地下鉄サリン事件はなぜ起こったか マインドコントロールの真実
かつて日本中を震撼させた集団・オウム真理教。教祖は麻原彰晃こと松本智津夫元死刑囚。信者12人の死刑が執行されて5年となるが、いまだにそのマインドコントロールに苦しむ女性がいる。
インタビューに応じてくれたのはオウム真理教信者の二世として生まれた女性。「小学生でしたので教義を信じて入ったわけではない。お稽古事の延長みたいな感じで最初は入った」と話す。脱会からは30年弱ほど経つが「それでもまだオウムで習った考え方寄りになっていたりして、一番子どもの時代の土台になった部分なので、条件反射のように出てきます。とっても煩わしいです」「できるならばオウムにいた記憶は消してしまいたいですけど、マインドコントロールを受けていた時代の記憶がふっと蘇るんですね、フラッシュバックするように。そういうのが2世の苦しみだと思います」と答えた。
そんなオウム真理教とは一体どんな団体だったのか?再現ドラマを交え紹介した。
1995年3月20日、朝のラッシュ時間の東京の地下鉄に猛毒ガス・サリンを撒いたオウム真理教。その2日後、山梨県旧上九一色村の教団施設に警察による強制捜査が入った。幹部たちは次々と逮捕されたが、麻原の姿が見当たらない。
強制捜査開始から55日経っても教祖の姿は見つからなかった。そんな時、応援に来ていた所轄署の刑事は信者が換気扇カバーのようなものを補修していた様子に違和感を覚えた。補修工事していた箇所を内側から見てみると何もなさそうなただの壁だったが、これをハンマーで壊してみると、そこには麻原がいた。
麻原は高さ60センチ、幅1メートル、長さ3メートルほどの棺桶のような部屋にたった一人隠れていたのだ。そこには現金960万円が無造作に置かれていた。こうして麻原は逮捕された。
そんな麻原に心酔し、人生を狂わされた信者・土谷正実元死刑囚。彼はサリンを作った男だった。有名国立大学のエリートだった土谷はなぜ、オウムに入信し、殺人兵器を作ってしまったのか?
1980年代後半、バブル景気真っ只中の一方で1999年に人類は滅亡すると言うノストラダムスの予言がまことしやかに広がり、漠然とした世紀末に対する不安もあった。そんな時代背景から、不思議な能力にのめり込む若者たちが多かった。
土谷は筑波大学に進学し大学院で化学の研究をしていた。土谷は将来への不安をいつも抱えていたという。そんななか友人に誘われ、オウム真理教のセミナーに顔を出すとそこで村井秀夫と出会う。大阪大学から大手鉄鋼メーカーに入社という経歴を持つ元エリート。教団のナンバー2にまで昇りつめ、サリン事件の後、テレビの前で教団の無実を訴えた人物だ。後に、生中継中に暴漢に襲われ殺害される。その村井が土谷の人生を大きく狂わせることになる。
村井の話に興味を持った土谷はオウム真理教の道場へ。そこで見たものは必死に修行に打ち込む信者たちだった。そして言われるままに修行に参加すると、体が飛び跳ねるような信じられない感覚を得たという。
土谷はオウム真理教に入信。それから、送られてきたテープや本を読みながら修行する日々を送った。やがて出家をしないかと誘われた土谷だったが、その誘いを断っていた。出家をすると家族の縁を切って教団施設で暮らすことになるため、当時はそんな気持ちにはなれなかったという。
その頃、のちにオウム真理教被害者の会・会長として教団と対峙する人物、永岡弘行さんはオウムとの戦いを決意していた。当時、永岡さんの息子がオウム真理教に入信し行方がわからなくなり、入信した子を持つ数人の親と一緒に法律事務所へ掛け合っていた。
この時に相談した弁護士が坂本堤弁護士だった。坂本弁護士はオウムの異常性にいち早く気づき教団と戦う姿勢を見せていた弁護士だったが、のちに教団に殺害されてしまう。
山梨県にあったサティアンと呼ばれる建物での想像を絶する信者たちの生活について、元信者の女性は「入ると壮絶に汚いんですよね」「たとえば食事とかも、1日1回配給があるかないかです。たまに腐ってたとしてもそれでも食べなくてはいけない」と語る。
そんな状態で行われる修行は、高額のお布施をした者にはシールドルームと呼ばれる2畳ほどの個室で行われ、末端の信者は蜂の巣ベッドと呼ばれるところで暮らしていた。信者は頭にPSIといわれたヘッドギアをつけていた。
