司馬遼太郎は面白い人で地上の世界を五階くらいの高さから見ている。
街路全体を眺めるときだけでなくて、個人を観察するときまで五階から見ているので、輪郭も表情もぼんやりしているが、歴史小説という分野では、そちらのほうが合っていたのかもしれません。
普通の小説家は一階の窓から通りを見る。
だから細部に観察が及ぶし、感情が届く。
ほら、普通の会話でも「あの人とは、ちょっと距離をおくことにした」というでしょう?
あれは必要な感覚でミリ波レーダーを使う人もいれば測距儀の人もいるが、だいたい、どの人も
「このくらい離れていると、ちょうどいい」という距離が判っているようです。
マンガは、すぐれたメディアだが、この「距離」を取るのが難しいメディアのようで、マンガの登場によって、なんでもかんでもマンガで疑似体験したり、マンガを読みながら思索したりすることになっているが、マンガの世界での世界への距離は感情が届く範囲で、近くて、ときには顔と顔がくっつきそうなほどドアップなのでマンガを携えて世界を旅する人は、テキストベースの書籍をポケットにいれて旅する人に較べると、感情の消費量がおおくなるもののようでした。
めんどくさいのでシン・ツイッタと呼ぶことにしているが「X」という、いかにもイーロン・マスクで大阪弁の「やんきい」なおっちゃんの趣味にどんどん染めあげられているSNSも、英語と日本語では、話者の距離がおおきく異なっている。
日本語では教室の対角の距離を出ない、というか、中学生が教室のなかで怒鳴りあったり、一緒になって笑ったり、「先生、尾田くんが、学校の悪口を言ってます!」と声を張り上げたりしているようなところがある。
英語のアカウントが放送室のマイクの前に立っていそうな距離を基準にしているのと対照的です。
多分、日本なら「空リプ」って言うんだっけ?誰にともなく「つぶやいて」みたり、
席から立ち上がって、教室のみんなの顔を見渡しながらなにごとか述べるところで、英語では、それが他人への反応ならば、アカウントに宛てて書くことが多いのも同じ理由なのだろう、と独り決めに決めている。
インターネットが普及し始めたころ、「世界に向かって発信」したり「世界の人とわかりあった」りするはずだった日本語ネットは、世界に向かって発信は夢のまた夢で、二十数年が経って気が付いてみると、日本語世界の、それも、ある種のひとびとの解説によれば、眉唾だが、「ごく偏った傾向のひとたち」に、それも360度に広がった光輪ではなくてスポットビームで発信することになっている。
「分かり合う」ほうも、がっかりしたことには、分かり合うどころか、お互いに、いかに分かり合えないかが、毎度毎度くっきりと浮き彫りになって、しかももっと悪いことには、英語やなんかが読めるひとたちにとっては、そもそも世界は日本になんか関心を持っていないことが判ってしまった。
待って待って待って!
と、きみは言うであろう。
関心がないってことは、ないんじゃないの?
ピカチュウは世界中で大人気だし、このあいだはフランスの高名な映画批評家が「風立ちぬ」は訳がわからん、とレビューを書いていた。
ゴジラは頭が小さく、十六等身くらいになって怪獣というよりトカゲの親方みたいな姿に変わり果てたとは言っても、ハリウッドで映画化されて大人気だし、このあいだは「忠犬ハチ公」まで映画になっていたじゃない。
うん。
そうなんだけどね。
ドラゴンボールZやセーラームーンを観て育った、ぼくも日本文化は大好きなわけだけど、どういう仕組みなのか、日本文化と日本の人のイメージがまったく合致しないの。
日本にいてみたときでさえ、「もしかして、日本の人は『自分たちではないもの』をファンタジーとして心のなかに存在する「日本」で呼吸させて、夢のなかで生きている人のように、仮想された自分のほうを現実だと考えて生きているのではないか、と疑うことがあった。
ヘンテコリンな、キレた、血相を変えたオヤジに怒鳴りつけられながら、この野郎、ぶっ殺してやる、という気持ちを抑えつけて、頭をさげて、申し訳ありませんでした、と繰り返している自分は、なにか抜け殻のようなもので、真の自分は、「社長に代わって、おしおきよ!」というわけにはいかないが、理不尽に怒鳴られもせず、メガネをかけて青白い秀才に見えるけど、シャツを脱ぐと筋骨隆々とした、それでいて、こちらの気持ちを隅々まで指でなぞるように理解してくれるやさしさをもった男に肩を抱かれて恍惚となっている。
日本の人は、白昼夢のなかで生きているのではないか。
(それも案外理想の生き方のひとつかも)と考えてみたりした。
わたしは、ですね。
自分でも、うんざりするくらい現実主義的な人間なんです。
想像力で再構築した世界や、ある場合には空想の世界で、生きていくという複雑なことができない。
なんだか、手で触れられないものは、存在していないと決めているようなところがあります。
ベッドの横で、すやすやと寝息を立てている妻の横顔を覗き込んで、あんまり非現実的に美しいので、指でツンツンして、眠ったままなのに、精確に、おもいきり脛を蹴られたりしているのは、そのせいですね。
結婚したときに、ガメは、なにをしても壊れなさそうなところがいいよな、と述べていたが、
