行きたいけど、この暑さの中、待つ体力がなさそうです。
スヰートポーヅも閉店しましたね…。
日経ビジネスがね、寝るな日本人、国は夜から衰退する、なんて連載記事を載せててさ、日本の夜を萎えさせないだとか、夜の本能を呼び覚ませだとか、夜の狂気の中でしか繁栄を実感できないダメな大人を体現するようなヘッドラインばかりで、流し見するだけでこっちが恥ずかしくなったのを思い出したよ。
家庭のなかで常に良い子でいることを強制されている子供が、一歩、親の目の届かない家庭外に出たら、手の付けられない悪童に様変わりするように、こういう大人としての教養が欠如したダメ人間が蔓延る原因が、過剰な昼間の正気であることは言うまでもないと思う。
大人は布団に潜るとき、時計を見やって、あと何時間後には出勤だ、と思いながら目を閉じる。東京の通勤ラッシュの満員電車の様子を見れば、明日朝日が昇らないことを願いながら、時計の針を忘れるように、夜の狂気に溺れていたがる無軌道な大人の気持ちが、分からなくもない。
東京は2,3日ぐらい遊びに行くところであって、ずっと住むようなところじゃないよ、なんてのは、外国に出たこともないような日本人でもよく言うセリフですね。
東京は面白い街で、とても特別な場所だというのは、間違いなく正しい。初めて東京に行った時、新幹線から見下ろした世田谷の街並みでさえ、とんでもないトコロだと思わされた。ただ、その足元でどれだけのものが犠牲にされているのかと思うと、住む気にはなれない。