元信者の女性は「後ろに電極がついてまして、教祖の脳波と同じになって解脱できる」「1週間くらいそれに繋がれていて、お風呂にも入れない、ずっと寝てるような生活を体験しました」と振り返る。そんな劣悪な環境下でも信者は麻原を絶対と信じ崇めていた。
オウム真理教には「キリストのイニシエーション」と名付けられた儀式があり、その儀式に使用されたのがLSDだ。瞑想によって得られると信じていた神秘的体験を薬によって実現させていた。幻覚と恐怖から信者は教団に逆らう気力を失うという。
さらに、信者が恐れていた温熱療法と呼ばれる儀式は47度の風呂に15分入るというもの。さらに5分ごとに50度のお湯をどんぶり一杯分飲まなければならない。これを10回繰り返す間に、意識を失う者もいたという。こうした方法で冷静な判断ができない状態にし、信者を獲得していった。
一方、坂本弁護士は教団の異常さを世間に訴えるためマスコミを呼び記事を書かせ、永岡さんを会長にしたオウム真理教被害者の会を発足。
被害者の会には42人の親が集まった。当時大学生だった永岡さんの息子が入信するきっかけとなったのは麻原の本だった。そして、オウムのセミナーに参加すると30万円のセミナーに勧誘される。そのお金を父から借りられなかった息子は教団から金を借り、セミナーに参加してしまう。
麻原が衆議院選挙に立候補すると信者たちは選挙活動に駆り出され、そこに永岡さんの息子もいた。息子は満足に睡眠や食事を与えられない中、麻原のマスクを被って何時間も立たされ続け、そのあまりの苦しさに公衆電話から父に助けの電話をかけたのだった。永岡さんは聞いた場所に急いで行き、駆け寄る信者をおしのけ息子を取り戻すことに成功。一方、麻原が立候補した選挙の結果は敗北に終わった。
麻原は敗北の理由を国家の陰謀だと主張し信者たちに反社会的精神を植え付けていった。この頃から世間も、オウムという教団がかなり異常な集団であることを認識し始めていた。
そのころ、土谷はオウム真理教にどんどんのめり込んでいた。土谷はアルバイトを掛け持ちし、「シークレットヨーガ」と呼ばれる30万円の麻原の個人面談に参加。一方で、心配した身内は土谷をオウムから奪還。そして、ある更生施設に隔離しそこにやってきたのが永岡さん親子だった。永岡さん親子は、息子が脱会したあと一緒に被害者の会の活動を続けていた。
息子は土谷にオウム真理教のおかしさを説くが、土谷は何を言っても耳を貸すことはなかった。しばらくするとオウムの反撃がはじまり、更生施設の前で「土谷君を解放せよ!解放せよ!」と24時間騒ぎ立てていた。さらに人身保護請求をし、更生施設の住職は東京の裁判所に出頭することに。
住職はマインドコントロールを解くため、必死の説得を続けるも一瞬の隙をついて逃走した土谷はそのまま出家。教団に戻った土谷はその後サリンを製造することになる。
一方、のちに死刑となる信者たちは麻原の命令で恐ろしい事件を引き起こしていく。その標的となったのが坂本弁護士だった。5人の信者が、坂本弁護士、妻、息子を殺害し、遺体をそれぞれ別の場所に埋めた。坂本一家と連絡がとれないことを不審に思った親戚が様子を見に家に来、そこでオウム真理教のバッジを発見。
これは犯行に加わった信者が落としてしまったものだった。麻原はメディアに対して弁明し、信者には国家の陰謀だと伝えた。信者たちは、この国家の陰謀という主張を信じていた。
信者たちは、オウムの修行によって最終戦争を回避し人類を救済できると信じさせられ、入信していた。人類の救済を名目にオウムはどんどん過激な集団となっていく。そしてサリン製造へと向かっていく。
きっかけの一つは長野県松本市での出来事だった。山内氏という弁護士のもとにオウムとは名乗らなかった人物に土地を売ってしまったという相談が来ていた。オウムはそこに工場を建設する予定だという。
相談者はその売却の無効を求め、弁護士に相談し裁判へ。松本市民とオウムの裁判が続く中、麻原は土谷に「私の見たビジョンでは1997年から日本の崩壊が始まるんだよ。そこで君が現世で学んできた知識・技術をマンジュシュリー(村井)に貸してやってほしいんだけど、どうだろう?」と掛け合った。そして化学兵器の分析方法を検討して欲しいと村井から依頼を受ける。さらに村井から「ソマン、サリン、VXの標準サンプルを作ってほしい」と依頼される。ソマン、サリン、VXはどれも毒性の強い化学兵器だった。