もしかしたら、ツンツン未来を見透していたのだろうか。
ところが、こういう現実主義は日本語では通用しないのが判ってきた。
なぜか。
日本語の人の側で、現実を生きていないからなんです。
もう少し詳しく言うと、現実を生き延びている自分と言葉で世界を解釈している自分とのあいだに疎隔が存在して、極端な場合には、まるで乖離したふたつの人格を生きているようでもある。
あの低い時給で、あんなことや、こんなことまでやらされて、正社員以上の仕事を要求しておいて、「こんなことも判らないなんて、経営を少しは勉強しなさい」とまで言われる。
経営を勉強する分も時間給だせよ、このハゲ、とおもうが、そんなことは口に出せません。
同僚も、両親も、かわいげがない弟も、学校の友人たちですら、人間と人間でないものと、両方の役目を分けて、分担させて生きているからでしょう。
さて、本題。
今日は、すごいですね、4ページ書くのに、3ページ目で、もう本題が出てくる。
我の進境は筆舌に尽くす能わず。
分離した、ぶれた二重写体のようなふたつの自分を、鮮明な像を結ぶ、ひとつの映像にする方法はなにかというと、特に日本語社会の場合は、距離を通常の言語社会より、少し遠くに取ることであるようです。
怒鳴りまくってるクズおやじが、「怒鳴るのはわかるが、なにを言っているのかわからない」くらいに意識を調節する。
たとえばSNSで向こうから手をかけてくるゲス野郎(今日は言葉が悪いね)には、断乎噛みつき返すという考えもあるが、シカトという方法がありますね。
そうすると、なにしろ悪意を発揮する練習ばかり積んで50歳になんなんとするゲスおやじは
「観ろ、図星で言い返せないから、黙り込んで知らん顔するんだ」と言い出すに決まっているが、
いや、それはそうではなくて、あんたがケーベツされているから返事が返ってこないんです、というコンセンサスを形成すればよい。
この方法には欠点があることは認めざるをえない。
「だって、ガメ、そんな距離の取り方してると収入がなくなって食えなくなるじゃない」
パチパチパチ。
その通りです。
そこで「人生計画」の登場になる。
むかし、わし親友のjosicoはんは、バルセロナでタコ焼きの屋台を開いて独立する、というビジネスプランをローンチして、とにかく、開業資金をつくらねば、と述べて、それまで働いていたゲーム開発会社をやめて、なんとかアメリカで開業資金をひねり出そうとしたら、就職したCG開発会社がアマゾンに買収されて、どどどどおおおおんと高級な高給を公休が多いにも関わらず払ってくれることになって、そのあとSNS会社に転職したりして、タコ焼きの売り上げよりもゼロが多いオカネが貯まってしまった。
しかしですね。
これも、タコ焼き屋台を開くという独立人生計画を立てなければ起こらなかった好運で、
ジジぽいことを述べれば、成功する人生計画なんちゅうのは、そういうもので、
計画に踏み出して、ドアを開けてみると、おもわぬ風景が広がっていて、な、な、なんだここは、とおもいながら、そのまた先に、今度はいくつかあるドアを開けると、また全然予想もしなかった景色が展開している。
なにもしないで考えていたときにはドアの向こうは断崖だったりして、とおもったが、そういうことは実は滅多に起こらないことで、特に21世紀においては、歩き続け、安定を求める気持ちを排して、少しでも面白そうなほうへ、自分が楽しくなりそうなほうへ歩いて行くことが、実は最も安全な人生へ自分を導く方法でもある。
ここでついでを述べると、言語が母語と異なる社会であれば、なおよくて、なんとなれば、よっぽどの言語大天才でもなければ、初めから、隣に座っている同僚とさえ遠い距離がある。
言語が身についたあとでは、今度は、元々、自分と他人の「適正距離を保つ」のが主眼の個人社会における振る舞い方が自然と会得されているので、あとは、突然近付いて来て、肩をぶつけられたり、いきなり前に立って、おまえは狂人か、それともバカか、両方なのか、と言いたくなる絶叫おやじと遭遇することもなくなります。
つまりね。
自分と世界のあいだの関係は、いずれ、どこかで検討しなければならなくなるに決まっているが、そのときに「距離」という概念を頭においておくと、いいことがあるであろう、ということを述べている。
わたしですか?
わたしは現代世界のユーレイみたいなものなので、距離もなにも、誰からも見えません。
モニさんという人にとってだけ確固な現実で、あんないけないことや、こんなひとにいえないことにふたりで耽りきって、モニさんは夫が現実の存在であることを、いやというほど、よく知っている。
なんか、今日は、お下品ですねって?
きみ、愛は神聖なものですぞ。
小さな死を死ぬことは魂を浄める。
なんちて。
でわ
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押してダメなら引いてみろ、でしょうか。いくら鼻息荒く頑張って突っ張り突っ張りしてみても「個人」はわかんない、他人の吐いた五色の夢の中を揺蕩っていながら身体はしっかり殴られる。1人になれるところまで引いて引いて引いて…自分と世界の姿が見える