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沖縄・興南高のエースとして甲子園に3季連続で出場し、チームは計3勝を挙げた。広島商高(広島)に2度、上宮高(大阪)に1度、惜敗し、3回戦が最高だった。だが、その才能はプロの目に留まり、仲田幸司(57)は1983年秋、ドラフト3位で阪神に指名された。
入団までの経緯は込み入っている。継父はドラフト直前、12球団どこでもいいという息子に黙って、「巨人しか行かない」と各球団に手紙を送っていた。「最高の環境で野球をさせたかったのはわかる。でも、時にむちゃくちゃなことをする」と仲田はあきれて振り返る。
阪神は3位指名をもくろんでいた市尼崎高(兵庫)の内野手、池山隆寛をヤクルトにさらわれた。ここで、仲田の指名に懐疑的なスカウトを説き伏せたのが、監督の安藤統男(82)だった。「責任は取る。巨人志望の法大・田淵(幸一)だって来てくれたじゃないか」。強行指名に踏み切ると、安藤の熱意に、最後は継父も折れた。
入団後は成績が安定しなかった。88、89年と開幕投手を務めた。しかし、勝ち星が伸びない。「何で一軍にいるんや?」。嫌みを言ってくるコーチもいた。
1勝に終わった8年目、91年の秋のキャンプは「この1年が勝負」と覚悟した。同期の中西清起が、左足を上げた際、つま先を見てリラックスを図っていたと聞き、わらにもすがる思いでまねてみた。捕手から一度、目線を切って投げたら、体が突っ込む悪癖が解消し、制球が安定した。直球とカーブだけだった球種も増やし、スライダー、スクリューボールも磨いた。
翌92年は、前半戦だけで9勝を挙げる快進撃を見せた。球宴に初出場し、本拠地・甲子園で優秀選手賞に輝いた。公式戦ではチームを優勝争いに導く。だが、首位で迎えた10月6日のヤクルトとの天王山。初戦の先発を前に39度近い高熱を出した。トレーナーに「行けるのか」と聞かれ、「投げます」と即答した。1失点完投も、ヤクルトの主砲、広沢克実に浴びた一発で敗れ、1球に泣いた。この年、チームは2位で終えた。
自己最多の14勝を挙げ、最多奪三振のタイトルも獲得。投手としての全盛期とも言えるシーズンだったが、「優勝していたら、人生、変わっていたかもしれない」と後悔だけを残している。(敬称略、随時掲載)