村井はあくまで自衛のために化学兵器を持つのだと土谷に説明していた。こうして土谷はサリンの製造に着手し30キロのサリンを生成。
土谷がサリンの生成に成功した頃、土地の売買をめぐる裁判はオウム劣勢だった。裁判を中止にさせるため「松本の裁判所にサリンを撒いてサリンが実際に効くかやってみろ」と麻原は信者に指示。村井は2トントラックを調達し、信者にトラックの噴霧車への改造を指示。
事件当日、村井が予定の3時間後にやってきたため予定より遅れて裁判所へ夜に到着。狙いを裁判所の宿舎に変更した。しかしその近くには裁判所とは無関係の民家があり、住んでいたのはある会社役員だった。村井たちは裁判所の宿舎を狙うため近くの駐車場へ。ところが風向きが変わり、サリンは会社役員の家の方へ流れた。すると会社役員の奥さんが倒れ意識不明の重体に。
この事件により660人以上が負傷し8人が死亡したがまさかオウムの仕業とは誰も思わなかった。翌日の新聞には「住宅街の庭で薬物実験」とまるで会社役員の男性が犯人かのような見出しが並んだ。事件から6日後、化学兵器・サリンが原因物質と特定。だが会社役員への疑惑は払拭されなかった。
その事件について、永岡さんはオウムの犯行を確信していたが警察にはまともに取り合ってもらえなかった。
一方麻原は新たな化学兵器VXの製造を土谷に指示。VXとは、神経ガスの中で最も毒性が強くサリンの約700倍から1000倍の毒性があり皮膚にわずかに付着するだけで死亡と言われる猛毒の神経剤。それを土谷はわずか3ヶ月で製造してしまった。
次の標的となったのは永岡さんだった。永岡さんは被害者の会・会長として息子と共に25人の信者を脱会させていたことで麻原に狙われたのだ。そんな時「上九一色村にサリン残留物」と読売新聞がスクープを出し、これにより松本で起こったサリン事件はオウムの犯行という疑いが強まり会社役員への疑いは晴れていく。
1995年1月4日、永岡さんの自宅近くに信者たちが集まっていた。年賀状を出すために外出した永岡さんがポストに年賀状を入れようとしていたその時、2人の信者が背後からVXをかけ逃亡。永岡さんはのちに全身の痙攣と筋肉の硬直が起こり、大学病院での医師の診断は「有機リン中毒」。奥さんはオウムの犯行だと思ったという。永岡さんは奇跡的に一命を取り留めた。
そして地下鉄サリン事件の1ヶ月ほど前、目黒公証人役場の假谷さんが、オウム真理教の集団に拉致された。假谷さんは、妹が薬物を飲まされ意識朦朧となった状態で全財産の4000万円を騙し取られたことからオウムに返還を求めていたのだ。
この事件は初めて警視庁の管轄内で起きたオウムに関連する事件だった。これにより警視庁が上九一色村に踏み込んでくることになり、オウム幹部は焦りの色を濃くし、教団は隠蔽に奔走した。その数日後地下鉄サリン事件が起こることになる。
麻原は村井の「密閉された電車内で(サリンを)噴霧すれば威力は大きい」という意見を聞き「それはパニックになるかもしれないなマンジュシュリー(村井)、お前が総指揮をやれ」と捜査の矛先を逸らすその場しのぎのために地下鉄サリン事件の計画を決定した。
遠藤誠一元死刑囚の主導でサリンの製造が開始されたのだが遅々として進まない状況に土谷が手を貸し、サリン混合液ができあがる。1995年3月20日、実行犯は地下鉄へサリンの入った袋に傘を突き立て人々の命を奪った。死者13人、負傷者は約6400人にも及んだ。地下鉄サリン事件を起こしたが捜査の矛先は変わるはずもなく警視庁捜査一課を中心とした2500人体制で全国25ヶ所を一斉に強制捜査。5月16日、麻原は隠し部屋に潜伏していたところを発見され逮捕。その後2006年9月15日に死刑が確定。しかし、麻原は最後まで何も語らなかった。
今回取材したオウム二世の元信者は「今考えるとおかしいことだらけだなと思います」「やはり、子供時代・青春時代を宗教によって塗りつぶされてしまった人たちがいるということ、今はもがいて苦しんでいる人たちがいるということを知ってもらいたいなと思って出てきました」と話す。
被害者の会の会長として活動してきた永岡さんの奥さん・英子さんは「会員の子供さんが全部やめるまでは解散はしない」のが「大きな目標」で、「会員の中でまだ結構いますもんね、やめてない人が」と話し、永岡さんも「終わりがない」と語った。